第9話 決められた結び目

 それはあまりにも突然だった。


 ベッドから飛び起きた僕は、消えそうな記憶の残像を何かに、どこかに記さなければならない衝動に駆られていた。

「どうしたの?櫻井君」

 隣で寝ていたであろう彼女が、寝ぼけ眼で声をかけるが僕の耳には届かない。

「書くもの書くものかくものカクモノ…!ノートか紙、何か、何かない!?」

 半ば錯乱状態の僕が、その場足踏みをしながら周りを血眼になって探している姿に彼女は呆気に取られている。

 異国の風が白いカーテンを靡かせ、窓際のテーブルを柔らかな日射しが照らした先に、チョークを入れてある箱があった。

 まるで飢えた獣が獲物に飛びかかるようにその箱に食らい付くと、記すためのノートや紙のことは完全に除外して、窓枠の隣にあるスペース、壁紙にチョークで殴るように書き始めた。

「くそっ!」

 力を入れすぎチョークが折れる。すかさず2本目を引き出して、その残りの箱を床に投げ捨てた。

「櫻井君……」

 クスリでもやったのかと疑っているかもしれない。せっかく交際までこぎ着けたのに、こんな醜態を晒してしまうとは…。いや、いま『そんなことはどうでもいい』

 一心不乱に『何か』を書きまくる。

 僕の知らない公式?数式?呪文か詠唱術式かなにか、さっぱりわからない。

 なのに僕の頭の中には『ソレ』が克明に、遺伝子レベルといっていいほどに刻まれている。

 だがその記憶はまもなく『消去』されると、僕にはハッキリとわかっていた。

 目覚める前の僕は黒板の前にいた。

 今まさに壁紙に書いてある『ソレ』を書き終え、完成した、と言った。

 それをなぜ、この世界に残さなければならないのか?

 一瞬でも躊躇ためらえば消えてしまいそうな『記憶』

 既に壁紙の半分に到達した謎の文字列は、このスペースでも足りないとばかりに下へ下へと書き延ばされてゆく。

 軽いガウンを纏っただけの彼女が黙って傍へ歩みより、僕の書いた謎の文字列をじっと見ていた。

 時間にして15分以上、床に投げ捨てたチョークをさらに4本追加して、僕はすべての記憶を解放した。

 気づけば部屋を時計回りにすべての壁という壁に、理解不能な文字の羅列を書きなぐっていた。


「完成した…」

 もう1人の僕と同じように、その言葉を呟いた。

 同時にとんでもないことを『成し遂げた』ような『禁忌を犯した』ような気持ちが心のなかで葛藤をはじめる。

「櫻井君、あなたの専攻って『自然科学』よね?」

 行き付けの店の店員からGenieと言われた椎名三咲は、目を細めて僕に問いかける。

 それには答える気にはなれず、すべての力を使い果たした勇者のように立ち尽くしていた。

「櫻井君、あなたこれをどこで?」

 少し引っ掛かる言い方だとは思ったものの、素直に答えた。

「僕にはわからないんだ、これが何かもわからない…」

「…………」

 三咲は暫し考え込むように腕を組んで部屋の中を歩き回り、何かを言おうとしては止め、ひとつひとつの文字列を見ては深く唸った。

「三咲、これがなにかわかるの?」

 三咲は急に吹き出したと思ったらイタズラっぽく笑って

「これだけの偉業を成し遂げた本人がわからないなんてことあるの?」

 …偉業?なんのこっちゃ。

「これはね、いわば『多世界へのアクセスを可能にする』魔法の理論よ」

 そして、

「私たちが研究していることでもあるわ。正確には、いまあなたが完成させちゃったから過去形になるけれど」

 といった。

「…なんだって?」

 返した言葉は最後には裏返っていて、バカみたいに聞こえたかもしれない。

「まさか…とは思うけど、私に身分偽ったりしてないわよね?」

 なんでそんなことしなきゃならないのか。

「三咲には信じて欲しいな」

「念のため聞いただけよ、あなたがそんな人じゃないことくらいわかってるわ。不器用だもの」

 最後の一言は余分だなあ…。

 三咲はリビングにある木製の椅子をズリズリと引き摺って僕の近くまで持ってくると、背凭れの笠木に両腕を置いて逆向きに腰かけた。

「わたし、基本的にはどんなことにも驚かないわ。多世界の研究してるくらいだもの。でも気になるのよ、櫻井君。この知識はどうやって会得したの?」

 一言でいえば『夢の中』

 しかしあまりにも稚拙ではなかろうか?

「…僕が完成させた。夢の中の」

 言っちゃいました。

「夢の中?あなた、睡眠中に完成させたってこと?それじゃ答えにならないわ」

 実に不満げである。

「ホントなんだよ!目覚めたら頭の中にあった!でも消去されるから、だから、書き留めたんだ」

 三咲はすかさず指摘する

「あなたに夢を見る原理を説明するのも野暮だから省略するけど、本人に知り得ない情報、しかもこれだけの膨大な…。100年後にだって、いいえ、1000年経っても解明されないようなことを貴方は寝起きわずか15分足らずでやってのけた。世界のどれだけ優秀な科学者や物理学者を集めたって出来やしないわ」

 彼女は1度言葉を切った。

 三咲の言葉はその研究に携わっている者としては実に不自然だ。

「三咲、キミはそれを研究してるんだろ?どうしてそんなに否定的なんだよ」

 かなり前に、とある2つの物理学者チームが別々に行った実験で『第4の空間次元の存在を見出した』と世界を驚かせたが、確かにそれ以降の進展はこれといってなかった。

 三咲の表情が少し曇ったように見える。

「わたしは…私は、その理論を『完成させてはいけない』と思っているの」

 なに?どういうことだ??

「ちょっと待った。それは矛盾してないか?」

 すると彼女は僕をまっすぐ見てこういった。

「もし私利私欲の塊のような権力者が、偶然タイムマシンを見つけたらどうすると思う?『世界に公表して政府機関へ引き渡そう!』なんていうと思う?答えはNOよ」

 ここまで聞けば彼女の言わんとしていることはわかる。わかるが…。

「私はこの研究を『研究』として終わらせたいの、研究者として見届けたいと思ってる。偶然発見されたとしても悪用されたりしないように」

 学術的な研究の目的は、詰まるところ新しい事実や解釈の発見にあると言っていい。それがこの研究者はどうだろう。

 反逆者、謀叛者、国費泥棒…なんと謗そしりを受けることやら分からない。

 卓越した知性を持ち、最先端の研究者でありながら、学術研究の意義を真っ向から否定する思想を持っている。

 言うなれば、ヴィーガンでありながら食用の家畜を育てているようなものだ。

「三咲、キミの考えはわかったよ。でもこれ……これどうすればいいんだ…」

 部屋のあちこちに書かれた多世界干渉理論(仮)を見渡して、ため息をつく。

「消す。とりあえず消すけど…私は1度理解して覚えたら忘れないから……」

 いやいやどうするのよ!?

「それよりも!」

 三咲は半ばキレ気味で吠える。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ」

 1度落ち着かせたほうがいいと判断した僕は、両手を前に、その意図を示して制止させた。

「この…よくわからない理論は、確かに僕が書いたけど、僕じゃないんだ。現にいまもう一度書けと言われたって書けないし意味もわからない。もちろん説明もできない」

 僕はふぅ、と息を吐いた。

「まず、説明するために必要なことをしよう」

 三咲は何かを期待するようにパッと顔を上げた。

「紅茶でも入れない?僕はダージリンがいいな」

「はあ?」

 期待して損した、とばかりに三咲は顔をしかめた。

「それをいうなら、櫻井君。パンツ履いたら?」

 なにいいいい?!

 一糸纏わぬ姿を認識した僕は、慌てて股間を両手で覆って内股になった。



****



 シャワーを浴びる為に全裸だったとばかりに、服を着るのを惜しんでシャワーを済ませ、三咲が用意してくれた着衣に袖を通しながらリビングへきた。

「はあー、スッキリ」

 言葉とは裏腹に、頭の中では様々な推測や仮説が渦を巻いていた。

 テーブルには直径20センチほどの大きなパンとバターが置かれている。

 ドイツではお馴染みのブロートと言われる、ずっしりと中身の詰まった、3ユーロ程度で買える固めのパンだ。

「簡単なものだけど、これでいいよね?」

 パンに付けるトッピングのハムとチーズを白いお皿に乗せて、三咲が席へ運んでくる。

 紅茶はもう淹れてあるから飲み頃よ、といって僕の対面に腰掛け、それに習って僕も席に着いた。

「さて…と」

 僕はブロートを切るための専用ナイフをパンの表面にあてがい、ガリガリと音を立てて切り分けていく。

 切れた1切れを三咲に、もう1切れを自分用に切り分けた。

「なあ三咲、そもそも人間ってどうして夢をみるの?」

 ありきたりな質問をとりあえず投げてみた。

「それにはまず、脳の大雑把な構造を説明しないとね。専門外だけど」

 といい、さきほど切り分けた2切れのヴァイツェンブロートの底辺を合わせた状態にしてテーブルの中央に置き、脳に見立ててイメージさせた。    

「大脳というのは右半球と左半球で機能が大きく異なる、これはわかるわよね?一般的に言語中枢がある方を優位半球、ない方を劣位半球といって…でも左右で機能が分かれているだけで、どちらが優れているとか劣っているという話でないの。通常右利きの人は99%左側が優位半球で、左利きの人は右側が優位半球であることもある。優位半球は生まれたときから決まっているわ」

 三咲は左脳に見立てたパンの前側を指差し、

「優位半球の前頭葉前半部は、思考、自発性、感情、性格、理性などが中心で、病気や怪我で優位半球の前頭葉が障害を来すと、これらの機能が低下する」

 続いてその指を底辺の真ん中へスライドする。

「側頭葉の内側には記憶や本能・情動に関わる部分があるの。記憶に関わる部分は海馬と呼ばれてる」

 ふむふむ、専用外と仰るわりには実に専門的な解説ではないか。

 三咲はパンを両方の皿に戻して、次なる説明を続けた。

「睡眠の約75%はノンレム睡眠で残り約25%がレム睡眠であり、レム睡眠とノンレム睡眠は約90分…これは諸説、もしくは個人差があるから正確には断言できないけど、一定の周期で繰り返されてる。主に夢を見るのはレム睡眠時。突拍子もない夢なのに違和感がないのは、レム睡眠中には視覚などの感覚をつかさどる大脳皮質感覚野や、感情をつかさどる大脳辺縁系が活動している一方、論理的な思考をつかさどる前頭葉の一部の活動が低下しているからなの」

 うーむ、さっぱりわからん…こともない、か。

「一般的にはノンレム睡眠だと『脳の活動が休止している』なんて言われてるけど、それは間違いよ。深いノンレム睡眠時でも夢は見ている。さらに言えば、睡眠時において脳は左右交互に活動と休止を繰り返している、なんていう説もあるわ」

 三咲は少し冷めたかもしれないダージリンのカップに軽く口をつけて、喉を潤した。

「結論から言ってしまうと、夢のメカニズムっていうのはハッキリと解明されてないの。眠るプロセスやメカニズムは解明されていても『夢そのもの』は外部から一切干渉できないのよ」

 まるで開けてはならないパンドラの箱ね、と言った。

 三咲は一旦ティーポットのお湯を追加すべく、キッチンへ向かった。

 ふいに僕の頭の中にある仮説が浮かぶ。

 ちょっとバカらしい考えだが、今となっては何でもアリな気がした。

「なあ三咲」

 やかんに水を入れる背中に声をかける。

「んー?」

「この世界の僕には知り得ないことを『別の世界の僕』と睡眠中、つまり夢の中で繋がって記憶を共有した…なんてことは、ないか」

 返事はなかった。

 かーん、ガランガラン!

 代わりに聞こえてきたのは、ヤカンごと床にぶちまけた音。

「な、なんぞ?!」

 慌てて席を立とうとした瞬間、三咲が目を見開いてテーブルへ走って来たかと思えば、バーンと机を両の手で叩いた。

「ご、ごめん、研究を馬鹿にしたとかそんなんじゃないんだ…思い付きで…」

 やばいめちゃ怒ってる…のか?

 さらに三咲は3度テーブルを両の手で叩きながら口許をワナワナさせ、

「そ・れ・だ!」

と、叫びに近い声を張った。

 キラキラした瞳と歓喜に満ちた声で、床に転げたヤカンや水溜まりなど気にも止めず『そうか、そうだったんだ!』などと小躍りしながら僕の元へ来て、ガバッとハグをした。


 僕には見えないその瞳は、今日一番の輝きを帯びていたに違いない。



****


「もちろん思考実験の域を出ないわ」

 先ほどとはうって変わって冷静ないつもの声になっていた。

 本日は『個人の裁量でお休みにすると決めた』らしく、いつものコンタクトではなく在宅用の赤い眼鏡をかけている。

「なんだよ、さっきはあんなに嬉しそーにピョンピョンしてたじゃないか」

「そうよ」

 どっちなんだよ…

「事実この理論はこの世界に『今』存在していて、それと櫻井君の状況を擦り合わせた結果、これが妥当な着地点だと思ったの」

 新進気鋭の研究者様らしからぬ憶測である。

「私たちが出逢ったのも、この世界の意思なのかもしれないわね」

「…らしくないロマンチシズムですこと」

「いいじゃない、今日は人類史上…ううん、全宇宙規模で歴史的な1日なんだから。もちろん公表するつもりはないけど」

 人工的に多世界への干渉を可能にする理論、そして無意識下での全人類多世界干渉。

 すべての人類が、相互に多世界干渉を行っているなどと誰が信じようか。

 だが、そう考えると合点のいくことがいくつかある。


 夢はなぜ忘れるのか。

 それは多世界への干渉により得られた知識が、この世界の規定水準を上回って持ち込まれてはいけないから。

 互いに干渉するが故に、一定の均衡を維持する必要がこの世界の理として存在しているからなのかもしれない。


 人は何故、睡眠を取らねば生きていけないのか。

 数多に存在する世界を『維持』するため、人間の必須機能として予め組み込まれたシステムなのだとしたら。


 世界は何故、限られた一部の人間に発明や理論をもたらすのか。

 この世界の水準にあわせ、必要な理論や数字という概念を与え、閃きや研究の努力として世に排出されているとしたら。


 有りとあらゆる有形無形の産物が、まさに【神の意思】ともいえる匙加減で決められていると言っていい。



「櫻井君」

 物思いに耽ふけると、とんでもない集中力を発してしまう。いかんいかん。

「ごめん、考え事してた。なに?」

 むすっとした表情をするかと思えばそうではなかった。

「私、決めたわ」

 そういって彼女は立ち上がり、窓辺へ歩いていく。

 ふと不安になった僕は同じく席を立ち、5メートルほどの間隔をおいて彼女の言葉を待った。

「私、研究所を辞めるわ。母の実家に、日本へ帰る」

「えっ!」

 何を言い出すかと思えば…

「こうなったのは誰のせいだと思ってるの?責任取ってよね」

「え、いや…まって、僕は…」

 頭の中が混乱する。どうしようどうしようどうしようどうしよう…

 困惑する僕の顔をみた彼女の表情は、とても優しい笑顔をしていた。

「………え?」

 情報の処理が追い付かないまま、気づいたときには彼女の唇が僕の唇と重なっていた。

 背伸びをして優しくあてがわれた唇を離すと、今度は柔らかく僕の身体に腕をまわして抱擁をした。

「ねえ」

「は、はい…」

 全身カチカチに硬直してしまった僕の心を溶かすように、彼女はそっと

「結婚しよう」

 と言った。

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