第20話 交錯する白衣
カッカッカッ。
静寂の中で、黒板にチョークを走らせる音だけが響く。
いつもは着けない眼鏡を、講義の時や“こういう時だけ”着けるようにしている。
左指でいつものようにフレームを下ろし、文字を確認しながら彼は呟く。
「脳の覚醒を促すことで人類は超常的な進化を遂げる。明晰夢はその序章にしかすぎないわけだよ。皮肉にも人類はリミッター付きでこの世に生まれ、そして死んでゆくんだよね」
傍らで付箋がやたら貼り付けてある分厚いルーズリーフを読んでいた女性が、そのファイルをパタリと閉じて彼のあとに続いた。
「人間は人知を越えるものを渇望しながら同時に、その存在を否定する生き物なの」
「そうだね。僕たちはたった1%の進化で多世界を認識することができ、3%で物理的な干渉も可能になる。否定する思考が足枷となり“Deeper”としての目覚めが、人類の進化が、止められてしまっているんだよね」
黒板の前には白衣を着た二人の男女が立っている。
彼は謎の公式をいままさに書き終えるところだった。
「完成した……」
チョークを置き、誰も居ない大教室を見渡す。
すると白衣を着た女性が声をかける。
「ねえ、これ。なんて名前にするの?」
この偉業を前に、彼女はお門違いなことを言った。
「名前なんてどうでもよくない?」
「この世に生み出された最新の理論よ。言わばあなたの子供。子供には名前付けなきゃ、そうでしょう?」
うーん、妙なこだわりだなあ。名称を付けたところで世の中に発表するわけでもないのに。と、彼は思った。
「苗字から文字って“SKRI理論”ってのは、どお?」
「長い、却下」
即答かよ!
「まあでも“宇宙”や“夢”、“櫻井”から文字れば、S理論ってところかしらね」
結局キミが決めるのか…。
「なに、その不満そうな顔」
「いや全然!それにしようと思ってたとこ」
「まあたそんなこと言って」
彼女は赤いフレームの眼鏡を外して、白衣のポケットにしまった。
「そういえば三咲」
「ん?」
彼、櫻井武人教授は改まって三咲に向き直り、しかしまた黒板に目を逸らしたままま言葉を選んで話しはじめた。
「『例の件』だけど。α世界ではキミが、その…」
もじもじと言葉を詰まらせる武人に、三咲はスパッと答える。
「そうね、いま完成させた理論が“どこかの世界”のアナタが記憶してしまったら、多世界の貴方の記憶は忘却され、側に私が居れば記憶してしまうでしょうね」
三咲は淡々と続ける。
「オリジナル理論がこの世界に生まれた以上、α世界はイレギュラーとなる。つまり、私が消えてしまうことになるわね」
「そんな悠長な…」
「その仮説を元に、こうやってS理論を完成させたわけでしょ?」
――この理論構築により、この世界に変化をもたらすのかを観察する。
変化が起きた場合、なんらかの理由により多世界に干渉したことへの証明となる。
仮説一が証明された場合、世界の修正がどのように行われるのかを観察する。
また、何れかの多世界に干渉することが可能であるかを検証する――。
三咲が言うには『他の世界で私たち以外にこの理論を完成させているのなら、もう変化が起こっているはずでしょ?』と、些か暴論を投げ掛けてくるのだ。
だが、仮に世界に変革が起きていてもその変化に“誰も気づかない”可能性もある。
観測者――。
過去改変が行われた場合、通常は世界線が変動したことにより以前の記憶が“世界の意思によって”書き換えられてしまい誰もその変化(世界線移動)に気づかないのだが、観測者と呼ばれる者は変動前の世界線の記憶を有したまま移動できてしまうとされている。
しかし実際はそんな単純なものではない。
【量子のデコヒーレンス】
量子の非局所性や、重ね合わせ状態が崩壊して量子としての動きが失われることであり、そのデコヒーレンスを起こす要素として外からの観測が作用し、それによってデコヒーレンスが起こる。
観測者効果(Observer Effect)と呼ばれる現象だ。
”誰にも見られてない時は波のように振る舞い、観測者に見られていると粒子のように振る舞う。”
量子力学を学んだことのある者であれば存知のことであるが、要約すると、観測によって量子としての情報が失われてしまうことがデコヒーレンスで、量子力学とは数式上で成り立つものなので言い方を変えれば”波動関数が一つの状態に収縮すること”を言うのだ。
”観測”とは一体何なのか。
そして”観察者”とは何を指す言葉なのか。
観測者には認識が必要で、観測できるのは意識のある生物だけなのか?
この疑問に終止符を打ったのが1995年、フランスの物理学者セルジュ・アロシュと同僚らのリビジウム原子とマイクロ波を用いた実験だった。これにより原子がその周囲と相互作用することによってデコヒーレンスが引き起こされるということが証明された。
つまり”観測者”に知性がある必要などは全くなく、他の粒子が作用するだけで十分な”観測”だったのだ。
「世界は完成されたものなのよ」
三咲はぽつりとそう言った。
「なるほど」
さっぱりわからん。
三咲とはこれまで様々な議論を重ねてきたが、たまに不可解な解を導き出す時がある。
「なに悄気た顔してるの、私たちの使命を忘れたの?」
使命、なんて堅苦しい表現を使った三咲だが、その表情はなんだか楽しそうだった。
「私とあなたで『あの子たちを救う』のよ」
「また随分とスケールの大きなお話しで」
三咲はファイルチョップを武人の脳天にお見舞いし、
「なあに言ってるの!そもそもあなたが妙な夢をみたから、こんな大風呂敷を広げることになったんでしょう。すっとぼけるのはやめてよ」
見事脳天に炸裂した頭の痛みをすりすりと和らげながら、武人の脳裏にはあの日の断片的な映像を思い浮かべていた。
あまりにもリアルな夢。
櫻井夫妻がこの国公立大学で教授と助手として働く世界とは異なる、奇妙な設定の夢だった。
どこかの古めかしい施設で赤子が何かの液体の中に沈められ、その周囲を研究者らしき人間が観察している。
場面が変わる。
1人の少年と我が娘が、三咲の実家の見知らぬ場所で何かをしている。何故か長女はいない。
三女が携帯電話に向かって何かを訴え、次女はそこにあるはずのない送電線の鉄塔を、ワイヤーの束らしきものを担いでよじ登っている。
場面が変わる。
椎名家の長女がどこかの施設の入り口で、自衛隊の服を着た若い女性と睨み合っている。
手にした日本刀の鞘を抜き捨て、目には涙を浮かべていた。
場面が変わる。
三咲が吐血をして倒れている。
側にはスーツ姿の眼鏡をかけた男性が冷ややかな眼をして見下ろしていた。場所はわからない。
場面が変わる。
暗い部屋の中。顔の見えない子供が1人。
監獄のような場所が突然大きく揺れる。
その短く大きな揺れにひどく怯えた子供が拳を握りしめ唸るように念じた途端、子供を中心に放射線状の光束が無数に現れ、子供が小さな指先でその光弦を一本弾くと、光の粒がファイバーの中を駆け抜けてゆき…
《夢の中の自分が目覚めた》
通常『夢』というのは断片的で、目覚めた時には記憶が曖昧だったりする。
夢を夢だと認識するのは明晰夢と呼ばれ、夢で見たものが現実に起こることを正夢などというが、武人が見たものはそのどちらでもないような気がした。
なんの確証もない荒唐無稽な話だが、それらは『違う現実の出来事』と武人は確信していた。
しかし、いま生きている現実になんの干渉もなく、気のせいだったと言えばそれで終わることだ。
「ペット自慢と夢の話ほど無意味なものはない」と常々思っている武人だからこそ、本来無視してしまっていい夢の話。
だがどうしても、何かが引っ掛かっていた。
自分が自分ではない、何かの一部に繋がっている感覚。
この夢をみてから、武人はこの雲を掴むような感覚の話を三咲に話した。
「あなたが幼少の頃の記憶が曖昧なのと関係してるんじゃない?」
確かに、僕には子供の頃の記憶が曖昧というか、自分のことなのに他人の記憶のような断片的なものしかない。
もう一つ、『自分が別の仕事をしていたら』なんて想像した時の、別の自分がやたらリアリティーに溢れて脳内で具現化されることがあった。
単純に『想像力豊かだなあ』といえばそれまでなのだが、例えばサッカー選手になっていたら…と想像してみると、どんなチームに所属しているか、同僚の顔や立ち振舞いや性格、その時に付き合っている彼女や住んでいる場所に至る細部まで、まるで小説を書くときのプロット作成のように、情報が頭の中を駆け巡るのだ。
この《空想転移》を本とするなら、夢の出来事は映画を観ている感覚に近い。
「これはあくまで仮説の話よ。仮にあなたの『みたもの』がパラレルワールドの個別世界だとしたら、あなたが世界の中心ではないの。観測しているだけ。前述のように観測することで何かが決定するわけではなく、そのどれもが既に完成された世界なのよ。でも、誰もが観測者に成り得るわけじゃない。その多世界と強い結び付きがあり、互換性のある“鍵”を持つあなただからこそ、それらを解錠することができるのだと思うのよ」
マスターキーではなく、自分に関わる扉、それ専用の鍵。
なるほど、これなら理解できる。
三咲は得意気になることもなく、これらの仮説を僕が理解できるように噛み砕いて力説した。
そしてこのS理論は、不確定要素のある鍵をマスターキーに変えようと提唱された新理論なのだ。
これにより、本来その本人しかアクセスできなかったセキュリティを解除し、誰でも多次元へ電子的に移動可能となる。
もちろん、この理論を実行するには装置を同時に開発しなければならない。
人間は脳の神経細胞(ニューロンとシナプス)には差異があり、睡眠時にはそれらが顕著に現れる。
この時代に解明されなかった睡眠時の脳波を外部からの周波数と同期させ、そこへ意識を送り込むことにより夢の中へダイブする。
この構造には一昔に話題となったVR装置を応用した。
時計の針が、静寂を破るように22時を告げる。
聞き慣れたビープ音が二人の思考を止めた。
学校の敷地内で明かりが灯っているのはこの部屋だけで、守衛室には予め遅くなる旨を伝えていた。
数秒の沈黙の後、三咲のスマートフォンが何かの通知を知らせる音が鳴った。
三咲は白衣のポケットに手を差し込み、画面の通知をみて眉を寄せた。
「またかあ」
溜め息をつく三咲をみて、なんのことだか察した。
「また電池切れそうなの?」
「そうなのよ、最近異常に消耗が早くてね」
いつもの流れで、僕もポケットからスマートフォンを出すと同じく画面を確認した。
「僕もあと16%だったよ。そろそろ変え時なのかな」
まだ半年も経ってないでしょう、と膨れっ面の三咲は束ねていたゴムを取ると、頭を左右に振って髪をいなした。
「今日はもう帰りましょう、あんまり遅いと麻衣たちに心配されちゃうし」
そう言いながら素早く黒板消しを手に取った。
カツンカツン、と教室の外から誰かの足音が聞こえる。
丁度帰り支度をするところだと、守衛が来たら説明しようと思っていたところだ。
三咲は黒板を消し、武人は書類を纏めながら、二人は守衛への対応を考えながら身支度を進めた。
足音が近づくにつれ、三咲は妙なことに気づく。
「ねえ武人、守衛さんに女の人なんかいたっけ?」
「ええ?」
近づく足音に耳を澄ませる。
カツンカツンとコンクリートを踏み鳴らす音の中に、ヒールの高らかな音が混じっている。
複数人…二人?いや三人の気配がする。
胸騒ぎがした三咲は速度を早めて下段の黒板を消し、スライドさせて上段の黒板を消しにかかった。
二人は目を合わせる。
武人もそれに気付いて書類をカバンの中に捩じ込んだ。
このタイミングで守衛以外の人間が現れるのは、何かおかしい。
コンコンと扉をノックする音と同時に、返答を待たずにドアが開けられる。
やはり守衛ではなかった。
最初に入り口から姿を現したのは、如何にも高そうなスーツを着た男。
細縁フレームの眼鏡に短めの髪をオールバックにした男が、耳からイヤホンを外しながら開口一番にこう言った。
「ハジメマシテ、というべきかな?まあ私はあなた方のことを十分に知っていますがね」
その後ろから、無機質な表情をした秘書のような女が姿を見せた。
「社長。そんな無駄話は要りませんから本題を」
社長?
「どちら様ですか?」
三咲が鋭い視線を送る。三咲はこういう無礼な輩が心底嫌いだ。
スーツ姿の男が三咲の言葉を無視して、武人を直視する。
「S理論。完成したそうで何よりです」
「なっ!なぜ」
「何故もなにも。日本はスパイ天国って、聞いたことありませんかね?」
武人の言葉を書き消し、靴底を嫌に鳴らして男は歩み寄りさらに言葉を続けた。
「盗聴器?いえいえ。あなた方がLppleユーザーのお陰で簡単でしたよ」
二人は瞬時にその言葉の意味を理解し、無意識に白衣のポケットにしまってある端末に触れた。
L-phone。
Lpple社が発売している端末で同社が開発する「lOS」を搭載した携帯電話のことだ。
全世界シェア率89%という驚異的な普及率を誇り、2007年発売から現在に至るまでの約半世紀近い時代を牽引してきた、誰もが知る携帯端末だ。
「バックグラウンドで盗聴するとは、Lppleも堕ちたものね…」
三咲は男を睨み付ける。
ここ最近の電池消耗が激しい理由はこれだったわけだ。
「ご名答。しかしわが社はLppleではありませんよ、そこだけはお間違いのなきように」
所謂“協力関係”とだけ言っておきましょうか。と付け加えた。
三咲や武人にとってLppleだとかこの者たちが何者かなど、そんなことはどうでもよかった。
S理論、これをどうするつもりなのか。
礼儀はさておき、この横暴な態度からみて私利私欲の塊であることは間違いない。
「なあに、悪いようにはしませんよ。雨音クン、例のものを」
こちらから視線を外すことなく、左手を雨音と呼ばれた秘書らしき女に出し、素早く手渡された書類を教壇の上へ置いた。
「あなた方の言い値で買い取らせて頂きます。こちらにサインを」
男は胸元から如何にも高そうなペンを出して、契約書らしき書類と一緒につきだした。
武人が一歩前に進み、書類を手に取る。
三咲にはわかっていた。
武人はそれを躊躇することなく破り捨てた。
「断る」
対面に立つ男と傍らの雨音は表情筋を一切動かすことなく、
「なあるほど」
と、子供でもあやすかのような口振りでそれを見届けた。
「村上クゥン」
男は教室の入り口で姿を見せていなかったその者の名前を呼び、それに合わせて村上という男が教室へ入ってきた。
手には小さなノートPCを持ち、大学生のような風貌をしていた。
「うっす」
「アレを見せて差し上げろ」
「ハイハイ、仰せのままにっと」
村上はPCを開き素早くキーボードを叩いたかと思うと、その画面を三咲と武人へ見やすいように教壇へ向けて置いた。
スーツの男は口元を緩め、
「この映像はね、ボクの記憶の映像なんですけどもね」
勿体つけるように焦らす男。
「この世界のボクではないんですよ」
画面に映像が映る。
そこには二人のよく知る場所が映っていた。
“みさきや”
三咲の母が経営する、実家兼旅館だった。
「ボクはね、この場所に行ったことがないんですよ。不思議ですねえ」
一人称視点の映像は、全体的にモヤがかかったようなハッキリとしたものではなかった。
旅館の中庭にある縁側に腰掛けているであろう映像は、星空を眺めているのか、終止暗い夜空が映し出されていた。そこへ突然音声が入る。
『この場所は星が綺麗に見えますね、ボクの故郷を思い出します』
一拍置くように続けて声が聞こえる。
『颯人くん、あそこに赤色の星が見えるかい?あれはアークトゥルスと言って『春の大三角』のひとつなんだよ』
そういうと、その視点は隣に腰掛けている人物をちらりと移動した。
『へえ…』
その声の主、男の子の姿をみて三咲と武人は顔を見合わせる。
『そしてあそこがデネボラ、そしてあそこが…』
『スピカですね』
今度は武人が三咲を見て固まった。
その声は紛れもなく三咲の声だったからだ。
『流石、博学な女将さんだ』
視点が女将と呼ばれた三咲に移動する。
「なんで……」
そこに映っていたのは、和装をキッチリと着こなした三咲が縁側に腰掛けていたのだ。
どういうことなのか。
【みさきや】という屋号は、母親が三姉妹の中で一番しっかりしている娘の名前から付けたものだ。
本来、母親としては三咲に後釜となって欲しかったらしいが、三咲が研究機関に身を置いていることから、三咲自身も後継者になる話を幾度となく断っていた。
しかしこの映像を見る限り、別の世界線の三咲は女将としてみさきやを経営しているように見える。
三咲も武人も、PCから流れる映像に釘付けになっていた。
その間も映像は途切れることなく進んでいた。
『高城さん、流石に難しいッスね』
男の子が一人称視点の男の名を呼ぶ。
『ごめんごめん。子供の頃からこんなことばかり考えててね。お陰で友達は少なかったよ。辛いときは『別の世界に行きたい』ってよく思ってた……』
高城と呼ばれたこの無礼な男は、映像の中ではとても柔和で落ち着いた話し方をする。まるで同一人物とは思えないほどに。
そして視点はハヤトと呼ばれた男の子に移り、
『高城さん、もし夢の中が別の世界のゲートだったらどうします?』
と口にした。
映像を止める。
数秒の間が空き、
「ハァイ注目~~!」
と、わざとらしく高城は声を上げ、そしてすかさずこう聞いた。
「このハヤトくんって誰なんです?」
この場の誰もが同じ疑問を抱いている。当然誰も口を開かなかった。
高城は気味悪く口元を弛め「やはりそうですか」と言った。
「知らないのも無理はない。『彼』はいまこの世界線に滞在してないんでね」
三咲と武人は目こそ合わせなかったが、その言葉の意味を既に理解していた。
「私の『手駒』に、彼が数日間こちらの世界線で滞在したと報告がありましてね。あはは…!有り得ないことが彼には起こっている!これはスゴいことだよ、彼単独で世界線を物理的移動できるんだから…!」
******
土曜日の朝。
大学から車で約二時間走らせ、あと十五分ほどで「みさきや」に到着する道中、その車内では三咲とハンドルキーパーである武人の論争が繰り広げられていた。
高城たちとは一旦、後日改めて話し合いの場を作ることを約束してお引き取り願い、そこから二人はアルミホイルで電源を切った携帯電話をグルグルに包み、アルミ缶にそれを入れた途端に論争を始め、気付けは朝を迎えていた。
「人間が物理的に世界線を移動するなんてぜっっったい有り得ない!!」
三咲は服も着替えず白衣のまま助手席に乗り込み、怒りを爆発させたかのように吠えた。
かれこれ二時間の間に五十回くらいは同じことを言っただろう。
車内では盗聴防止策を講じたことで、二人は各々に浮かんだ言葉を発した。
「僕の記憶にも三咲の記憶にも存在しない人物が、僕らの生活に僅かだけ滞在していたのにその痕跡すらない。記憶の改竄、世界の修正とはいえ無理があるよ。やはり研究資料を横取りするつもりで映像をでっち上げたのかな」
三咲はとてもイライラして親指の爪を噛んでいた。
「いや待って」
急に三咲が冷静な声になる。
「私たちがS理論を『完成させたから』事態が動き出したんじゃないの…?あなたが様々な夢をみて、それを変えようと動き出した。勿論実証もしていない理論だけど、おそらくこれは実証可能なのよ。私たちの時間軸の未来には、S理論を礎に『既に決定された未来』がある…気がする」
その仮説に武人も身震いした。
とんでもないことをしてしまったんじゃないか。夢ごときに触れてはならない神の領域に踏み込んでしまったんじゃないか、その気持ちがふいにハンドルを強く握りしめた。
「あの男の子、ハヤトくんだったかな。彼が『夢の中が別の世界のゲートだったら』と口にしたから高城が感付いたのよ。それを取り消すことができれば…」
不可能だ。過去に戻ることすらできないのに、ましてや別の世界線で起こった事象を取り消す?自分たちが作り上げたS理論のほうがかわいい気がしてきた。
急な勾配のS字カーブを上りきり、あと五分くらいかと気が緩んだ。
頂上から下りカーブへ差し掛かる寸前、武人は我が目を疑った。
咄嗟に急ブレーキを踏んだことで三咲も前を見る。
「ええ?!」
前方右車線の車三台分の高さから突如、赤いスポーツカーがスピンしながら二人の車線目掛けて『落下』してきたのだ。
武人はハンドルを目一杯右に切り、こちらもスピンしながら上空を越えるであろうスポーツカーを捉えた。
「ヤバイ!!!」
予想に反してスポーツカーは手前に落ちた。
ハンドルを右に切ったことで、二つの車は真逆に向いたまま互いの助手席側がピタリと張り付いた状態で…停止した。
が、その場所が悪かった。
ガコン、と二台の車が振動を感じた時には、状況を冷静に判断できる者などいなかった。
車は山道の路肩を大きく逸れ、運悪くガードレールのない崖っぷちに突っ込んでいたのだ。
終わった。誰もがそう思った。
三咲と武人は相手の運転手をみる。
「えっ…」
その反応は相手も同じだった。
「一姫?!」
「三咲?!なんで?!」
声は聞こえなくてもそう言っているのがわかった。
そして助手席には、男の子が乗っていた。
どうしてか、三咲も武人も同じことを思ったのだろう。
「ハヤトくん!!!」
二台の車はそのまま崖を落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます