第3話 眠れる森の長女
「お母さーん!今日の予約人数何人~?」
朝6時32分、いつもより2分遅かった。
私は比較的朝に強い。
だから兄妹の中で1番に支度をして調理場へ向かい、今日の予約人数を確認して毎朝お母さんの作ってくれるお弁当を受け取り、日替りで出てくる汁物を昨晩の残り物とあわせて朝食を済ませる。
「麻衣、そんなに急がなくても間に合うでしょ?」
早々に食べ終わった私が茶碗と汁椀を流しで洗っていたら、片手にだし巻き玉子を巻いたフライパンを持ったままのお母さんが、後ろから声をかけてきた。
わー、美味しそうだなあ…と思っていたら流石お母さん、1切れを私の口に運んでくれた。あっつ!!!
「麻衣は毎朝早起きしてるからね~、ご褒美ご褒美。あ、あと今日は4件8名よー」
ほふほふ口のなかで熱さを和らげてながら『2名×4件、今日は少ない』と頭の中でさっと弾き出し、明日はどうなんだろうかと考えていたらガーデニング通路の石畳をバタバタ走ってくる音が聞こえた。
―あれは由衣ちゃんだ、今日はちょっと遅い。
「おっはよー!いや~今日も寒いねえ!」
勢いよく引き戸を開けて、ぴしゃりと閉めた第一声は実に豪快だ。毎朝朝練の為にジャージ姿で登場しては「今日のスープなに~?」と聞いて、聞いておいて粉タイプのコーンスープを飲む。
「おはよう、由衣ちゃん。お弁当それ」
と、ピンク色のランチクロスで包まれた弁当箱を指差す。
「ハイハイ!ありがと!」
ぴゃーっと流れるような動作でお弁当を鞄にいれ、キョロキョロ物色して見つけた菓子パンをささーっと鞄に入れ『ほんじゃいっちょ行ってくるわ!』と風のように消えて行く。
次に来るのは香奈ちゃん。
全然起きてこないのが颯人くん。
―ちょっと早めに起こしてこようかな?
颯人くんは極限ギリギリまで寝るタイプなので、目覚まし時計のスヌーズ機能を微妙に利用して10度寝も20度寝もする。
「お母さん、ちょっと颯人くん起こしてくるね!」
と言って、引き戸は開けずお母さんのいるガスコンロ付近に行き、大量の煮物などをする大きな鍋の『蓋』を2枚拝借した。
「…今日は、激しいのね…」
これにはお母さんも笑いを堪えて私を見送ってくれた。
****
「うわああああうるせええええ!!」
鍋蓋シンバルの効果は絶大だった!
ひゃい!と、どこから声を出してるのかわからない裏声で飛び起きる颯人くんのコレを見るのがなかなかに面白くて、漫画のキャラクターみたいな挙動に毎朝爆笑させてもらっている。
「あはは!早く起きなよ~!」
私の友達は私がこういうイタズラをする子だと絶対思ってないけど(妹にもしない)、なかなかどうして颯人くん相手だと気を許してふざけてしまう。
昨日は髪ゴムを顔面にバチン!とやったら、颯人くんは仰向けのまま両手を上げて「撃たないで!」と乙女のような声で言ったものだからお腹を抱えて笑い転げた。
「あの、もう少し穏便に、起こしてくれませんかね…」
寝癖いっぱいの髪をかりかりしながら、切実な声で訴える。
ふふふ、今日のところはこれで勘弁してやろう。
明日はどうやって起こそうかな~。
****
私と香奈ちゃん、颯人くんが揃ったら自転車で高校へ向かう。
帰りは大変だけど、行きはほぼ下り坂で自動車の往来もない。
私の最速記録は下り21分15秒。
颯人くんはそれより遥かに早い18分10秒。
香奈ちゃんはいつも最後尾からついてくるので計測外。
さすがに何年も同じクネクネした山道を下っていたらほとんどブレーキをかけなくても一気に降りられる。それでもこの差はなんなのかと思い、
「どーしてそんなに早いのー?!」
と走りながら颯人くんに聞いたら、アウトインアウト!とだけ返ってきた。わかるかーい!
いつもの時間に学校に到着し、自転車を施錠してから教室へ向かう。
「麻衣ちゃんおはよ~」
私たちの到着より2分遅れくらいで校門をくぐって声をかけてきたのは碓氷さんだった。
「なっちゃんおはよ~。後ろいたの?」
「今日は追いつけるかなーって思ってたんだけどね!無理だわ~」
私たちの高校は《山専》と《電専》と言われる、山を下ってくるアスリート系と電車通学のインテリ系に二分されている。これは単なる呼び名であって、差別するような意味合いはない。
とはいえ、山専グループは櫻井家3人と碓氷さん、同級生の区分なら全部で3人しかいない。1クラス32名の3クラス編成からすると、私のクラスは山専が3人とも同じクラスなので体育祭になると優勝確実と言われているらしい。
****
私の席は教室中央の女子列、前から3番目。前には
颯人くんは窓際の後ろから2番目、数Ⅱの時間になると基本的に窓の外ばかり見てる。
前の席の萩野さんは艶のある黒髪ストレートで、肌は透き通るように白くて切れ目、実に婉容な顔つきをしていた。
ただ、その容姿からなのか口数が少ないからなのか、男子はおろか女子ですら話しているところを殆んど見たことがない。
稀に授業で当てられて答える時の声を聞けるけど、その声は驚くほどキレイで人を惹き付ける何かがあった。
朝のHRホームルームが始まったとき、後ろの席から右肩を叩かれ手紙が回ってきた。ん?と思って後ろをみたら
「みてみて!」
と小声でなっちゃんに催促される。
便箋をハート型に折るのはなっちゃんの定番で、ケータイがこれほど普及しててもやっぱり可愛い手紙のやり取り(主に授業中)はいつの時代もあった。
萩野さんの背中を利用して前から見えないように手紙を丁寧に開ける。
《突然ごめん!昨日、櫻井の様子どうだった??なんか変わったことなかった?》
うーん?これは。
《うーん、普通だったと思うよー?帰りがいつもより遅かったくらいかな》
私はさっとシャーペンを走らせて再度ハート型へ折り直すと、前を向いたまま後ろ手でなっちゃんに手紙を返した。
はて、なっちゃんはどうしたのか?
『何か』あったから聞いてくるわけで、私目線からでは颯人くんの様子に変化を感じられなかった。
私となっちゃんは姉妹同然の関係と言っても過言ではない。
私たちの住む山奥の地域に櫻井家、碓氷家、二神家の3つが遠からずまあまあ近い距離に存在し、歳の近い子供たちがいたことは恵まれてるとしか言いようがなかった。
二神とは颯人くんの旧姓で、先の大震災でご両親共々家が流され奇跡的に生き残った子供だった。
当時のことはよく覚えている。
今は姉妹全員別々の部屋を与えられているけど、当時はみんな一緒に寝ていた。
地震発生時、お母さんは『床下に隠れなさい!』といって、私たち3人をどこかの地下に誘導した。
揺れの続く間、お母さんは小さかった由衣を膝に乗せ、私と香奈をぎゅっと抱きしめたまま『ここなら大丈夫だからね。』と私たちを安心させてくれた。
今となっては土砂崩れによる危険性を察知したのだろうと、あんな状況でも冷静に対処したお母さんは『すごい』としか思えなかった。
揺れが収まり、お母さんは『外を見てくるからここにいなさい』と言って、香奈と由衣を頼むわね、と付け加えた。
体感時間にして1時間くらい、お母さんは泥だらけの姿で戻ってきた。
腕に颯人くんを抱えて。
この時の颯人くんは、例えるなら『魂の抜け殻』だった。
目の輝きは失われ、一言も話さなかった。
お母さんはふいに『温泉入りましょ、まずは体を温めて次にご飯食べよう』と場違いなほどいつもの調子で言った。
私たちは5人は露天風呂の中で身を寄せあって入った。私が由衣を抱っこして、その隣に香奈が黙って座っていた。
お母さんは颯人くんを自分の肩に寄り添わせ、髪を撫でていた。
この露天風呂は周囲の景色を一望できる場所にある。
対岸に背を向けて入っていたから気付かなかったけど、何かに呼ばれるように対岸をみて、息を呑んだ。
あるはずのものが、なかった。
全てを察した私の目には止めどなく涙が溢れて、無意識に颯人くんの手を握りしめながら泣きじゃくっていた。
お風呂を済ませたあと、母は卵焼きを焼いてくれた。
****
――大震災から数ヶ月後
「麻衣ちゃん、あのね」
幼さ残る碓氷夏希と櫻井麻衣は、例の土砂崩れ跡を対岸の家から眺めて、2人だけの秘密の時間を設けた。
麻衣は夏希とは暫く物理的に会えていなかった。
この土砂崩れにより道が寸断されていたからだ。
復旧には沢山の人手と重機を要するため、優先度の低い田舎の山奥にはなかなか支援の手は届かなかった。
諦めた碓氷神社の神主、夏希の父親が手製の簡易橋を作って川の上だけ通れるようにしたのだ。
対岸との距離は車道基準で100メートル弱あるが、実際の川幅自体は15メートルくらいしかない。大雨による増水はこの限りではないが。
「麻衣ちゃん、あのね。今から話すこと、絶対誰にも言わないでね?」
と夏希は入念に確認する。
「うん、言わない。約束する」
親友を見つめ、決意したように夏希は口を開いた。
「この前の地震あったでしょ?あのときね、さくらい君がね」
直前で躊躇ったのか、一旦言葉を切る。
麻衣は言葉にこそしなかったが、ずっと疑問に思っていることがあった。
眼前に広がる山肌が大きく梳られた土砂崩れの跡をみて、颯人がどうして無事だったのか、という子供でも思い付く疑問がどうしても払拭できずにいた。
おそらくその答えを夏希は知っている、そう確信した麻衣は次の言葉を固唾を呑んで待った。
「さくらい君がね《違う世界にいた》の」
麻衣はある程度心構えはしていた。
それこそ『空を飛んでた』くらいの仮説を立てて、でなければ土砂崩れを無傷で回避できるはずがないとさえ思っていた。
が、違う世界にいたとはどういうことか?
そもそも《違う世界》を何故夏希は認識しているのか?
「…やっぱり…信じられないよね」
と、夏希はしょんぼりした。
「違う世界ってどういうこと?」
麻衣は素朴な疑問を最初に投げ掛けた。
この疑問には夏希もある程度の回答を用意していたらしい。
「わたし、正夢をよく見るでしょう?」
麻衣はうんうんと頷いた。
夏希は同い年ということもあって、度々麻衣には正夢のことを話していた。
最初は半信半疑だった麻衣も、去年の夏休みにトラックが横転事故を起こすという《予言》を話し、正確な時間帯や場所、ナンバープレートの数字まで一致したものだから、驚いたと同時に畏怖さえ覚えた。
「でね、地震の2日前かな。丁度この場所くらいから、さくらい君を見てる夢を見て…うまく説明できないんだけど、えと、パラパラ漫画ってあるでしょ?あれの中心の絵…つまりさくらい君ね、アレは動かずに周りの景色だけ無限に変わるっていうか」
だー!わからんー!と唸った夏希は、これ以上どう説明していいのかわからず、両手のこぶしを太ももにドンドンとした。
****
睡魔は突然襲ってきた。
毎日早起きしている私にとって、1限目の午前9時過ぎに眠気が来ることなんてまずあり得ない。
―もしかして生理来るのかな?
いやいや、私の周期は第4週目の火曜日辺りのはず。麻衣ちゃんは2日前に来たと言っていた。
毎日規則正しい生活をしている私にとって、周期の乱れは―あるかもしれないけど―考えられなかった。
だとすれば、この強烈な眠気はなに?
私はシャーペンを1度ノートの上に置き、毎朝顔を洗うような仕草で顔をごしごしとした。
ふと顔を上げると、周りの音が段階的に遠く聞こえていることに気づく。
まるで気圧の違うミクロの世界へゆっくり落とされるような、いままでに感じたことのない断絶的な空間の渦が、私の周りを『意図的』に旋回しているかのように感じられた。
視界のすべてが、泪で滲んだ世界のように歪んでくる。
なになになになになに?!
私は『何かに呼ばれた』気がした。
誰に?
背中合わせの―私?
いや違う、この気配は…
《行かなくちゃ》
「おーい、まいまい、当てられてるよ~」
左隣の男子、根岸君が私の机をシャーペンで叩く。
その音すらグニャリと歪んだ視界からは認識するのが困難だった。
「ちょ、ちょっと麻衣?!」
私の耳に最後に届いた声は、親友のなっちゃんの驚きと悲鳴が混じった声だった。
―お母さんごめんね、しばらくお手伝いできないや―
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