第16話 Cafe_RÖffel

「いらっしゃいませ」

 

 特にこの店が気になったから、というわけではない。

 スエットにジーンズ、スニーカーというラフ過ぎる軽装を見れば、目的地を定めて行動したわけじゃないのは明白だ。

 たまたま駐屯地から離れていて、のんびりした自然の溢れる場所に車を走らせていたら、それっぽい佇まいの喫茶店が目に留まって「ちょっと休憩でもするかな、小腹も空いたし」程度で車を停めた場所。

 店内に入ると、開けた扉がドアベルを鳴らしながら静かに閉まる。

 葉月は長年の習慣でありがちな、会釈すらも自衛隊方式な角度でお辞儀するようなことはない。

 それらしくカウンターに立つ、同い年か少し上のオーナーらしき男性に、一般的な会釈をした。

 素早く店内に目を走らせる。

 アンティーク・モダンな雰囲気に、対面2人掛けの客席が3つ。カウンター席は4つ。レトロな木製の本棚が2ヶ所。

 店内には控えめなジャズピアノが流れている。

 生憎、窓際の1列に並んだ客席は埋まっていたので、カウンターに目をやった。

 同時にオーナー男性と目が合い、それを察したのか「こちらの席をどうぞ」と、カウンター席の一番奥を手で案内された。

 窓に対して背を向ける無防備な場所に、些か躊躇いがあった葉月だったが、致し方なく指定された席に腰を下ろした。

「いかがなさいますか?」

 着席して束の間、男性が話しかける。

 カッターシャツに紺のエプロンをして、180センチは越えているであろう長身の男性。

 心にそっと触れるような、それでいてキザな装いのない、優しい声だった。

 葉月は妙に落ち着かなくて、

「ホットひとつ」

 と、語句がやや強くなってしまった。

「豆はいかがなさいましょう?」

 えっ?!なにそれ知らないわよ、と下げかけた視線を男性に向ける。

 一瞬、ん?という顔をした男性は、葉月の心を知ってか知らずか、にこやかな表情になって続けた。

「僕のオススメにしておきますね」

 そう言われて、葉月は頭に浮かんだ数少ないコーヒーブランドを口にする必要はなくなった。

「よし、この子にしよう。」

 カウンターの後ろに、アンティークか装飾かと思っていた1台のコーヒーミルを手に取り、男性は呟いた。

 わりと葉月の身長は高いほうで、カウンターチェアーであっても、手元こそ見えないものの男性の行動は把握できた。

 おそらく豆を挽いている、お湯の温度を確認している、丁寧にドリップしている、カップは温められている…。

 流れるような無駄のない動きで丁寧に、男性は一杯の珈琲を淹れた。

 それを葉月は何気無く目で追っていた。

「どうぞ。豆はマンデリンを使いました」

 コトリ、と置かれた一杯の珈琲からは高雅な薫りが満ちあふれている。

 日常的に男の汗臭い空間に慣れてしまっていた葉月にとって、この珈琲の香りはもはや暴力的な域に達していた。

 葉月が呆けていると、どうぞ、とデザートが置かれた。

「あの、頼んでません」

 顔を上げると、またもにこやかな笑顔で、

「試作品なんです、まだ商品ではなくて。良ければ感想聞かせてもらえませんか?」

 という。

 親切にしてもらえるのは、嬉しい。

 それどころかお腹は減っている。

 ものの10秒ほど、葉月の脳内では熾烈極める葛藤が繰り広げられていた。

 大人の女性足るもの、みっともなく、ガツガツするものではない。

 いやしかし、人様の好意を無下に断るのは国民を守る立場として…いやいや待て待て葉月。冷静になるんだ。

 食べたい!自制せよ!食べたい!自制せよ!食べたい…!訓練を思い出せ!

 ―これは試練だ、負けるな葉月―


 葉月は負けた。


 空腹を前に訓練など、どうでもよくなった。メロスが激怒しようが、知ったことではない。なんなら今日はオフの日だ、私にも選ぶ権利というものがある。

 許せ、セリヌンティウス。


「おいしい!!!」

 チーズケーキは想像の遥か上をいく旨さだった。

 珈琲とは、これほどまで深みのある飲み物だったのか。

 もはや恥も何もない。

 いいじゃないの、こんな田舎のカフェなんかに二度と来ることなんてないんだから。

 今はこの瞬間を噛みしめたい。

「喜んでもらえたようで、よかったです」

 その声で、葉月は我に返った。

 

 ―私は椎名葉月、巨漢も黙る鬼の陸将補。女性初の陸将となる女にして長女。

 強く気高く高潔。武士道を重んじ―

 

「そういえば黒ごまプリンを作ってみたんです」

「いただきますっ!」

 本能はウソをつかない。

「抹茶のクリームブリュレを試作で作ってみたんです」

「食べますっ!」

 ありがとう神様、生きててよかった。

 これまでの訓練はこの日の為にあった。人生にはご褒美が必要、きっとそうだ。

 男性の親切心に絆(ほだ)されたわけでは断じてない。

 葉月はあれこれ理由をつけて、自身の醜態を無かったことにした。

 大丈夫、二度と来ることなんてない。

 大事なことなので二度言いました。


 2時間後、散々食散らかして言い訳のしようもない葉月は、積み重なったデザート皿を見て青ざめた。

「す、すみませんでしたァ!!!」

 カウンターに一万円札をダーーン!と置いて、咄嗟に敬礼なんかしちゃって、慌てて店を飛び出した。

 これが葉月と杉浦颯(すぎうらつばさ)との初めての出会いだった。


 一週間後。

「あ、いらっしゃいませ」

 

 葉月はおそるおそる扉を開け、ドアベルの音を最小限に留めながら店内に足を踏み入れる。

 前回は何も考えずに入り、出る時は顔を真っ赤にして飛び出たものだから、今日は2回目にしてようやく店名を知る余裕ができた。

 【Cafe_RÖffel】カフェ・ロフェル

 二度と来ることなんてない。

 そう思っていたが、これは謝罪に伺ったのだ、と。このロフェルに向かう車内で葉月は何度も自分に言い聞かせた。

 手にはお詫びの菓子折りとして、東京から取り寄せたバームクーヘンを持参していた。

 当然、服装にも気を配ったつもりだ。

 

 店内には誰もおらず、幾許か心を撫で下ろした葉月は開口一番、

「その節は申し訳ありませんでした!」

 と深々頭を下げた。

「頭を上げてください。どうぞ、こちらに」

 杉浦はいつものにこやかな表情で、葉月をカウンターの席へと招いた。

 葉月は借りてきた猫のようにちょこんと席に座り、菓子折りを渡すタイミングを逃したと後悔していた。

「見ていてください」

 杉浦は何の前触れもなく、珈琲を淹れながら話し始めた。

「粉の表面にお湯を置いていく感覚で注ぎます。このとき、粉全体に行き渡るよう意識して…。ネルを手で持ち、お湯を運ぶように傾けるとやりやすいですよ」

「は、はい…」

「お湯の温度は91℃~96℃がいいでしょう」

「ええ…」

「これは2杯分なので、蒸らします。そうですね、25秒くらいでしょうか。」

 葉月は今がチャンスかと、おもむろに立ち上がろうとしてすぐに遮られた。

「ここからが重要です。見ていてください、真ん中にお湯を落とします。徐々に外側に向かって円を描き、500円玉くらいの範囲に留め、お湯を一定の細さで注ぎます。30秒ほど注いだら一度止め、落ちきらないうちに再びお湯を注ぎます。止めずに目的の量まで注ぐと、よりスッキリとした味になります。」

 珈琲一杯を作るという工程にも、これほどまでに微細で繊細な流れがあったのかと、正直驚いた。

 杉浦は目的の量まで落としたのか、落ちきらないうちにカップからネルを離して、あっ、と声を上げた。

「すみません、実は珈琲にあうお菓子を切らしていて…何かあればいいのですが…」

 んば!っと立ち上がって、葉月は紙袋を両手で掴んで杉浦の前に付き出した。

「ば!バームクーヘンがあります!!」

「それはいい。これほど相性の良いお菓子はありませんよ。さっそく切り分けましょう」


 葉月に犬の尻尾が生えていたらきっと、誰から見ても心の中がバレバレだったに違いない。


 次の休日も、またその次の休日も、葉月は足繁く通った。

 5回目の来店にしてやっと「こんなに来て頂いているのに、お互いの自己紹介もしてませんでしたね」と、2人は笑いながら名前を紹介し合った。

 葉月は職業を【公務員】ですと言い、杉浦はそれ以上詮索はしてこなかった。


 この頃から葉月陸将補は、自室に報告のため出入りしてくる佐官クラスの隊員から、

「椎名陸将補、最近ご様子が変わられたようですが…」

 などと、妙な含ませをして詮索してくる輩が増えた。

「なんだ、ハッキリ言ってみろ佐竹1佐」

「ハッ!その、大変お美しくなられたと思いましてッ!」

 葉月は硬直したが、強面を保ち、

「バカモノ!仮にも自衛官である者が色香に呆けるとは何事だ!その胸の勲章は飾りか!出ていけ!!」

 と盛大に怒鳴り付けた。

 脱兎の如く退室したのを確認して、葉月は素早く引き出しからコンパクトミラーを取り出し、

「そんなに変わったかなあ~?」

 と、自分の容姿をまじまじと見返していた。


 【Cafe_RÖffel】カフェ・ロフェルに、秋の装飾が加えられた頃。

 太陽の木漏れ日は優しく、海は凪いている。

 いつものようにホットを頼んで、葉月はカウンター席の定位置で杉浦と談笑していた。

 窓際の客席には眼鏡をかけた80代くらいの、ヨレヨレな背広を着た人が1人、読者をしながらくつろいでいる。

 何度か来店する度に見かけた人だが、ドアベルが鳴っても顔を上げることはなく、1度も目を合わせたことがなかった。

 寡黙な人だな、と葉月は思っていた。

「葉月さん」

 杉浦と葉月は、子供の頃の可愛らしい夢について話している。

「あ、はい」

 過去の記憶を辿っていたら、ぼーっとしてしまっていたようだ。

「話は変わりますが、葉月さんは昨夜、どんな夢を見ましたか?」

「ゆめ、夢ですか?」

「ええ、睡眠の夢です」

「あ!実はこのお店に来た夢を見たんです!」

「夢の中でもロフェルに来てくれたんですか?」

 杉浦はクスクスと笑ってみせた。

「でも、昨日の夢は…少し変な夢でした」

 へえ、どんな感じでした?と杉浦は聞く。話しながらも、ネルを洗ったりミルの部品を手入れしたりと時間は無駄にしていなかった。

「私がお店に来て、中に入ったら誰も居なかったんですよ。杉浦さんも」

 ガタン!と、杉浦はホッパーをブラシで手入れしていた手を滑らせた。

「おっと、すみません」

「大丈夫ですかー?」

「ええ、大丈夫ですよ。それで、その夢の続きは?」

 えーと、と葉月は自分の記憶を辿り、残りわずかな情報を引っ張り出した。

「あ、そうそう。なぜか私、仕事着で来てたんですよね!絶対有り得ないんですけど!」

 あはは、と葉月は笑った。

「そうなんですね」

「僕は絵本の夢を見ました」

「絵本、ですか?」

 杉浦は窓を見ながら、語り部のように話し始めた。

「そうです。書斎のような机の上には、1冊の分厚い本が置かれていました。僕には見覚えのない本です。最初の1枚目を捲ってみると、写真のような挿し絵のようなページが現れます。それもモノクロなのです。その絵本には、僕が今まで出会った人たちが、ページを捲る毎に飛び出してくるんです。どんどん、どんどん。僕は心のなかで『このページじゃない、このページでもない』と、次々捲っていくんです。」

 葉月は、これほどまでに長く話す杉浦を初めてみた。

 ――それよりも。

「そして、物語は最終章に入ります。終わりに近づくにつれ、登場人物はめっきり少なくなります。でも最後の数ページは、鮮やかでカラフルになるんです。そこをめくると、現れたのは――。」

「マスター。コーヒーのおかわり、頼めるかな?」

 突然、葉月の背後から太く低い、ダンディーな声が割って入った。

 眼鏡をかけた背広のご老人だった。

 杉浦は僅かに口を開いたまま数秒、男性と目を合わせていた。

「わかりました」

 いつものスムーズな動きで、おかわりの珈琲を淹れる杉浦。

 話に夢中になりすぎて、他のお客さんの存在を忘れていた。葉月は気まずくなって、ご老人に「すみません」と頭を下げた。

「いやいや、ワシこそすまんね」

 年配の老人は高らかに笑い、右手をさっと挙げて軽く謝罪の意を示した。

 そして頭を下げた葉月へ、こちらへ来るようにと手招きする。

「この年になると視野が狭くなってしまうでな。まあ、どうぞどうぞ」

 一度も話したことすらなく、他人に興味などなさそうなこの人は、実に流暢な口振りで葉月に喋りかける。

 ご迷惑をおかけした手前、断るという選択肢のない葉月はおずおずと、老人に向き合うように浅く腰掛けた。

「…失礼します」

「おお、そんなかしこまらんでくれ。んー、よくみると実に美人さんじゃなあアンタは」

 老人はいつものクセなのか、さぞ満足そうに顎髭をさっと撫でて、ぽつりと言った。

「詫びと言ってはなんだがね」

 そういって今一度深く座り直した老人は、すっと葉月の瞳を見据えた。

 その一瞬、この老人からただ者ではない雰囲気を感じ、背筋が伸びる。

「人生というのは本みたいだとは思わんかね?」

 そう言って老人は、先ほどまで読んでいたのであろう本を手に取り、膝の上へ乗せた。

 葉月はちらりとタイトルに目をやる。

【アルジャーノンに花束を】

 知的障がい者から、脳手術で一気に天才へと変貌を遂げた主人公の話だ。

「ああ、これかね。世界中が涙した、不朽の名作じゃよ。幸せとは、なにか。恵まれた環境が幸せとは限らない。ならば、幸せに必要なものとはなにか。…そんなことを考えさせられる物語だった」

 そう言って老人はテーブルの上に本を置いた。

「人間の一生は本と同じでな。ワシの1ページは誰かの1行になり、1節になる。人の生きた証であり教訓でもある『ワシという本』は、誰かの伴侶となるやもしれん。心の栄養というやつじゃ」

 コトッ、とテーブルにコーヒーが2つ。気配を消していたのか、側には杉浦が立っていた。

「おお、すまんね」

 老人は動じることもなく、コーヒーを手に取る。

 葉月は内心びっくりしてしまい、杉浦の顔を見た。

「先生、あまり葉月さんを困らせないでくださいよ」

 仕方のない人ですね、と杉浦は笑顔を見せた。

 先生、といわれた老人の正体を脳内で詮索することもなく、葉月はその杉浦の表情をまじまじと見る。

 さっき感じた違和感はなんだろう。

 女の勘、というべきか――。

「心で感じることは、真実じゃ」

「え?」

 コーヒーカップを手に、窓の外に見える海の景色を眺めながら、独り言のように呟く。

「本に限ったことではない。美しいものを見て心が動く、時には理屈を越えて心のままに動く。それは宇宙の概念を根幹から覆す真実じゃ」

「………」

 葉月は老人の言葉の意味をまだ、理解できずにいた。


 それから数ヶ月の時が経ち、葉月は陸上自衛隊としては初の【女性陸将】となった。

 この数ヶ月は多忙すぎて、なかなかロフェルに行く時間がなかった。

 陸将となって一番の厄介なのは、パパラッチや正規のマスコミ、報道陣の対処だった。

 連日取材を受け、同じような質問を毎日毎日繰り返し答え、ふと『実家にもマスコミ来てるわよ』という、母親の電話を思い出したりもした。

 それもあって、ロフェルに顔を出せなくなっていたのが本音でもある。

 葉月は女性の部下を呼び出し、基地から変装をして抜け出す計画を立てた。

 広報部にも根回しをして情報操作を行い、葉月が基地の外へ移動するかのように偽装した。

 本命はロフェル。

 マスコミは大名行列をなして囮に付いて行き、思いの外簡単に“脱走”は成功した。

 女性部下の手厚い偽装は、葉月が今までにしたこともないようなメイクや洋服、そして装飾だった。

 付けたこともないイヤリングをつけ、口唇にはうっすらと紅を塗った。

 実年齢より若く見えるとはいえ、葉月は悶えるほど恥ずかしくなっていた。

「椎名陸将、これは極秘任務のためですから、我慢してください!」

 などと、真面目づらをしながらめちゃくちゃ楽しんでる部下のしたり顔を忘れない。

 

「いらっしゃいま…せ」

 久しぶりに訪れたロフェルは、何一つ変わっていなかった。

 葉月は声の主と目が合わせられず、もじもじしながらドアベルが鳴り止むまでその場に突っ立ってしまった。

「葉月さん」

「ハッ!」

 条件反射で思わず敬礼をしそうになる。

「店の看板、クローズにしてもらえますか?」

「え?!お休みでしたか?」

 なんだよお!せっかく綺麗にしてきたのに!!と、内心ガックリしそうになる葉月に、

「いえ、今日は貸し切りです」

 と、不可解なことを言い出す杉浦。

「…予約でしたか?」

 泣きそうになりながら、口唇をきゅっと噛む。

「今日は葉月さんを、貸し切りです」

「!!!」

 途端に葉月の真っ赤になって、鼓動が激しく波打った。

「どうぞ」

 そういわれて案内されたのは、いつものカウンター席ではなく窓際の席だった。

 杉浦の何気ない柔らかな一言が、葉月の胸を嫌でも高鳴らせる。

「は、はい」

 明らかに不馴れなピンヒールの靴音が、木製の床板を踏んでこだまする。

 葉月が座ったのを確認した杉浦は、

「葉月さん」

「はぃ…」

「豆はいかがなさいますか?」

 そういって杉浦はカウンター越しに、にやりとした表情をみせた。

「…もう!あれから勉強したんですからね!えっと、」

「なるほど。じゃあ本日のオススメということでいいですね」

「この流れでオススメってどういうことですかー!マンデリンです!マンデリン!」

「言われなくてもマンデリンです」

「くぅ~!」

 途端に2人は顔を合わせてクスクスと笑い出した。

「ところで葉月さん?」

 にこにこ笑った杉浦は、少々聞き慣れない口調で問いかける。

 葉月はそんなわずかな違いにもドキっとしてしまう。

「はい?」

 悟られまいとなるべく平静を装って答える。

「今日は、葉月さんが珈琲を淹れてみましょう」

「へ?」

 杉浦はクイクイと、人差し指で葉月をカウンターへ来るように即し、言われるがまま葉月はカウンターの中へ入った。

 葉月と杉浦。

 2人は横並びになってカウンターに立った。

 葉月はカウンターから見る店内の風景を、なんだか不思議な気分で眺めた。


 もし、私が自衛隊に入隊してなければ――。


 もうひとつの“可能性”の世界線を、女として考えずにはいられなかった。

『別の世界に行けるなら、私は迷わず選ぶかもしれない』

 ふとそんなフレーズが脳裏を過る。

「葉月さん」

 手元に準備されたコーヒーミルと豆。

 側にある小さなコンロには、既に弱火にされたドリップポットが用意されている。

 葉月は1度もコーヒーを淹れたことがない。ここに来るまでは、インスタントコーヒーすら飲むこともないライフサイクルだったから。

「……!」

 無言で手が動く。

 素人とは思えぬ滑らかな動きで手順を進める。

 それは杉浦と寸分違わぬくらいの精度で、見ていた杉浦も思わず息をのむほどだった。

 どれくらいの時間が流れただろうか。

 店内には秒針を刻む音が響き、無言の時間が過ぎてゆく。

 混ざりけのない、澄んだ空間。

 静寂さえも愛おしい。

 

 葉月はゆっくりとドリップポットを傾けて、適度なところで止める。

「………」

「………」

 ネルフィルターを伝い落ちる最後の一滴まで、2人は黙って見つめた。

 ポタンっ、とコーヒー液が落ちた時、

「完璧です」

 と杉浦は言った。

「集中したぁ~」

 そういってヘロヘロになる葉月を余所目に、杉浦はカップに注いだコーヒーに口を付けた。

「葉月さんなら、出来ると思っていました」

 杉浦は満足そうに笑顔を見せる。

 それもそうだ。いつも葉月は杉浦の一挙一動を目で追っていた。

 気付かないうちに…いいや、本当は気付いていた。

 自衛隊の中で女であることを意識的に否定していた。

 必要ない。

 女らしさなどこの世には不必要なものだ。そう思っていた。

 その気持ちとは裏腹に、杉浦への想いは強くなる。

 この気持ちは――。

 

「さあ、いつもの雑談でも始めましょうか」

 パンパン、と杉浦が手を叩いて葉月の思考は強制停止する。

「あ、はい。」


 この時間がずっと続けばいいのに。


 窓際の椅子に2人は腰掛ける。

 いつものように、いつもと変わらない2人が、そこにはいた。


****


 冬の寒さが身にしむ2月。

 冷え込みがより一層厳しくなり、雪でも降りそうな雲が辺り一面を覆っている。

 自衛官の朝は早く、習慣化されているから苦に思う隊員もない。

 

 備え付けの電話が鳴る。

「私だ」

 葉月は自室のデスクに座り、書類の山に目を通しながら受話器を取る。

 制服の胸には【き章】、右腕には【部隊章】、肩には桜星の【階級章】が光る。

「椎名陸将、アポ無しの方が大至急取り次いでもらいたいと…」

 失礼のないように取り次ぐ電話担当の女性は、些か声が上擦っている。

 広報部か、物事には順序があるだろう。

 連日の取材や書類の事務処理に追われ、気が立っていた葉月は語句を強めた。

「名前を言って。マスコミなら追い返して」

「いえ、それが…」

 言いかけて受話器の向こうがガサガサと騒がしくなる。

「ちょっと!困ります!」

 受話器が物理的接触により、ガン!と音を立てて、広報部以外の誰かに奪取されたのを察した。

「どうした!?状況を報告しろ!」

「葉月の嬢ちゃん!」

「?!」

 耳に当てた受話器から大音量の声がした。思わず放して受話器を二度見する。

 誰だ?聞き覚えのあるような無いような…。

「そんなところでふんぞり返ってないで、表に出てきな。一大事だ。」

「どなたですか…?」

 相手の気迫が凄まじく、若干尻込みしそうになる。

「ロフェルの老いぼれだよ、四の五の言わずに降りてこい!」

 ガチャン!と電話が切れる。

 えええ?!

「一体どういうこと…」

 電話の相手は、ロフェルの常連である名前も知らない高齢の老人だ。

 葉月は、何か胸に不安感を覚えた。

 デスクに置いていた帽章のついた帽子を手に取り、足早に部屋を後にした。


****


「どうしてここがわかったんですか?」

 言葉を発すれば煙のように息が白くなる。

 葉月は広報部へ向かったが、老人男性の姿は見えず、その電話担当者から『門のところで待っているから来てくれ』と、言付けを頼まれていたと聞かされ、慌ててその場に向かった。

「椎名葉月という名前も顔も、あんたが思ってるより世間に認知されとるからな」

 老人は自家用車であろう、フォルクスワーゲンの【ザ・ビートル2.0R-Lineマイスター】の前で、葉月を待っていた。

 低い排気音を唸らせるマフラーからは、もくもくと湯気が立ち上る。

「知っていらしたんですね…」

「そんなことは、いまどうでもいい。早く乗らんか」

 老人の眼光は、前回会った時より鋭くなっていた。

 老人は運転席へ素早く乗り込み、窓を開けて更に催促する。

「はづきさんよ」

「状況も説明してもらえず、はいそうですかとは乗れません」

「ワシもあんたの立場は十分理解しておる。だが、それを差し置いても、今は何も聞かずに乗ってくれんかの。でなければ、あんたは一生後悔するぞ」

 そういった老人は、少し表情を曇らせた。暫しハンドルを眺めたまま、ふとエンジンを切って車から降りてきた。

 老人は葉月を真っ直ぐ見据える。

「…いまから言うことを、心して聞いてくれ。あんたにとっては…辛いじゃろうが」

 脳裏にあの人の顔が浮かぶ。

 何か、なにか良くないことが起こっている。

「杉浦さんの…ことですか?何かあったんですか……」


 ―杉浦くんは、亡くなったんじゃ―


「………えっ」

 葉月の思考が停止する。

 何を言ってるんだ。

 何を言ってるんだこの人は。


「ワシは彼の主治医でな。ヤツはレベル4の末期にも関わらず、理学療法を拒否していたんじゃ。『終末期ケアくらい、自分でやります』ってな。訪問診療で結構です、なんぞ言いよって。最後まで生意気な小僧だったわい……」

 もう、葉月の耳には何も届かない。

「嬢ちゃん、せめて最後にあいつに会ってやってくれんか」

「冗談はやめて!!!」

 葉月の悲鳴のような叫びが響き渡る。

「……急なことで、受け入れられんのはわかる。じゃが、真実じゃ」

「そんなわけ!…そんなわけ、ないじゃない…」

 駐屯地入り口の門番である隊員も、なにやら様子がおかしいと気付きはじめる。

「な、なにを根拠に…そんな……だって、認められない。そんなの、認められるわけないでしょう!!」

「葉月!!」

 左頬に強い衝撃が走る。

 完全に葉月の五感は麻痺していた。

 ぶたれた――?

「しっかりせんか!生きる者の務めを果たせ!死んだものを弔うことが、いまお前さんにできることじゃろうが!」

「ヤツも…杉浦もそれを望んどる!」

 老人はおもむろに、よれた上着の内ポケットから封筒を取り出して、硬直したままの葉月の手に握らせた。

「杉浦からじゃ。いつでもかまわん。杉浦は…待っておるぞ」

 老人は葉月の肩に手をやり、ポンと優しく叩くと踵を返して車へ乗り込んだ。

 葉月の全身が小さく震えている。

 俯いた顔からは、その表情を窺い知ることはできない。

 それでも老人は、葉月の胸の内が痛いほど伝わっていた。

「これも定め…かの」

 そう呟いて、彼女の前からゆっくりと車を発進させていった。


 立ち尽くす葉月。

 涙は、出ない。

 どうしてこんなに悲しいことなのに、涙が出ないのか。

 受け入れていない、受け入れたくない自分がそこにいる。

『葉月さん』

 ハッとして顔をあげる。

 ――あの、優しい声がした。

 開いた瞳孔が、焦点の合わないままに声の主を探す。

「杉浦さん…?」

 かすかに、あの珈琲豆の匂いがした。

 思い出が、頭の中で逆再生されていく。

 

 にこやかに笑う、あの笑顔が好き。

 優しく名前を呼ぶ、あの声が好き。

 珈琲を淹れる時の真剣な、あの瞳が好き。

 専門的過ぎる話を夢中で喋る、あの表情が好き。

 なによりも。

 2人で過ごした、あの時間が好き。

 私は、あの人を――。


 駐屯地のアスファルトに、綿のような雪が舞い降りる。

 今日は積もりそうだな。

 門番の隊員は空を見上げてそんなことを考えた。

 

 まだ誰も通っていないはずの雪上に、乱れた靴跡が残されていた。

 

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