第4話 次女の憂鬱

 『お姉さんが倒れた』と2年生の教室に3年の学年主任が歯切れの悪い言い方で現れたのは、3限目が終わった休み時間だった。


 4階建ての校舎の3階が2年生の教室で、1階の保健室へ向かう為に廊下を走り抜け東階段を全速力で駆け降りたのち、1階へ続く最後の階段を半ば全段飛び越える勢いでジャンプして着地し、保健室へ最大加速をかけようとして右足がグッと地面を捉え離れた瞬間、人とぶつかりよろめいた。

「あたた…あら、香奈!?」

「お母さん!…保健室こっち!!」

 ありきたりな『走っちゃダメでしょ!』なんて言わせる前に、私はお母さんの手を引っ張って瞬間的最大加速マキシムスプリントをかけた。

 子供が倒れれば教師は親に連絡して迎えにくるなり病院に行くなりと打診しているはず。ウチから母が学校へ車を使えば10分ちょっとで着くはずだ。

 しかし実際倒れた時間は1限目の9時過ぎでいまは3限目が終わって11時30分をまわっている。

 この対応の遅さはなんだ!!

 私のお姉ちゃんが倒れるなんて絶対何かの病気に違いない!それなのに未だ進展のカケラも望めない保健室なんぞに寝かせておくなんて、どんだけバカなんだ!

 保健室の前に着いた瞬間、怒りの炎を纏ったまま引き戸をバーン!と予想外に開けてしまい、保健の先生が椅子から飛び上がった。

「お騒がせしてすみません、麻衣の母親です。」

 保健の先生が『静かにしなさい!』と言う前に母が先制をかけた。

 保健室の広めの窓からは、どこかの学級が4限目の体育の授業を始めようとグラウンドに集まり、騒ぐ男子の喧騒が聞こえてきていた。

 2つ並んだベッドの奥はカーテンレースで仕切られていた。私と母はすぐにベッドへ向かいレースを開け、お姉ちゃんの顔をみた。

 保健の先生はその様子を横目に手早く備え付けの電話の受話器をあげ、櫻井麻衣さんの保護者の方が来られてます、と内線を入れた。

 1分もしないうちに学年主任と担任が足早にやってきた。

 なんだかバツの悪そうな表情かおをしている。

 母は頭を下げ、この2人に当時の状況と、保健の先生から今の状態について詳しく説明されていた。

 それによるとお姉ちゃんはお兄ちゃんが運んでくれたらしい。荷物をまとめて鞄を運んでくれたのは夏希だと聞いた。

 お姉ちゃんのバイタルは安定していて、昏睡や深昏睡ではなく睡眠状態であるようだと保健の先生は言った。

 町医者ではなく、大きな大学病院などに行くべきだとも付け加えた。


「それで、なんでこんなに連絡遅いんですか?説明して頂けますか」

 冷静な口調を心掛けてはいたものの、慇懃無礼いんぎんぶれいとはこのこと、完全に言葉に角を立てていた。担任と学年主任が顔を見合せ、

「それがですね…」

「香奈、連絡は9時半頃にあったのよ。」

 母がすっと割り込んだ。

「うちの事情に関わらず、ご予約してくれているお客様がいるからね、お母さんの変わりに厨房をできる人を探して連絡取ったり準備してたら遅くなっちゃったのよ。丁度チェックアウトのピーク帯だったから手間取っちゃって」


 ああなんだ、そうだったのね。


 母は必ず最善を尽くす人だから、おそらく数日間の段取りまでつけてきたに違いない。

 どんな状況でもいつもと変わらない穏やかな口調で話されると、先程までの灼熱の炎を纏っていた私の怒りはウソのように鎮まった。

 ところが依然として教師たちはバツの悪そうな表情を崩さなかった。母もそれを察したのか

「まだ何か……?」

と訊ねる。

「はい、実はあの…ご連絡差し上げたあと教室に戻りましたら、颯人君が他の女子生徒と乱闘になっておりまして…」


「なんですってえ!!!!」

「えええええええ?!?」


 ほぼ同時に、母と私は叫んだ。


 私の頭の中に【お兄ちゃんが乱闘】【女子相手に】【初めてみた母の動揺】という3つの衝撃に、数秒間思考が停止した。

 乱闘?え、じゃあ相手の人が怪我してるはずなのに保健室にはいない?

 そもそもお兄ちゃんはそんなことをする人じゃない。お兄ちゃんはどこ?


 「先生、その…お相手の方はお怪我ないのでしょうか」

 流石の母も、動揺を隠せずにいるようだ。

「ええ、全くありません。」

 それまで歯切れの悪かった学年主任は、なぜかそこだけキリッと答えた。さらに、

「颯人君が一方的にやられたようです」

と付け加えた。

 被害者かよ!まったく誤解のある言い方だな!とツッコミたくなる気持ちを抑え、お兄ちゃんはどこなんですかと訊ねたら『生徒指導室にいる』と教えてもらった。



****


 それから母はお姉ちゃんを、私はお兄ちゃんのところへ向かった。


 生徒指導室は別館の2階、生徒会室の横にあり本館と別館の2階部分は渡り廊下で繋がっているが、1階にいた私は1度校舎の外を出て中庭のサッカー部の練習場を横を通り、本グラウンドを背に別館へと歩いていった。

 簡単に言ってしまえばグラウンド側が山で別館側が駅前方面、商店街側になる。

 電専の生徒が9割以上にも関わらず、別館側には出入口なるものがなかった。だから電車通学をする者は1度ぐるっと外周を左右どちらかのフェンス沿いに歩いて来なければ正門から入ってこれないという、不便極まりない作りとなっている。

 これには一応の理由(諸説)があるらしいのだけど、未だかつて正確な情報は得られていない。

 そうこうしているうちに、生徒指導室の前、別館の最奥にきた。

 こんなところに来ることは在校中には絶対有り得ないだろうと高を括っていたけれど、人生において『絶対』はないと今日知った。

 母が早退処理をしてくれたお陰で4限目の授業中でありながら自由に校内を闊歩してきたものの、別館はそもそも生徒がほとんど立ち入る用もないので、不気味なまでに静まり返っていてなんだか怖くなってきた。

「…失礼しまぁす」

 扉を3分の1ほど開けて中を覗くと……お兄ちゃんが呑気に手を振ってきた。

「おっす、カナ」

 てっきり顔に絆創膏やら湿布やらガーゼやら貼られているのかと思っていたら、見たところ外傷らしきものは見当たらない。

「オッス、じゃないよ。女子とケンカしたって本当?」

 ドアを後ろ手で閉めて、中に先生が居ないことを確認してから詰め寄る。

 お兄ちゃんは慌てて両手をぶんぶんとさせながら否定の意を示し、

「や!違うんだよ!…違わないケド、なんていうかな、俺は女子に対して暴力は振るってない!碓氷神社の神様に誓って!」

 誓うわりには随分とローカルな神様だこと。

「それは言わなくてもわかるけど!先生は『一方的にやられてました~』みたいな言い方してたよ、誰よ相手」

「カンフーの達人」

「ぶさけてんの?」

 私の機嫌が悪くなったのを察して、すみません、とお兄ちゃんは小声で言った。

「萩野あかねってやつ。言っとくけど、俺とかクラスの連中だってほとんど話したことないやつなんだぜ?」

「…それで?原因はなによ」


 お兄ちゃんの言い分としてはこうらしい。

 お姉ちゃんが突然倒れ保健室へ運び、先生に戻るように言われて戻ってきたら教室は自習になっていて、クラスメイトが『あいつ大丈夫か』とか『病気?』とか色々聞いてくるなかで、突然萩野という女子が話しかけてきたらしい。

 見た目は可憐で綺麗な顔立ちをしてると。

 一同驚いて見守っていたら『貴方のところは旅館経営なんですってね。家族経営なのかしら?麻衣さんも毎日いいように使われて過労で倒れちゃったんじゃないかしらね、不憫だわ』と毒を吐き散らかしてきたという。

 又聞きとはいえ、流石にこの言い掛かりには水蒸気爆発を起こしそうになった。

 これにはクラス全員が凍り付き、思わず詰め寄ったお兄ちゃんは――夏希が止める間もなく――萩野の胸ぐらを掴んでいた、という。


 殴ってよし、私が許可する。


 ところが萩野は澄ました顔で『身の危険を感じたわ』とお兄ちゃんの右手首を触ったと思ったら『これは正当防衛よ』といって、誰も反応できない俊敏な体捌きで180度後方、弧を描くように投げ飛ばされていたという。

『初めて目の前にお星様を見たよ』と苦笑して話すお兄ちゃんは『麻衣のことで動転してたんだけど、なんかアレで妙に冷静になったわ』と話を締め括った。


 そして教師の態度と今の話を聞いて、私は合点がいった。

 教師はおそらく萩野支持派だ。

 文武両道、容姿端麗、理路整然たる論理回路を有した生徒に対し、教師は過大評価をする傾向にある。男性教師ともなればキレイな女子生徒になおのことこうべを垂れる。


 現にお兄ちゃんは生徒指導室で反省文を書かされ、当の萩野は悠然と授業を受けているらしいのだ。

 世の中とは実に不条理だ。

 片や《男女平等》といいながら《レディーファースト》なるものを本来の意味とは逆に捉えたフェミニストが男性軽視なる思想をSNSで撒き散らしたりする。

 痴漢に対しても度々論争が起こっているが、痴漢目的の男性と冤罪目的の女性が混在するなかで、車両の区分けや女性車両云々という論争は、果てしなく無意味なものと私は感じている。

 立場が変われば主張は変わるということを念頭におき、その事象に対してのみ正しい判断を個々にしなければならないと常々思っている。

 今回の場合、先に手を出したのはお兄ちゃんでもその原因を作ったのは萩野だ。十分に情状酌量の余地がある。

 そして実際身体的に危害を被ったのはお兄ちゃんで、身の危険を感じたと言葉を発したことから突発的行為とは言い難い。

 何せそれだけの体術を身に付けているのだから、生命の危機を感じるなどと素人相手に思うはずもない。

 厄介な女だな、と同性ながら唸った。


****



 母は保健の先生の助言を受ける前に、既に大学病院の予約をして学校に来ていた。

 おそらく入院になるだろうと予想し、完璧すぎるほどの準備をしてお姉ちゃんを病院へ連れていった。

 母は常々<準備8割、本番1割>と言っていて『残りの1割は?』と聞くと《遊び心が1割よ》と答えていた。

 料理に例えるなら『隠し味』だという。

 そのわずかな1滴が全体のバランスを整えるだけでなく、奥ゆかしさや人の心に残る味となるのだと教えてくれた。


 そしてこうも言った。


 何か困った状況を打破するとき、常識に囚われず『少しの遊び心』で物事を俯瞰ふかんすれば、最小で最大の突破口を見出だせることもあるわ、と。


 母の考え方は独創的だ。


 その独創性故に娘の私でさえ底知れぬものを感じることがある。



 そしてたまに思い出すことがある。


 この母の心を射止めた父のことを。


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