赤ちゃん探偵

黒羽カラス

第1話 俺は名探偵

 赤ん坊に転生する以前の俺は興信所の所長をしていた。今風に言えば探偵だ。自画自賛になるが、かなり優秀だった。今でも頭脳は現役のつもりだ。残念なことに活かせる場面に恵まれなかった。

 そんな時、事件は起きた。浅い眠りから覚めた俺は周囲の野次馬の会話から状況を把握した。被害者は背後で倒れているらしい。様子を見ようとして首を限界まで回す。揺れる頭で横目となった。人物の足だけが辛うじて見えた。

 鑑識が来る前に全てを頭に叩き込まなければいけない。俺は手足をばたつかせた。

「どうしたの?」

 呑気な声が頭の上から降ってきた。構わず、手足を動かす。仰け反るような格好で意志を伝える。

「後ろが気になる?」

 ここぞとばかりに頭を縦に振る。少し気持ち悪くなった。

「興味があるのね。わかったから大人しくしていてね」

 腋の下に手を入れられ、軽々と持ち上げられた。くるりと回されて抱っこ紐の中に収まる。正面を向いたおかげで全貌が露わとなった。一気に高揚感に包まれる。

 グレーのスーツを着た男性が俯せに倒れていた。こめかみからの出血が酷い。鈍器による犯行が濃厚だ。黒く変色していない血が発見の早さを物語る。犯人は近くに潜んでいるかもしれない。

 俺は手足を乱暴に振った。同時に顔を何度も突き出す。

「もう少し近くで見たいのかな」

 俺は頭を振った。見事なヘッドバンギングを決めた。かなり気持ち悪くなったが近づくことには成功した。

 倒れている人物の右手に注目する。人差し指を伸ばし、床に何かを書き残していた。ダイイングメッセージだ。犯人にわからないように巧みに崩している。しかも文字の順番を入れ替えたアナグラム。現場で鍛えられた俺の直感に間違いはない。

「もしかして久恵ひさえさん?」

 後ろからの声に俺の視界が回る。まだ検証は終わっていない。猛抗議の意味で手足を激しく動かした。

「今日もノブ君は元気だねー」

 茶髪の女性が中腰になって話し掛けてきた。同じマンションに住んでいる隣人でスポーツインストラクターを生業としている。スタイルは悪くないが童顔は俺の好みではない。手を振って退けようとしたが久恵は意図に反して近づいた。

紗千香さちかさんがいるなんて、意外です」

「わたしは興味ないんだけどね。慶介けいすけのヤツがミステリーオタクなもんで」

 困ったような笑みで一方を指差す。若々しい顔立ちの大男が周囲を見て回る。大きく頷くとこちらに笑顔を向けた。

「移動するよ」

「わかった、すぐ行く。じゃあね、ノブ君」

 俺は頬っぺたを何度も指で突かれた。その態度が気に入らない。もつれる舌で、あばべべべばぶっ、と怒鳴ったが効果はなかった。こちらに小さく手を振り、笑顔で離れていった。

 どうにも腹の虫が収まらない。怒りを吹き飛ばす勢いで手足をぶん回す。少しすっきりした。検証を再開しようと被害者に目をやる。

 瞬間、切ない気分に見舞われた。全身が小刻みに震える。強い意志が根本から揺らぐ。何度、体験しても慣れることがない。凄まじい空腹に襲われた。

 抗い難い力が俺の口をじ開ける。視界が涙で滲む。津波のような感情を押し返すことが出来ず、俺は泣いた。猛烈な羞恥心に苛まれながら大声で泣きじゃくる。

「興奮したせいでお腹が空いたのね」

 久恵は再び俺を持ち上げて元の姿勢に戻す。見つけた椅子に腰を下ろすとブラウスの裾の一部を捲り上げた。現れた白いブラジャーを躊躇わずに上へとずらす。微かな甘い匂いでぴたりと涙が止まった。

 荒ぶる感情が静まる。冷静になった俺は被害者の方に目を向けようとした。謎を解く絶好の機会を見逃す手はない。

「どうしたの?」

 久恵が俺に胸を押し付ける。甘い匂いが強まった。意識が白く蕩けてゆく。赤くて丸い果実を咥えると夢中になって飲んだ。

 ああ、堪らない。この赤ちゃんプレイは本物だ。理性が、知性が、砂糖のように崩れて、何も考えられなくなる……。

 俺は口を離した。限界まで飲んだ。出っ張った腹を伸ばすような姿でゲップをした。背中を手でとんとんされた。

「お腹いっぱいになったね」

 久恵の声が遠くに聞こえる。眠気がぶり返してきた。落ちそうな瞼を堪えて目は被害者の姿を求める。

「眠くなってきたのかな」

 追い打ちを掛けるように俺の身体を左右に揺らす。目の前には柔らかそうな胸がある。必然と言わんばかりに顔が吸い寄せられる。

「よく飲んで、よく寝て、すくすく育ってね」

 声が遠い。顔が胸の谷間に挟まって抜け出せない。とても柔らかくて引き離し難い。この吸引力は侮れない。

 俺は瞬く間に甘い匂いに包まれた。


 いきなり目が覚めた。腹の下腹部が熱い。強烈な下剤を飲まされたような感覚は凄まじい便意であった。

 括約筋を引き締めるイメージを強く持ち、ゆっくりと周囲を窺う。多くのテーブルが目に留まる。横手の窓ガラスの向こうには大型バスが何台も停まっていた。

 視線を上に向けると久恵はモグモグと口を動かしていた。艶やかな唇はほんのりと赤い。ナポリタンが容易に想像できる。

 久恵の身体が前に傾いた。間もなくして頭上からコーヒーの匂いが漂ってくる。懐かしい香りが俺に安らぎを与え、同時に過酷な試練に立たされた。

 気が緩んだせいで下腹部の熱が下に移った。端的に言えば脱糞だっぷんした。かなり気持ちが悪い。涙腺が崩壊寸前に追い込まれる。

 俺は足を懸命に動かした。ぴっちりとしたギャザータイプに真っ向勝負を挑み、臭いの拡散に努める。

「……もしかして、やっちゃった?」

 久恵は困ったように微笑む。俺は目に涙を溜めて見せた。

 早々にトイレに連れて行かれた。中は広々としていて清潔感に満ちている。一目で多目的トイレとわかる。久恵は慣れない手付きで台を引っ張り出し、その上に俺を仰向けにした。元凶の紙オムツが取り外される。手持ちのウェットティッシュで剥き出しの尻を拭かれた。

 気持ち良さと肌寒さで身体が震える。解放感に浸っていると小川のせせらぎのような音が聞こえてきた。

「ま、待って、ノブ君」

 久恵が慌てている。生理現象は止められない。俺は赤ん坊らしく笑顔で放尿した。


 真新しい紙オムツのフィット感が実に心地よい。すっきりとした気分で俺は久恵と共に店を後にした。

 迷いのない足取りで駐車していた一台のバスに乗り込む。ゆったりとした窓際の席に落ち着いた。ふかふかの胸に頬を当てていると急に瞼が重くなる。エンジンの振動が全身に伝わって深い眠りに誘う。

 バスは発車した。加速するに連れて眠気の度合いが増してゆく。乗務員の明るい声がマイクを通して聞こえてきた。

「皆様、大変お疲れさまでした。ミステリーツアー『孤島ホテル撲殺事件、だ』にご参加いただき、誠にありがとうございました」

 睡魔に近い。言葉がはっきりと聞き取れない。赤ん坊に転生しても俺はだった。それだけで十分だ。


 ……待てよ、俺は事件を、解決した……のだろう――。

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