第5話 春の息吹、異国の風

「まいったな…僕は野球なんてやったことないんだけどな…」


 お世辞にも広いとは言えない土のグラウンド、年齢もバラバラで背丈も大小様々な子供たち、僕の手に握られたどこかのホームセンターにありそうなプラスチックのバット。

 学生の頃のバイト給料2ヶ月分は越えるスーツの上着をその辺の植え込みにおいて、革靴と靴下を脱いで裸足になったままバッターボックス…らしき場所に立っていた。

 カッターシャツの腕捲りはしているが、大の男が小中学生相手に大人気ないことはできない。かといって『実は甲子園出場経験があったりする』なんてこともない、正真正銘の野球ド素人。

 僕は名乗るほどの者ではない、児童養護施設を渡り歩くちょっと変わった人間だ。

 ひと昔は『孤児院』なんて呼び方をされてたけど今の時代に孤児なんてほとんどいない。その殆どが親がいても養育不可能となって預けられるケースが多い。

「オジサン早く打てよ」

「おい、今度オジサンっていったらブッ飛ばすぞ」

ちなみにキミたち初対面だぞ。

 守備の子供たちはそれを聞いてゲラゲラと笑った。

「いいから早く投げてくれ」

 少しバットを振り子のように揺らして、それっぽい仕草をしてみる。

 おそらく中学生くらいの男子が投球フォームに入る。

 おや?この子もしかして経験者?と思うや否や、予想斜め上をいく豪速球がストライクゾーンへ吸い込まれ、小学生キャッチャーのミットには収まらず後ろの植え込みへ、文字通り刺さった。

「おっさん走れよー!」

1塁から2塁へ走った小学生が叫ぶ。

「ハンデだよ、ハンデ。それから『おっさん』も禁止」

くるっとバットを1周させて2塁の彼に向ける。

「今度言ったケツバットだからな?」

またも子供たちはゲラゲラと笑った。


 この数年、こうやって各地の児童養護施設を回って子供たちとふれ合っている。別にそういう仕事をしてるわけじゃないし、ボランティア活動家でもなければ福祉事業の一環でもない。

 ごく個人的な意思のもと、1人で旅するように訪問する『気まぐれな渡り鳥』だ。

 実のところ、各施設からは《ワタリさん》と呼ばれ始めている。

 本名ではないけど、ニックネームを付けられるのは悪い気分じゃない。


 院生だったころに1度、ドイツの ハイデルベルクへ留学していた。

 子供の頃から科学雑誌や専門書、論文を読むのが好きだった僕はスポーツもファッションにも興味がなくて、食べるものもこれと言って好きなものはなかった。

 そんな僕にもこの異国でこよなく愛したドイツのソウルフードともいえるシュニッツェル、日本でいうカツレツがあった。

 ドイツのレストランでもよく見かけるシュニッツェルはドイツに行くなら一度は食べておきたい名物メニューの1つで、地元の人に尋ねてオススメされたのが【シュニッツェルハウス】

 雰囲気抜群な中世風の店内が特徴のこの店で、昼間に毎日同じメニューと違うビールを頼んで通い詰めるうちに、そこで働く女性から【zweit Krieger】(ツヴァイトクリーガー)の異名を授かった。

 zweitとは2番目の、Kriegerは戦士という意味だ。

 2番目なのは日本人の中で『2番目に常連』だからだと言われ、1番の常連は誰?と聞いたら『毎日夕方に来ているジェニーよ』と言って笑った。

 【常連ジェニファー】と勝手に命名し、その夜再度シュニッツェルハウスを訪れることにした。


 シュニッツェルハウスがあるのは、ネッカー川の正面、橋のすぐ近くで、大学から自転車で15分もかからない好立地にある店だからこそ毎日来ることができる。夜に訪れるのは初めてだったから、歩いて来店した。

 ハイデルベルクの最も古い歴史的建造物の中心部がこの旧市街に集まっていて、ドイツで最も古い橋の1つであるアルテ・ブリュッケやドイツで最も有名な城址のハイデルベルク城もそのひとつ。町の道路は石畳が敷かれているし、赤レンガが摺れた感じも中世の町並みという雰囲気が出ていて好きだった。

 夜のハウスは昼間とは違い、ビールとソーセージを頼む客が多く、バーのような雰囲気だった。

 店の照明として使われているロウソクの灯りが実にエコロジーで良い役割を果たしている。

 僕はソーセージと黒ビールを頼み、ジェニーなにがしを待つべく、店内の人混みを避け外のテラスへ移動した。

 待つこと1時間、ビールは5杯目になり帰ろうかと席を立った時だった。

 いつもより多く飲み過ぎ足元がふらついて、後ろから歩いてくる人に気づかずぶつかってしまった。

「Entschuldigung!(エンチュルディグング!)」

おっと、地元の人だったか。

「いやこっちこそすみませ…ん…?」

 日本じゃないのに母国語出すとはまったく、と思ってその人を見て、固まった。

「あら?あなた日本人なの?」

 とてもキレイな―たぶん年下の―女性がそこにいた。

「あ、いえ、はい。どうも…」

 この時期に合わせたホワイトカラーのトレンチコート。

 上下セパレート見えする切替え、両サイドにワントーンでプリーツ生地を合わせおり、歩くと揺れ感のある上品レディの佇まいを醸し出していた。

「夜にこの店に日本人が居るのって珍しいわね、せっかくだしご一緒しても?」

女性は僕のテーブルをみて

「もしかして帰るところ…だった?」

と聞いた。

「いえいえ!追加の注文をしようと席を立ったところです。是非、良ければ、お願いします…」

驚くほど日本人離れした、とてもフレンドリーな人だ。

 正直にいって、僕の人生の中で女性と2人で話すような機会はあまりなかった。話すのが苦手なわけじゃない。

 大衆の前でディスカッション形式の講義をしたり、議論を重ねたりするのは得意なほうだと思う、ジョークも言えるし。

 ただ、自分の専門外となると臆病な内面がぴょこっと顔を出して入れ替わってしまう。


「ところでここは初めて?」

「いや、ほぼ毎日、昼間に来てます」

「…エミリアになんて呼ばれてるの?」

 エミリアとは、昼間にセカンド・ネームを付けた店員だ。なにか値踏みをされている気分。

 ちなみに店員のエミリアは親しくならないと話しかけてくれないし、その名を口にするということこそ常連である証であった。

「ツヴァイトクリーガー…」

「なるほどお」

と言ってニコニコした。

「私の方が先輩ね、1番だから」

「えっ、あなたがジェニファー?」

すると女性は顔をしかめた。

「ハリウッド女優に見える?」

なかなか面白いジョークだ、笑える。エミリアはジェニー、と言ってたが。

「私は椎名よ、よろしくね。あなたは?」

「僕は櫻井です。どうぞよろしく」


 こうして挨拶を互いに終え、2人で店内へ注文をしにいって僕は、彼女の驚くべき才能を目の当たりにする。

 店内には様々な国の人がいて、常連である椎名さんは観光客を除けば殆ど顔見知りだった。

 彼女はドイツ語の他に、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語を、香港の観光客には広東語(今でも中国語との違いがわからない)で完璧なほど会話をしていた。


 天才…そうか、天才!


 Genie《ジェニー》

 ファー!の語尾は付けなかったが、頭の中を赤い蝶ネクタイと青いブレザーの少年がスケボーに乗って駆け抜けていった。


「椎名さんはなんでそんなに語学堪能なんです?もしかしてガイドやってたり?」

 新しく頼んだポテトやサラダ、目玉焼きの乗ったシュニッツェルをテラスのテーブルに並べ、店からの奢りで黒ビールを2つもらった。

「違うわ、私は特別研究員なの。所謂ポスドクね。」

博士研究員、ポストドクター。

 ポスドクにも大きく2種類に分類されるが、彼女は特別研究員といった。それは完全な裁量権が与えられているポスドクだ。

 JSPS特別研究員PDや文部科学省の卓越研究員制度、東都大学の白眉プロジェクトなど、優秀な若手研究者を育成するためのプロジェクトに応募し採用されたポスドクがこれにあたる。

 単なる語学が堪能な天才じゃなくて、マジでやばい奴じゃないか…!一体どんな研究を…


「ごめんなさい。研究内容とかそういうのは言えないの、聞かないでね?」

 先に釘をさされた。実に残念である。

「いや、いいんです。でも本当にすごい、僕なんかより若いのに」

 「年齢と能力は比例しないわ。先入観で話すのはよしましょ?それより、ドイツに来てるんだったら最低3ヶ国語は話せた方がいいわ。」

 無理言うなよ、講義受けるのだってやっとなのに。

 そこで俺は閃いた。

「椎名さんが僕の専属講師になって教えてくれるなら、やりますよ。毎日、ここで。」

 右手の人差し指でトントンとテーブルを突く。

彼女はフォークで口に運びかけた卵を止めて

「それって口説こうとしてる?」

と口をへの字に曲げてみせた。

「先入観は止めましょう」

お互いふっと吹き出した。

「でも押しが弱いわ、それじゃダメ」

 彼女はフキンで口元を拭いて、テーブルの隅にあった紙切れを僕へ寄越して

「エミリアにはチップを気持ち多くあげなきゃダメなの。毎晩最低30ユーロは必要になるけど?」

 いつも僕が支払っている1人分の額は12ユーロ程度、なるほど。

「僕が1番じゃない理由がわかったよ…。よし、交渉成立だ」

僕は寄越された紙を胸ポケットに入れた。

 すると彼女は

「それから私のことは三咲って呼んでくれてかまわないから」

 日本の堅苦しいのは苦手なの、と呟いた。


 それからお昼のランチは(倹約のため)やめて、毎晩この場所で語学の講義を受けることとなった。もちろん彼女との距離を縮めたい一心で。


 ****


 ビギナーズラックというべきか、初めてのアタリは意外にもホームランとなった。


 ところが広くない施設のグラウンドのせいで僕の打った打球は軽々とフェンスを越え、未整地の竹藪へと飛んでいった。

 施設の備品はおいそれと購入できるわけでなく、児童たち総出で探す羽目となったが、それでも子供たちは楽しそうに束の間の冒険に汗を流した。


 週末、通常であれば面会時間や一時帰宅のできる子供たちは施設に居ない。

 だが、今回訪れた児童養護施設は誰1人帰宅する者も、面会に訪れる親もいなかった。

 それを逆手に取って、講義ならぬ授業を執り行うことにした。

 なぜ初対面の施設でこのような唐突なことが許されるかというと、僕は前回訪問した施設から【推薦状】なるものを次の訪問先に送ってもらっているからだ。

 そして最大の強みは、僕自身が児童養護施設出身であるということ。

 僕の場合は完全な『孤児』で、身寄りがなかったので入所することになった。

 世間一般からすれば哀れまれる対象なのだろうが、僕の考えは違う。

 逆説的に『世間一般』という基準から物事を捉えない見識を既に持っている。

 その上で『世間一般』の認識や見識などを身につければ、その解釈や視野というのは通常の2倍を有してることになる、という考えだ。

 それ故、施設のことに関しては熟知していると言っていい。時代が移り変わっても、要所は変わらないのだ。

 僕は教室のような、15人ほど収容できるであろう部屋を使わせてもらえた。

 今回は黒板ではなくホワイトボード。

 持参している水性マーカーを出して、ところ狭しと集まった子供たちに、今日の議題を青いマーカーで書いた。


【昨日見た夢について】

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