サイドストーリー②【黒川葵の章】前編

⚠️この章は残酷な描写や性的な表現が含まれます⚠️



 ……まるで、なにかのアニメのようだ。

 流れ星は、地球の重力に引かれて大気に突入したチリが燃え、輝いて見えるという。

 私は目を瞑ったまま引力に身を委ね、どこかの空間を光の雫になって落ちていた。

 でも不安はない。

 目を覚ます前のリアルな夢のように、無重力の中を心のままに落ちていく。

 幾重にも重なる空間の狭間を、自動扉がひとりでに開いて、私を“その場所”へ導いているようだった。

 ――寂しい。

 私の全身を蒼く凍てついた何かが、無数の粒子となって身体をすり抜けていった。


****

   

どこからか、懐かしい潮騒の音が聞こえる。

 視界はグニャリと歪んだままで、空間把握さえできない状況でありながら、それでも周りを認識しようと足を無意識に踏ん張った。


 ――私は元の世界へ戻れたのか。

 

 最初に頭に浮かんだ言葉はそれだった。

 感覚が徐々に回復し、視覚は【夜】と、聴覚と嗅覚は【海辺】と感じ取った。

 そして触覚は、足元にぞわりと触れる何か得体の知れない“小さいモノ”を感知して、びっくりした私は「ひぃ」と声を上げ、ド派手に尻餅をついた。

 五感を取り戻して最初に目に飛び込んできた“小さいモノ”は、白い小さなウサギだった。

「…ウサギ??」

 周囲をキョロキョロと見渡してみると、ルイくんと居た世界とは全く異なる、私にとっては馴染みのある地球の大地に私はいた。

 夜だったけど小規模な船着き場は満月の光でくっきり見え、凪の海面はどこまでも黒く、月光が私の立つ場所まで道しるべのように真っ直ぐ伸びていた。

 まるで小さな島の入り口に降ろされたような、はたまた“呼ばれたような”感覚を覚えた。

 そして私は気づく。

 月の大きさが尋常じゃなく大きいことに。

 一片の欠けのない満月は、この世界の全てを照らすように神秘的に輝いていた。


 無心でその月を眺めていたら、音のない静かな気配を感じて振り返った。

「うわっ!」

 またウサギ。

 それも全部真っ白なモコモコしたウサギが軽く30羽、私の周りにエサを求めるように群がってくる。

 嫌いでもないし不気味でもないけれど、私はウサギの群れから遠ざかるようにその場から立ち上がって10メートルほど小走りで移動した。

 案の定、モコモコ軍団は私を追って隊列を組むようにわーっと後をついてくる。それに呼応するかのように、どこからともなく増援の白ウサギが現れ、気づけば私の周りに100羽を越えるウサギの大群が大集結していた。

 今となっては遠い記憶の片隅に、日本にも猫の島だとかウサギの島と呼ばれる場所があることは知っていた。

 でも私は行ったことはないし、そもそも目覚めてそんな場所にいること自体が不自然で、これも本来私がいるべき世界ではないのだと確信する材料となった。


 ひとまず私は、離島のようなこの場所を探索することにした。

「こ、こういうときは『左回りの法則』かな!」

 誰に聞かれるわけでもないのに、自分を鼓舞するように一声あげてみた。

 白モコ軍団は私の進む進路を阻むことはなかった。それどころか、エサをくれないと悟った猫のように、さっさとその場から退散していった。

 ルイくんのいた世界では、巨大なコミュニティがいくつも存在し、人々が巨大樹の周りに生活基盤を置いて繁栄していた。

 夜であっても光は溢れていたし、何より活気があった。

 しかしこの場所は【虚無】という、それとは対照的な空間で、闇夜に浮かぶ満月という神秘的な雰囲気は皆無だ。

 あえて言うなら【廃墟】

 かつて観光業で賑わい、人々の往来があったであろう朽果てた遊歩道。

 見渡す限りの草木は枯れ果て、道か分からないような獣道を進む車道ほどの道幅には、ところどころコンクリートの区分けブロックが散乱していた。

 土は渇き冷たく、砂ぼこりすら立たないような静寂が私の胸を嫌でも不安にさせた。

 なるべく海岸沿いを歩きながら、目線は右側の地表側に意識して歩みを進める。

 ふと、左側の海面をひょっこり覗きこんで、そこに映った自分の姿にハッとなった。

「制服着てる…」

 身を引っ込めて、1度自分の全身を目視でぐるっと確認した。

 うん、確かにこれウチの制服だ…。

 長い間、風の女神として纏っていた衣装ではなく、私が眠りについたその当時の制服。

 “戻りたい”という気持ちがこの服となって現れたのか、それは私にもわからない。それでも、懐かしい気持ちを抑えることはできなかった。


 ―ヒュオオオッ

 

 地上から海へ向かって、生暖かい一吹きの風が麻衣の背中を通りすぎた。


****


 麻衣は月明かりの下を、最小限の足音だけ立てて慎重に歩いた。

 砂利と小さな貝殻を踏み締めると、慎重にしたところで音は立った。

 またしばらく歩くと、砂浜から舗装されたような道路になった。左手に海の存在を確認しつつ、酸化して朽ちたフェンスを横目にさらに奥へ進む。

 すうっと肌に感じる風向きが変わる。

 周囲の音がシンと静まり返ったのがわかった。

 建物がある。幅、百五十メートルはありそうな四階建ての建造物。

 灯りはなく、ただ真っ暗なコンクリートが朽果て、鉄筋が見え隠れしている。

 その前には小規模なグラウンドがあり、密集隊列を組んだウサギたちがあちらこちらに島を作っていた。

 麻衣の心の中に好奇心はなかった。

 同時に恐怖感もない。

 

「へえ…珍しい」

 突然背後から声がして、全身の毛が総立ちなる。慌てて振り向くと、そこに姿はなかった。妙な声を出してしまったことなど吹き飛んで、辺りをぐるぐると見渡す。

「…兎の視野って360度。対して人間は」

 また声。ボソボソと聞こえるかどうかの小さな女の子の声。

 後ろ足元!反応して振り向くも、暗闇に飛ぶ蚊を見つけるようなものだ。

 ――いない。

「あなた」

 ぞわっと身の毛がよだつ。

「かわいいね」

 麻衣の振り向く速度に合わせるように背後を取り続けた女の子は、今度は素早く麻衣の正面に、唇が触れそうな距離で止まる。

「こ、こんにちは…あの…」

 動揺した麻衣が口を衝いて出た言葉に耳を貸すこともなく、紺の制服に身を包んだ長い黒髪の女は、

「何回死ねるの」

「え?」

 脳天に振り下ろされた鈍器のようなものに、聞いたことない肉の軋みが脳内でスパークし、文字通り目の前に火花が散った。

「あがっ?!」

 何が起きたのか理解できない。

 視界がぼやけている…これは涙か。

 そうか、痛みに涙が出ているのか。

 ドン、と土の上に放り投げられた石の音で、麻衣は漸く『頭部を石で殴られた』と理解した。

 ――なんで???

 途端に殴られた箇所が熱くなり、身体のコントロールを失った麻衣は、顔面からどさりと地面に倒れてしまった。

 つうっと額に生暖かい液体が伝う。まるで頭に心臓が付いているようにドクドクと脈打つ。

 このまま死ぬのかな。ルイくんが全てをかけて助けてくれたのに、私、死ぬのかな…。

 地面に触れる左頬が冷たい。ぼやける視界の先に微かに動く右手。

 ――死にたくない――。


****


 朝、目覚めることが、怖い。

 また奴隷のような1日がはじまるから。

 私にとって家族というのは、他人よりも大嫌いで、心の拠り所ではない。

 小学生の時に母親が再婚して、見知らぬ男が突然父親と名乗った。だから私は汐見から黒川へと姓を名乗ることとなる。

 母親は数年もしないうちに他の男と蒸発して消えていき、うちには他人の男と妹の三人だけとなった。

 ある日の深夜、酒とタバコの悪臭漂う匂いで目が覚める。

 側には義父が立っていた。

 何か危険を感じた私は、寝たふりをしてやり過ごそうとした。しかし、義父は私の腕を掴んで布団から強引に引っ張りだし、隣で寝ていた妹に気付かれぬまま、義父の部屋へと連れていかれた。

 穢れた日。

 それは常習的に行われ、その行為の意味もわからなかった歳月は過ぎ、淡い理想を描くことすら出来ぬまま、次第に私の感覚も麻痺していった。

 中学、高校と成長していくにつれ同級生が幼稚にみえ、元々話すタイプではない私はいつも周囲を冷ややかな目でみていた。

 無意味な話しにバカ騒ぎする男子、色恋トークに花を咲かせる女子グループ、教師の立場に酔う中身の伴わない大人たち。

 コイツらは、社会という檻の中で無意味に生かされた家畜同然だ。

 餌を与えられ、尻尾をふり、都合が悪いと吠え、不用意に毛繕いをしては虚勢を張り、徒党を組んでは自己の優位性を誇示するためだけに他者を噛み殺す。

 人間なんてただの肉の塊じゃない、存在するだけで害をなす。

 何故、私は生きているのか。

 生きていることに何の価値があるのか。

 人は生まれながらにして不平等であり、死こそが人に与えられた平等な権利といえる。

 ある日。雨の降る帰り道で、捨てられた小さなゲージに入った兎を見つけた。

 電柱の側に無造作に置かれたそのゲージに入れられた小さな兎は、寒さに震えて今にも死にそうだった。

 葵はその兎を檻から取り出し、震えるその体を懐で暖めた。

 耳や体のあちこちに傷がある。

 人間のエゴによって飼われ捨てられた兎は、最後の瞬間まで苦しみに耐えている。

「――可哀想」

 葵はそっと兎の首に手をかける。

 その瞬間、私の中に黒く渦巻く憎悪の淀みが一気に右手へと集中した。

 眼が飛び出さぬばかりに見開いた兎は両脚をバタつかせ、もがき苦しむ。

 小さな命の懸命なもがきによって葵の腕には爪の痕が幾重にも血を滲ませて増える。

 この時初めて、命の裁量を自分が握っている感覚に、性的にも似た興奮を覚える。全身がゾクゾクと鳥肌が立ち、唇は艶めいた。

 兎の灯火が消えかかる寸前、顔を火照らせ唇を噛み締めた葵の下半身は身悶えるような絶頂を迎える。

 だらんと息絶えた肉塊をみて、その興奮は一気に冷めた。

 葵はそれを放り投げると、何事もなかったように家路に着く。

 その夜、葵はいつものように獣に弄ばれるだけの生活を、その手で断った。

 

*****


 麻衣の身体が、全身を毛皮で覆われたような暖かさに包まれている。

 意識を失ってどれくらいだろうか。

 両方の手を握り締めるだけの力は残っているようだった。

 うつ伏せた状態から四つん這いになるように上体を起こすと、毛皮の温もりの正体が白いウサギの軍団であったことに気付く。

 ウサギたちは麻衣が起き上がったことで身体からピョンピョンと飛散し、周りに円陣を作るようにその周囲に集まった。

「――っ!」

 麻衣は咄嗟に先ほどの光景を思い出し、周りを目を張った。

 しかし警戒した少女はおらず、反射的に殴打された頭の箇所を触ってみると――、痛みはおろか傷さえも消えていた。

「どうなってるの……?」

 薄明の空が月を水平線へ導き、沈むかに思えた月光は一刻を経てまた夜空に舞い戻った。

 麻衣は立ち上がり制服のスカートをはたくと、目の前の大きな建物に目をやる。

 微かに彼女の気配を感じる。

 麻衣は先ほどの恐怖感から、その場に足を踏み入れることに躊躇したものの、嘗ては一面ガラス張りであったであろうロビーらしき玄関から、意を決して歩みを進めた。

 黒いローファーパンプスが砕けたガラスを踏みしめ、ジャリジャリと音を立てる。

 カーペットに柔らかさなど皆無で、足裏に感じるのは冷えたコンクリートの反響音だけだった。

 長方形の建物は正面にフロント、右奥がレストランのようになっていて、左側は――売店だろうか、朽ちて崩れた棚と何ともわからない商品らしきものが散乱していた。

 照明はなく、月明かりだけが頼りになる、如何にも肝試しをしそうな廃墟と化していた。

「なんなの、ここ…」

 答えは返ってこない。ただ、麻衣には先ほどの少女が自分を手招きしているような、そんな確信があった。

『何回死ねるの』とあの子は言った。

 疑問符が付くような、どこか吐き捨てるような、そして確かめるような。

 ――何を?

 ぐるぐると自問自答を繰り返しながら、麻衣は建物を上へ左右へと歩き回る。

 構造上、素人目から見てもこの建物は宿泊施設と断定できた。

 部屋数も多く、1部屋8畳ほどの和室がずらりと並び、自然学校などで利用するような雰囲気だったからだ。

 そして最上階のフロア、四階に着くと、それまでとは明らかに空気感が変わった。

 最寄りの部屋を開ける。

 そこは洋室になっていた。

 麻衣は中をチラッと見ただけで、その扉を閉める。次の部屋、次の部屋と中を確認しては閉めて、最後の部屋を開けようとして、ドアノブに手をかけるのをやめた。

 そんな気がしたからだ。

「…そこにいるんでしょう?」

 確信した麻衣はドア向こうにいるかも分からぬ相手に声をかける。

「そうね」

 その声は部屋の中からではなく背後から聞こえて、悲鳴を上げた麻衣はそのままドアノブを開けてしまい、転がるように中へ入った。

「もう!なんなのよぉ!」

 毎回驚かせるサプライズなんていらないわよ!と、悪態を付きたい気持ちを抑えて、声の主を見る。

「………」

 不思議な表情をしているのか、感情が掴めない角度で首を傾げる少女。

 紺色の制服と長いストレートの髪、麻衣とは対照的な細身の体型に、端麗な輪郭をしている。

 マネキンのように表情が変わらず、幼い見た目とは裏腹に、鋭い眼光が麻衣の背筋を嫌でも強張らせた。

「あなた」

 少女は麻衣をちらりと見る。

「死ねないのね」

「えっ?」

 少女は爪先で軽く床を蹴ると、重力が存在しないかのように数センチと浮き上がり、麻衣の隣へすうっと着地した。

「可哀想」

 麻衣の問いかけが聞こえないのか、座り込む麻衣の頬にそっと右の掌を当て、哀れむような声を出す。

 そのまま少女は麻衣の首筋に顔を埋めて、匂いを鼻腔いっぱいになるまで吸い込んでは甘い吐息を吐いた。そして左手を迷うこと無く麻衣の制服の中へと滑り込ませ、ブラのホックを片手でいとも簡単に外したかと思えば小慣れた手付きで胸を揉みしだいた。

「へあ?!ちょっ、ちょっと!」

 そんな経験もない麻衣は咄嗟に腕をはね除け後方へ飛び退く。

 鼓動が鼓膜を激しく打ち鳴らし、胸元を腕で隠すように少女から後ずさった。

 それに合わせるように立ち上がった少女は、麻衣に視線を合わせること無くぼそりと言った。

「痛みも、快楽も、全部…。私が、分けてあげる」

 如何にも気が病んでいるのかと思えるこの言動に、麻衣は底知れぬ恐怖を感じた。これはやばい………。

 麻衣の人生において、決して交わることのなかった人種。

 平穏な家族や兄妹に囲まれ、特に苦労という苦労をしてきたわけでもない。

 先ほど触れられた手は凍てつくような冷たさで、吐息もまた冷気のような、温もりを感じられなかった。

 彼女は何者なのか?この世界は一体、麻衣に何を求めているのか。

「わたし、知りたいの。あなたのこと、もっと」

 少女は四つん這いになると、井戸から這い出てくる蜘蛛のようにカタカタカタと麻衣に近づいてくる。

「来ないで!!!」

 慌てて飛び退いた先に、ガラスでできたランプシェードがあった。

 咄嗟に手に取って、少女に当たらない壁に牽制の意味でそれを投げ付けた。

 バリィン!

 軽く砕け散ったガラス片。

 こんなものに効果があるわけではないと思っていたら、少女はその音に飛び退き激しく反応した。

 襲われている側であったにも関わらず、その酷く怯えた少女の表情に麻衣は混乱する。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」

 少女は両手を頭に抱えたまま踞(うずくま)り、呪文のように“ごめんなさい”と繰り返した。

 これは麻衣に対しての謝罪ではない。彼女の中のトラウマに対しての反応だった。

 いきなり別人のように変わった彼女をみて、なんだか妙な罪悪感を感じた麻衣は恐る恐る少女の側に歩み寄る。

「ごめんね。あの、だ、大丈夫?」

 踞る少女の肩にそっと触れると、彼女はビクッとしてずり退いた。

「あ、アオイが悪かったの。だから…ひどいことしないで」

 条件反射なのか、彼女は目も合わせずにそう呟いた。

 えっ、襲われてたの私なんだけど…。そういえば『アオイ』って言ってたような、この子の名前かな。

 そう思った束の間、アオイは麻衣の手を掴んで引き寄せた。

 その手を自分の胸元へ当てて、

「わかる?わたし、こんなに鼓動が早くなってるの」

 麻衣とは対照的な、わずかに膨らんだ胸元へ押し当てたと思ったら、掴んだ手をそのまま自分の下着へと滑り込ませた。

「なにするの!?」

 慌てて引き抜いた麻衣の指先が、葵の愛液にまみれる。

 どうかしてる…!

 麻衣は咄嗟にスカートで指先を拭って、三歩ばかり後退した。

「ねえ、触ってよ。優しくするなら、最後までシてよ…」

「頭おかしいんじゃないの?!」

 比較的全肯定型の麻衣らしからぬ、全否定の一言が思わず突いて出た。

 その場にゆらゆらと立ち上がる葵は、どこか火照るような微笑を浮かべている。

「人なんてみんな狂気や欲望にまみれてる、そうでしょう?食べて寝てセックスして、その欲求に基づいて行動するイキモノなの。ただそれだけよ。ねえ、あなた、小学生で父親に犯されたことある?ないよね。男はいつもそう。わたし、雄は不要な下等生物だと思うの。誰も私を満たせない。だから殺してあげたの、だって要らないもの」

 葵の表情はある種の境地に立った憂いを帯びていた。


 孤島に浮かぶ月。

 かつて葵が弄ばれた部屋の窓から虚ろ気に見ていた月は、こんな綺麗な満月をしていたのだろうか。


*****


 人間が首を絞められるとどうなるか、実際体感したことのある人は少ない。

 急激に血中の酸素濃度が低下し、呼吸を欲するが吸うことも吐くこともできない。

 絞められたその手を排除しようともがくが、その行為自体が酸素を大量に消費し脳が危機を感知、視界や聴覚機能が著しく低下する。

 肺の中の酸素残量によりこれには差がある。

 動かせる全ての四肢をバタつかせ、一瞬でプツリと記憶が途切れる。


 ――――――。


 大抵の加害者は動くことがなくなった被害者をみて、首にかけたその手を緩める。

 この時点で人間は死んでいない。

 絞殺を完了させる為には、動かなくなった後も更に首を絞め続ける必要がある。

 その手を緩めれば自動的に肺に酸素が入り、そのわずかな酸素を全身の細胞が供給する。そうした僅かな供給を繰り返し、次第にうめき声をあげる。


 被害者自身はそのうめき声が聞こえていない。聴覚より先に戻るのは視覚だからだ。

 視覚はジワジワと、眩暈とピントの合わないグニャリとした視界が次第に戻り、その頃には遠くで自分のうめき声を聞く。

 ぐわんぐわんと頭のなかで雑音が鳴り響きながら、徐々に正常な聴覚へと戻っていく。

 最後に戻るのは触覚だ。

 変な姿勢で寝た時に腕の血液が止まって、触っても感覚がない覚えはないだろうか。まさにその状態と同じになる。


「うう……」

 もう何十回目だろう。

 唐突に葵が馬乗りになり麻衣の首を絞めたのは。

 白夜のように日の昇らないこの世界で次第に時間感覚も狂ってしまった麻衣は、その回数すらわからなくなってしまっていた。

 そしてこの世界に来て半日も経たぬうちに空腹を覚え、とてつもない睡魔にも襲われた。

 はじめは木の実や雑草を貪って空腹を凌いでいたがそれも限界を超え、生きた兎を捕食するまでになっていた。

 そして自身でも信じられないことに、麻衣は“性欲”というものに目覚める。

 生存本能というべきか、人間は極度な飢餓状態になると爆発的に性欲が高まる。

 葵のいう人間三大欲求は、嘘偽りのない真実なのだ。

 人間と動物の違いとは何か。

 道徳心(モラル)に則り、利他的な、自己犠牲を払えるかという点に尽きる。

 しかし、生存が危ぶまれる状況下においては、人間は動物と同じく本能を優先する生き物である。

 協調とはこの“利己”と“利他”、三者のパワーバランスを調え、調和しようとする人間特有の精神ともいえるだろう。


「あなたもだいぶ“らしく”なってきたわね」

 葵は麻衣の上に跨がり、蔑むような視線を向けた。

 麻衣は周期的な性欲の高まりがくると、隠れて自慰行為に耽ることが増えた。

 葵の知らぬ男の名を呼び、やがてそれを終えると、息絶えるように項垂れていた。

 そんな麻衣をみる葵の心には、あの日の兎をみるような殺意が沸き起こっていた。

 気付けば馬乗りになり、抵抗もせず死を望む麻衣の首を幾度となく絞める。

 麻衣の精神状態はとうに限界を超えていた。

 どうしたらこの世界から離れることができるのか。

 私は何をしているのだろうか。

 どうして私は、生きているのか。

 死にたい、死にたい、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい…!

 私を、殺してよ。


 いや、私があの子を“殺せばいいじゃない”

 なんの前触れもなく、麻衣は腹に落ちるこの肯定を、すんなりと受け入れた。

 どうして私だけがこんな不幸にならなければいけないのか。

 ――だったら、私がこの世界を支配すればいいだけじゃないか。


 嘗ては麻衣も葵に対して、何度か説得を試みたこともあった。

 麻衣にはこの世界が、葵の心象世界に思えたからだ。

 この世界で見る夢は、葵自身の過去を投影していた。

 そのどの登場人物も顔がぼやけていて、唯一、葵の妹の顔だけハッキリと認識することができる夢。

 どの場所でも孤立し、孤独を望む葵。

 誰も助けてはくれない。

 未来に何も望まない。

 望まれない生命を宿したとしても。


 ある日の夢の葵は、自分の下腹部を押さえている映像が映っていた。

 右手には血の着いた柳葉包丁。

 側には裸の男が血まみれになり息絶えている。

 鼻腔にツンとくる鉄の匂い、制服のまま立ち尽くす葵の太股にはこの男の体液が垂れていた。

 深夜2時。

 葵は男の部屋を出て、妹の部屋のドアを開けようとして、やめた。

 フラフラと家をあとにしたまま、近くの海へ歩いていく。

 夜の海は静かだった。

 何者にも邪魔をされない静寂そのもので、港町のこの地域では猫が徘徊しているくらいだ。

 テトラポットに腰を下ろし、空を見上げる。

 その日は新月で、夜空には瞬く星が煌めいていた。

 その星が、キレイだと思わなかった。

 人が星をキレイだと思えるのは、その人の心が健康的であるからだ。

 葵の身体には、新しい命が宿っていた。

 それに気が付いた時には既に22週をとうに超え、どうすることもできなかった。

 静かに刃物を腹部に当てる。

 自分が死んだとしても、世界は明日の太陽を見て、同じ日常が繰り返される。

 私に生きる価値などなかったのだ。

 このまま海の藻屑となり、自然へと還元されて星の一部となればいい。

 死ぬものに未来を憂いていることなど許されない。

 刺せ、早く刺せ!

 この期に及んで何を躊躇している。

 葵は自分の手が震えていることに気が付かなかった。

「なにしてるんスか?」

「――ッ!」

 釣り人か、突然若い男の声がして心底驚いた葵は、ただでさえ足場の悪いテトラポットでバランスを崩した。

 刃渡りの長い柳葉包丁が葵の腹部を貫通し、そのまま海へと転落した。


 この夢はここで終焉を迎える。


 麻衣の目は、死んだ獣のように澱んでいた。

『あの子を解放してあげなくちゃ』

 偽善。これを施すことが彼女のためになる。それでも善行だと、自らの思考を疑わなかった。

 弱肉強食。強いものが弱いものを喰らう。それは万物に共通する自然の摂理であると、この世界が教えてくれた。

 人は死ぬために生まれてくる。

 生きていくために何をするかではなく、終わりがあるからどう生きていくか。

 かの時代に“終活”という造語があった。

 自分が死ぬまでに身辺整理をし、生きてきた証や想いを後世へ託す。


「くだらない」

 今を生き残れない者にとって、それはただの戯れ語に過ぎないと麻衣は一蹴した。

 麻衣はこの世界に降り立ったあの場所にいた。

 白いモコモコ軍団の影も見当たらない。

 地面はひび割れ、島を照らす巨大な満月は空に浮かんでいなかった。

 麻衣の心象が、この世界を呑み込もうとしている。

 彼女は迷うことなく、一直線に建物へ歩いていく。

 その背を追うように、黒い心影がこの世界を書き換え始める。

 何故葵の心象世界に兎が投影され、また一際大きな満月が現れたのか、今の麻衣に考える余裕など無かった。

 小規模なグラウンドの前に着いた時、建物のロビーには葵が一羽の兎を腕に抱いて無表情のまま立っていた。

 麻衣へ向かって手にしていた兎を高々と放り投げると、兎は空中で両足をばたつかせながら難なく着地して、そのまま麻衣の側へ駆け寄った。が、目には見えない境界に兎が駆け寄った時、ウサギはその姿を灰に変えて――消えた。

「葵さん」

 焦点も合わぬ麻衣の瞳は、方向だけ葵に意識を向けて話し始めた。

「もうどうでもいいよ、貴女にどんな過去があるかとか。興味ないし。そうやって足りないモノの埋め合わせに私を付き合わせるのはもう、終わりにして」

 葵は表情一つ変えることなく、麻衣の言葉を聞いて、

「それで?」

 とだけ返した。

 麻衣は冷たい視線のまま、ある日の葵の記憶を口に出した。

「私、あなたを勘違いしていたわ。妹思いのお姉さんなんだって。でも違った。独占欲にまみれたただの人殺しなのよ」

 義父の性的虐待を受けていたのは葵だけではなかった。

 人は物理的に“餓える”と性欲が高まるというが、心理的に餓えた場合は承認欲求が高まる。

 心の渇きを埋めるためにいつしか葵は、義父の行為を受け入れていたのだ。自分だけが必要とされている、と。

 とある日、妹の部屋から出てくる義父をみて葵はそのあと部屋へ入った。

 妹は平静を装っていたが部屋に充満する残り香に、葵の中の何かが音もなく崩れた。

 自分の秘密を妹に知られていたことよりも、両方への殺意が勝った。

 義父を殺めるその前に、妹を哀れむ殺意が彼女を後押ししたのだ。

 自分を知るすべての者を消してしまいたいと思った。

 その判断は正常とはいえなかった。

「同じ長女として恥ずかしいわ。いいえ、同じだと思われたくないの。私はあなたとは違う」

 だから、消してあげる。

「滑稽だわ」

 今度は葵が言葉を発した。

 ロビーからつかつかと躊躇いもなく麻衣の元へ歩み寄り、その表情は何かを憂いているようだった。

「麻衣、あなたやっぱり可愛いわね。殺意が沸いてもその程度。すごくかわいい」

 麻衣の殺気など意に介せず、といった様子だ。

「やってみせて?私を満足させてみてよ」

 葵の挑発ともとれる言動に、麻衣の中の憎悪が膨れ上がる。

 手を伸ばせば届く距離に、華奢な首筋が目に映る。

「下手なマウントを取るのはやめて。お望みどおりにしてあげるわ!!」

 ギラついた瞳に火が着いた瞬間、麻衣は漆黒の翼を纏った。

 焦土に舞う灰のように、浮遊する黒い翼は不吉なカラスのそれと似ていた。

 海面の魚を捉える海鳥の如く、麻衣の右手が葵の喉元をえぐり掴んだ。

 ごくっと喉を鳴らすその動きを手中に感じながら、人成らざる力を右手に込めた。

 葵は口元を嬉しそうに緩める。

 その瞳に麻衣の狂気を匙で舐めとるような視線をおくると、何を思ったのか麻衣の腰に腕を巻きつけ強引に密着した。

「離せ!クズ女ぁあ!!!」

 首を上手く締めれない体制になり、麻衣は発狂しながら身体を捩らせた。

 すかさず葵は麻衣のスカートをたくしあげ、右手を下着に滑り込ませる。

「続けて、続けて、ヅッづげデ」

 この期に及んでまだそんなことを…!!!

「ああああああああッ!!!」

 今度は両手で葵の首を目一杯に締め上げる。

 手の甲に葵の唾液が垂れようが気にも止めず、腹の中から無限に沸き起こる殺意の総意を両の手に注ぎ込んだ。


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