秘法師シリーズ外伝
文文文士
【黒い霧雨】
その男は。
変なやつだったと医師は語った。記者は違和感を覚えずにはいられなかった。
「精神病棟の、さらにこんな
隔離された区画にぶち込まれるのは、
こう申し上げては他に失礼だけれど
変なやつがほとんどなのでは…?」
医師は首を横に振った。
「質が違っていたんですよ、その男は」
曰く、妄言狂言と決めつけるには筋が通っているし、幻想として片付けるにはどうにも真実味を帯びていたのだという。それに男が語るその変な体験談を除いては真人間であったし、彼自身が信じたくないとのたまったのだ。
自分は狂人かも知れない、頭がおかしくなったのかも知れないと自覚できる人間はマトモであることが多く、疲労などから幻覚や幻聴を経験したという例もある。実際その男は三週間に及ぶ遭難の後にここを訪れたものだから、医師も当初は彼が本当の意味で狂っているかも知れないとは考えなかったのである。
ではなぜ、医師が彼のことを他とは質が違う狂人と表現するのかについてだが、それはひとえに一冊の日記帳によるところであった。
「これがその日記帳なのですがね、
いやはやこれのせいで私は
彼がマトモなのか狂人なのか、
未だに判断できずにおります。
脳に異常は見られないし、この類の、
まぁいまは幻覚と言っておきましょうか、
幻覚はそれっきりでしてね。
常識で考えれば妄言なのですが、
世にこれを公表することで
何らかの情報が得られないか、とね、
さぁどうぞ」
そう語り終えて、医師は黒革の日記帳を記者の方へ滑らせる。ごくごくありふれた、その辺の店で売っていそうな代物であった。
記者は無機質な手つきで表紙をめくった。
「すこし、いや、かなり奇妙な体験をした。私はいま帰りの航路にあるが、夢を忘れないがごとくに思い出し思い出し、記録しておこうと思う。これはもしかしたら、我々が知ってはならないことなのかも知れない。いや、知るという表現は今の私の感覚では相応しくない。そう、思い出してはならない、まさに人の深みに眠る記憶なのかも知れない。だから妄言と罵られようともこうして記さずにはいられないのだ。
まず、私は8月3日に港を出た。それは間違いない。その日のうちに帰ってくるつもりが、どこで航路を間違えたか、すこし目を離したすきに全ての計器がイカれてしまったらしく、いま自分がどこにいるのかはおろか、東西南北さえ分からなくなってしまったのだ。知らず知らずのうちに、私は島民たちの間で有名な魔の海域に迷い込んでいたらしい。無線も通じず、方角も分からず、いよいよ私は焦ったのであるが、このとき無鉄砲に船を走らせなくて良かったと思う。温存した燃料が、のちのち役に立ったからだ。
ひとまず食料と水はたくさんあったし、海上で食う飯を作るための準備はしてあったので、私は計器が直ることを祈りつつ、仕事がすこし長引いたのだと自分に言い聞かせた。
翌朝、私は絶望する。
やはり計器は全て狂ったままだった。
四方を見回してみても海が無限に続くだけで、一縷の望みも私に与えてはくれなかった。普段はその恵みを享受してくれる海が、いまはなんと無慈悲なことだろう。私は孤独をつよく感じてしまって、もう甲板に出ていられなくなった。それからは周囲に陸か、他の船が現れないかよくよく注意しながら、なるべく体力の消耗をおさえるよう努めることになった。
それから幾日経った頃か分からない。
ついに水が尽き、私は耐えがたい渇きに苛まれることになった。死の黒い影が視界にちらつき、腹の底から湧き上がる獣のような慟哭が喉をつんざいた。
きっとこれを読むあなた方には経験のないことだし、経験しない方が良いのだが、しかしこのときに感じた私の苦しみやどうしようもない悲嘆は分かりますまい。私はこれからじっくりと時間をかけて、じわじわと干からびて死んでいくのだと、姿を持たない声が囁きかけてくるのだ。いっそのこと一思いに海へ帰れば良いのだ、そんな誘惑さえあった。
いつの間にか私は暗い夜の海を臨んで、甲板の先まで出てきてしまっていた。しかしどうやら死を恐れる心の方が勝ったらしく、私は海へ飛び込まなかった。現状を理解するやいなや泣き崩れ、その場にへたり込んだ。
死にたくない、死にたくない。
そう何度も、誰にともなく叫んだ。
しばらくそうして泣いていると、不思議なことが起こった。すぐそこで「ミャア」と鳴き声がしたのだ。一羽のウミネコが、船のふちにやってきてこちらを見ていた。
すぐに私は、そのウミネコの奇妙に気付いた。まるで伝書鳩のように、左の脚に紙切れが結んであったのである。思考する余裕もなく、私は本能的にその結んであった白い紙を解いて、震える手で開いた。
そこには、なんと書いてあったか。その紙はもう送り主に返してしまったので手元に無いのだが、たしかこのような文言が連ねてあったように思う。
【進路を、星の導くがままに】
私はすぐに天を見上げた。
すると、どうしたことだろうか、きっと読者諸氏は信じてはくれまいが、そのときに私が見たありのままを記すと、黒い空に星がただひとつだけ導のように輝いていたのだ。あれは決して宵の明星ではない。すでに夜は深く、空に雲など無く、本当なら無数の星が灯っているはずなのだ。だが、天に星はひとつ。あまりに奇怪であり、さすがの私も怖気が走った。
ウミネコは私が手紙の内容を理解したのとほぼ同時に、その星が灯った方角へと飛び去った。あまりに出来すぎているではないか。
私は、しかし縋るより他になかった。
相変わらず計器類はひとつも正常に動作していなかったが、ただただ、あの星の方へと船を走らせることにした。
そして私は、その進路の先。
はるか彼方の海上で、最大の怪異を見た。
あの星とは反対方向に月は出ていたから、海と空との境目はしっかりと分け隔てられていた。さらに詳しく記すと、空は暗黒というよりはやや青褪め、海よりは明るい。海が近くにない読者諸氏は、月夜に山と空を眺めてみると良いだろう、山は影絵のように黒く、だが空はそれより明るいはずだ。
だから、私はそれが見えてしまった。
彼方の風景が黒い砂嵐に覆われたかに思われた。海上で、いや陸上においても快晴のもとこのような不可思議な現象があるものかと我が目を疑った。
驚くことに、巨人のようなそれはうねるようにして形を変え、不定形だった。蠢いていると表現すれば、多少はその不気味さを察していただけるだろうか。それは確かに、ある種の生物的な印象を私に与えた。しかしさらに不可思議なことは、そのときを思い返せば人智を超えた超常的な現象、あるいは存在を目前にして、私の頭はひどく冷静でマトモであった、ということだ。
私はそのとき、色の三原則をたしかに思い出し、つまりあの黒い霧雨のようなものは、月の光を反射しない、得体の知れない巨大な何かなのだと推理していた。
やがて。
その黒い形は海へ溶けるようにして消え、私が恐怖を感じたのは、その直後であった。
しばらく船を導きの通りに走らせ続けると、ほとんど断崖絶壁の孤島に行き当たった。中心部は木々が生い茂っており、そのさらに小高くなっている地点には屋敷が建っている。絶海の孤島にこんな屋敷を所有しているとは、一体どんな金持ちか道楽家だろうと呆気に取られながらも、私は唯一の入江に船をつけ、上陸した。
ご親切なことに、入江からは明らかに人が作ったと見える小道が続いており、私は緩やかな斜面を登り続けた。
屋敷は思ったよりも小さかったが、その建築や施された意匠は立派なもので、古いようだが管理されているらしく朽ちてはいない。私はここに人の気配を感じて、ようやく内心で助かったと呟いた。
私が正面玄関の戸をノックしようと手を伸ばしかけたら、まるで待っていたかのように内側から開かれ、中から齢18ほどの娘が顔を出した。大きな丸眼鏡を掛けていて、その短い黒髪はひどい癖毛で寝起きを思わせる。無愛想な、冷たい目付きをしていた。黒い外套を着込んでいて、首元に飾り付けられた星か輝きか、もしくは光か何かを表現した抽象的な形の銀色のシンボルバッチがつよく印象に残っている。
彼女は私が挨拶をするより早く口を開いた。たしか、このようなことを、ひどく冷淡な口調で述べたように記憶している。
【アレのことも、わたしのことも、
長い航海と疲労の末に見た
幻覚とでも思うことね。
そして一切を忘れて、
何事もなかったように生きるのが
幸せというものよ。あなたは遭難して、
奇跡的に生還した、簡単なこと。
さ、よく食べてよく寝たら、
日の出と共に船を出して、
太陽を左に見ながら
ずっと真っ直ぐ行くといいわ】
私に一言も喋らせることなく娘は言い終えると、今度は屋敷内の客室らしき部屋を指差して【一晩貸してあげる】とだけ告げて、そそくさと二階へ上がって行ってしまった。
結局。
私は何も言えずに、恩人の名さえ訊けずに貸し与えてもらった部屋へ幽鬼のように歩いて行った。追って声をかけようと思えばできたはずなのに、なぜそれが出来なかったのかは、いまこうして思い返しても理由が分からない。
部屋へ入ると、出来立てなのだろう、湯気を立てるスープやらパンやらがテーブルの上に置かれていた。私は飢えと渇きに耐えかねて何の疑いも持たずに、それらをすぐさまたいらげた。そして小綺麗なベッドに倒れ込んで、泥のように眠ったのだった。
気付けば朝方だった。
まだ日は水平線から顔を出していないが、不思議と自然に目が覚めた。いつの間にやら食器はさげられ、代わりに少し多めの飲み水が入れられた水筒と、朝食のパンが置いてあった。
私はせめて一言礼を述べてから出立しようと屋敷にあの娘を探したが、残念ながら玄関と私の寝た部屋以外はすべて施錠されていてどうにもならなかった。
私はお礼を一筆書き置いて、娘の言葉通り日の出と共に船を出し、いまも太陽を左に見ながら脇目も振らずに真っ直ぐ進んでいる。
アレは、結局なんだったのだろうか。
まるで黒い霧雨のような、不定形で不可思議な、我々の人智を超えた、アレは。
それも含め、この遭難で起こったあらゆることは、あの娘の言葉もまことに奇怪だ。本当に夢でも見たのではないだろうか。しかし、この水筒は紛れもなく私の所有ではない。所有ではないが、これはしかし他人に対する証明にはならないのが残念である。
さて、果たして、無事に陸へ着けるだろうか。だが反面、このまま私の存在や意識が崩れ溶けて塵と消えてはくれないものかとも思う。私はこれから生涯ずっと、アレに脳を蝕まれながら生きなければならなくなった。知覚し、深みより思い出した時点で、あの、初めから私の中にあった名状し難き黒い影より逃れる術はないのだ。いや、元より誰もどうしようもないのだろうが、だがしかし知らぬことは幸福なことだったのだ。
ああ!
あの娘が言った通り、素知らぬ顔をしてのんべんだらりと生きればよかった。くだらぬ好奇心でこうして書くべきではなかった、さらに思い出すべきではなかった。
ああ!
私にはアレについて何も分からない。だが、だがしかし、知っているのだ!思い出してしまったのだ!それだけは確かだ!この宇宙には我々の智蒙や学問が及ばない、絶対的高次元な領域があって、その」
この日記の執筆者は何らかの理由があって、途中で書くことをやめたのだろう。書きかけで文字が途切れている。
読み終えて、記者は長く息を吐いた。
なんとも言えない様子で頭を掻いたり、視線を泳がせるばかりだった。
しばらくは沈黙が続いた。
やがて。
「どうです、実際この男は
行方不明になっていて、
そしてプエルトリコに
戻ってきたんですよ。
それは日付もふくめて
確証が取れています。
保護された当初は気力もなく
抜け殻みたいな状態でね、
他の医療機関に搬送されたんですが、
回復するにつれて自分を
精神病院に入れて欲しいと
言い始めたらしく、
それからしばらくここにいたんですよ」
医師が静かな声で淡々と語った。記者は手帳にメモを取ることもせずに神妙な面持ちで話を聞き終えると、しばし考えて、訊いた。
「その男はいまどこに?」
「エエ、それがね…」
医師は苦々しい声を出した。
「ある日、フェグレイジク博物館
とかいう所へ行きたいと言いましてね、
あ、いや、行かなければならない
と言ったか、まぁとりあえず
外出したいと言ってきたんですよ。
元からその変な体験談以外はどう見ても
真人間でしたし、ちゃんと正式に
申請してきたので許可したんです。
そうしたら、それっきりでした」
記者は特に何も反応を示さなかった。本人に話を聞くことが叶わず、多少の落胆はその表情にあらわれてはいたが、その程度だった。記者は取り敢えずといったふうで、話を繋ぎ合わせて続けることにした。
「ほぅ、フェグレイジク博物館ですか。
聞いたことがありませんね、
ローカルなんですか?」
この問いに、医師はさらに苦い顔をした。
「見つからないんですよ、
どこをどう探してもフェグレイジク博物館
なんていうものは、
存在を確認できなかったんです。
行方不明者を探すものですから
警察にも協力を仰いだのですが、
その情報網をもってしても
発見できませんでした。
これは精神異常者のでっち上げだと
片付けるのが当たり前なのでしょうし、
警察もその見解でした。
結局ね、その男は行方不明のまま
見つかっていないんです。
当然フェグレイジク博物館とやらもね。
で、ね、あなた、聞いてくださいよ。
ここまでで話が終われば
全て狂人の妄言だと言えますでしょう。
ところが彼の行方を探る警察が、
とんでもないことを言ってきたんですよ!
ええ、あなた、
なんて言ってきたと思いますか。
こともあろうに、彼が行方不明になった
海域周辺の漁師たちの中にね、
日記帳に記されているウミネコと、
不思議な娘と、
絶海の孤島にひっそりと建つ屋敷に
出会したことがあると
証言する者がいたと、
こう言ってきたんですよ!
しかも経緯なんかが
ぴったり一致しましてね、
彼らは娘に言われた通りに
夢だと思い込んで過ごしてきた、と。
そうしてしばらくして、
再度その漁師たちを警察が訪ねると、ね、
信じられますか、
全員消えていたんですよ。
警察をやってる知人がそう言ったんです、
間違いありません。
そしていよいよ暗雲が垂れ込み始めて、
警察はこの日記帳を重要参考資料として
記録しました。でもこんなこと
世間には公表できないでしょう。
もう警察は何も言ってきません、
そこで私は、あなたがたマスコミに
ネタを提供する代わりに、
お願いしたいのですよ」
医師は終盤、興奮を隠せないでいた。ぐっと身を乗り出して、記者に寄る。
「何か分かったら必ず私に教えてください」
記者は気圧されながら、うなずくのがやっとだった。目の前の医師こそ狂っているように思われ始めたのだ。記者は社交辞令をニ、三言ほど渡して医師の機嫌を取ると逃げるようにして病院を出た。
「やれやれ、
まったく頭がおかしいのは誰なんだか。
アレについて知ってどうするってんだ、
バカバカしいぜ……」
記者はそう嘆息しながら、しかし、頭の中で黒い影が渦巻くのを確かに感じてしまっていた。
ー幕ー
秘法師シリーズ外伝 文文文士 @sanmonbunshi
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