ワトソン・コンプレックス

片瀬智子

第1話

 この世には二種類の人間が存在する。

 誰かを助けるために行動できる人間と、そうじゃない人間だ。

 もちろん行動の仕方は多種多様であって正解などないし、地球上の全人類を救えなんて大げさなことを言ってるんじゃない。

 俺は聖人でもないし、ひとりぼっちでは何も成しえない。今、同じ時代、この地球という惑星に生存するえんとして、見て見ぬふりをしたくないだけ。

 俺たちはこの身体を使って、人の助けになることがきっと何か出来るはずだ。



「一弥、後ろを気にして少し浅めに座ってもらえるか? 通路に杖が倒れたら、迷わずすぐに拾うんだ」


 俺は言った。現在、馴染みのバール(イタリア風カフェ)でセンスのいい安楽椅子に座り、馴染みの友人と珈琲を飲んでいる。

 友人とは、倉原一弥くらはらかずや紺野真未こんのまみ

 ふたりは学生時代から付き合ってる仲で、もうかれこれ五年近いカップルだ。

 恋愛初期のような、こちらが恥ずかしくなるイチャイチャの雰囲気はもはやない。すでに、山も谷も乗り越えた中年夫婦のようなベテランの空気感を醸し出している。


 実は今日、結婚の報告ではないかと内心いぶかっていた。ふたりにとって、大事な記念日でもあるからだ。

 付き合った記念の日にプロポーズだなんて、大抵の女の子は喜ぶだろ? 

 だが、顔を合わせてから小一時間経つがそういった報告は……まだない。違うのか? 


 人は迷う生き物だから、思考は常に行き来を繰り返す。

 特に恋愛に関して、『この人に限って』という言葉は絶対に当てはまらない。現在進行中の恋に夢中な奴らは信じられないかもしれないが。

 恋は盲目とはよく言ったもので、恋愛において男と女は信じられないようなバカなことだってしてしまうものだし、ふたりの関係はその当人にしかわからない。

 犬も食わず、観察だけでは推理出来ない唯一の項目だとも思う。


 このふたりだってきっと例外ではないのだ。もしも、まだ可能なら……言わせてくれ。

 俺はずっと、一弥から真未を奪いたかった。狂おしいほど。

 そんないびつな友人関係だとも知らず、目の前のカップルはまったりと珈琲を飲んでいる。記念日だというのに、双方から発展結婚的な話はまだなかった。



「……ああ。杖を拾うんだな、了解」

 一弥は先程俺が伝えたとおり、身体を斜めにずらし素直に座り直した。エスプレッソを手元に引き寄せる。

 そしてよくあるといった風に、誰もそのことについて何も触れない。一弥に関しては、深い陰りのある瞳さえ揺れもしなかった。


 友人たちは知っているからだ。

 俺の発した言葉から、これから何かがということを。しかも、未然に防がなければいけないことも。

 そしてそれが現実に誰かを助けるという行為にあたることを、今までの経験則から理解していた。


「あの、すみません。そこの床、水がこぼれてて汚れてるみたいなんですが……」

 俺は通りすがりの店員に通路を指差し、控えめに声をかけた。

「……一弥」

 その時真未が、後ろの席に座っていたおばあさんの動く気配に気付く。

「わかってる」

 一弥は慎重に待った。俺の言ったとおり、テーブルに立て掛けていた杖は通路側に倒れかけた。それに気づき拾うため、おばあさんは慌てて手を伸ばそうとする。


「おっと、そのままで。動かないで」

 一弥は素早い動きでなめらかに杖を拾うと、椅子から立ち上がる寸前のまごついた老女に優しく手渡した。

「ああ、すみません。足が不自由なもので……ごめんなさいね。どうも、ありがとう」

「いいえ、大丈夫です」

 おばあさんはあたたかな笑顔で一弥や同じテーブルの俺らに会釈すると、ゆっくりとした足取りで出口へと向かって行った。俺はそれを目視で黙って見送る。

 自動ドアの開閉音がして、カフェのスタッフが「ありがとうございましたー」と店内に声を響かせた。


「はーい、みんな。これで……めでたしめでたし、だよね? さあ、結月ゆづきくん。今回はどういうことだったの。ちゃんと説明してよ」

 一連の流れの後、真未はほんのり色気を漂わせた無防備な目つきで、俺に向かい屈託なく言った。

 一弥のほうはすでに長い足を組んで、椅子にゆったりと腰掛けている。

 俺は若干照れたようにうつむき(何でだかこうなる、全くうざい現象だ)、両手を重ねた。


「ああ……。あのおばあさんさ、だったら、自分で杖を拾おうとして体勢を崩すんだ。で、椅子から落ちて胸を強打するはずだった。たぶん、衝撃と体重的に圧迫骨折。だけど、お前がその前に杖を拾ったから何事もなく済んだんだよ。一弥、動いてくれて助かった」

 俺は彼女持ちの男にこくりと会釈する。男は笑って言った。


「いいよ。結月は昔から人見知りだからな。自分じゃ知らない人になかなか声も掛けられないんだよな」

「結月。だ、か、らぁ」

 いつも俺に肯定的な真未さえ、そういうことじゃなくて……という顔で俺を見た。

 俺は真未の言いたいことをもちろん理解している。なんで、そこまでわかったのか。その理由を知りたいんだ。


「……だよ。俺、いつも言ってるじゃん。観察で人の危険を察知しただけだ。ほら、シャーロック・ホームズみたいな思考術? ……あのおばあさんは高齢で杖をついてた。まずそれで足が弱いか不自由なのかがわかる。そして一人掛けのあの椅子は、小柄なおばあさんが座るには少し高さがあるだろ。それによって転ぶ危険度はぐっと上がる」


「いや、それくらい私にだってわかるよ。でもなんで転んで胸を打って圧迫骨折まで言えるの、飛躍してない? だって、そもそも……転ばないかもしれないし。ねえ? 一弥」

 真未は彼氏まで巻き込んで俺に問う。普段は人の言葉に左右されない一弥も、今までの疑問をここぞとばかりに言った。


「俺らは結月の言うことはもちろん信じてる。でもさ、真未の言うことも一理ある。これまでもこんなことが何度もあった。その度、何事もなかったように事態は済んでいったよね。答え合わせしたいわけじゃないけど、でもそれがだったのかどうかは未知数なんだ。事故は起こらない、なぜなら起こさないように先に仕掛けてるから……だろ? その状況から結月が推測した良からぬことを回避して、思い通りに導いてる。それが本当に起こるはずだったのかどうかは、誰も知るよしもない」


 そこまで言うと、一弥は珈琲を口に含んだ。俺はかなりがっかりした。

 親友でさえ……そうだ、みんなと同じ反応だから。

 子供の頃からそうだった。先読みの技術は幼稚なものだったとしても、大人たちを不気味にさせた。



『ママは、あの知らない男の人となんだよね。だからあの男の人は、パパをいつも嫌な感じの目で見るんだ。じっと、恐ろしい目でパパの背中を見てる。


 ねぇ、ママ。パパに何かが起こりそうだよ、信じて。

 誰か、お願い。信じて。

 ぼく、なんか怖いよ。お願いだよ。



 ――ほら、やっぱり。


 パパは、あの男の人に殺されちゃった……』



 みんな、俺のことを幽霊が見える霊能力者のように扱った。事の経緯や理屈を説明出来なかった子供の頃から。そう、まるでインチキな予言者のように。

 だけど俺は、起こりうる未来をみすみす見逃すことがどうしても出来ない。いくら、みんなに嘘つき呼ばわりされようとも。誰に嫌われようとも。


「真未も一弥も、杖が倒れ掛けたことは忘れたのかよ。おばあさんが椅子から立つ時、ひじと杖のがちょうどぶつかる角度にあったんだ。そこから派生するはずの作用を結び合わせると一定の結果にたどり着く。先読みで……俺は全て証明出来る。インチキで言ってるんじゃない! それにもし椅子から倒れなかったとしても、そこの濡れてた床ですべっておばあさんは転んでしまうはず。……どう考えても、結局事態は変わらないんだ!」

 俺は目に見えない大切なものを守るように、真剣な口調になって言った。怒りで激しく握ったテーブルの下の右手が熱をおびた。


 

「まるで運命みたいに言うんだな。さすがミステリ作家、結月くん」

 一弥の冷ややかな言葉に、俺は思わず口ごもった。

「別に……ただ高い確率で、起こりうるってだけの話さ。それにそういう言い方をするな。ミステリーは趣味で書いてるだけだ、プロってわけじゃない。お前だって同じじゃないか」

 俺は趣味が同じ友人、いやライバルを凝視した。


 俺たちふたりには、Web作家という共通点があった。

 一弥はラブコメを中心に現代ファンタジーまで器用に書き分ける。速筆で、作家としては俺にない独創性を持ち合わせた才能の持ち主だ。

 今時の女子高生の気持ちなど繊細な機微を、利発で生意気な女の子に語らせるのが得意。胸キュンの展開や丁寧な描写の文章にも定評がありファンも多かった。


 その点、俺は文章もイマイチで筆も遅い。

 こいつになくて俺にあるものと言えば、たぶん推理小説が書けることくらいだ。この分野はなかなか人を選ぶし、文章力のコンプレックスをトリック職人として補おうと、いや補うに余りあるものがあると自負していた。

 もちろん、たかがミステリ小説だ。書こうと思えば誰にでも書ける。

 だが平穏な日常に事件を起こし、謎を作り、伏線を張り巡らし、あっと驚くような推理とどんでん返し……。それらを死体を交えながら、黙々と書き連ねなければならない。好きでなければ到底やりたくない芸当だろう。


 そして……目の前にいる長身でスマートなイケメンは、趣味においても女においても俺よりも格段に人気があった。ああ、言われなくてもよくわかってる。

 ――昔から俺は、この男をうらやんでいるんだ。

   その才能とを持つ一弥に対して。ずっと。


「ちょっと、二人ともいい加減にして。なんか陰険だよ。こんな雰囲気はイヤ。ねえ、私、お腹空いちゃった。ピザが食べたい。それかぁ、みんなでビールでも飲もうよ?」

 真未は俺らに甘ったるい声を出すと、つまらない空気を変えようと笑顔を見せた。白く細い指をふわりと宙に漂わせ、店員にメニューを持ってくるよう頼む。

 そして、――その時俺は今しかないと確信する。

 その指にマリッジリングをはめるのは一弥じゃない、俺だ。

 俺は……ずっと、真未のことが誰よりも好きだった。惨めにあきらめることなど出来ない。心を決めるんだ。


「……あのさ、実は、ふたりに言わないといけないことが……あるんだ」

 俺の言葉は、おずおずと気まずそうにその場に提示された。

 同時にふたりは目線をこちらに向けた。美男美女のカップルに、改めて気持ちがおののく。無意識に息を深く吸い込んだ。

「……実は俺、応募していたミステリー小説コンテストで、受賞、したんだ。それで……書籍化が決定した」


 最初に声を発したのは、真未だった。

 真未は可愛らしい丸い目をして俺を見つめる。その存在は小悪魔的な素質があり、生まれつき男をまどわす天才だ。

「結月、マジで!? ほんとに書籍化なの? すごいじゃん!! 詳しく教えてよ」

 先程まで足を組みこちらを向いていた靴先は、その一瞬で見事に俺に敬意を表し後ろへ下がった。真未の色白の胸元がグッと近づき眩しい。


「あ、ああ」

 もちろん全くのデタラメだ。受賞だなんて。

 俺と一弥の夢はいつか小説のコンテストで認められ、自分たちの小説が書籍化されることだった。どちらが先に作家デビュー出来るか、口には出さなかったが互いに懸念しあっていた。

 そして……真未は可愛くて色っぽくて隙が多くて、もともと権威や名誉が好きな部類の女だ。ハイスペックな男と結婚するトロフィーワイフみたいな匂いがする。(実際にはシャンプーの匂いがしたけど)

 だからこそ、俺は燃えた。真未から醸し出される野心としたたかさが、希望のように感嘆の声のように俺を奮い立たせ続けていた。


(それでいい。芝居を続けるんだ)

「……書籍化、されるんだ」

 俺は自分に言い聞かせるようにもう一度言った。

「まだ公表はされてない。ここだけの秘密だ。絶対に言わないでくれ……昨日、担当編集者から連絡があったんだよ。口外はまだ厳禁だけど、ふたりには……先に言っておきたかった」

 嘘に対する俺の決まり悪さは、秘密をほのめかすそれと似ていて違和感なく受け入れられた。いや、思った以上の効果があった。ふたりは一ミリも疑わず信じたように見えたから。


 こんな見え透いた嘘をついて、どうしたいんだと思うかもしれない。だが、俺には何がなんでも時間を稼ぐ必要があった。

 一弥の自信を失わせ、真未の注目を一心に受ける。何がなんでもプロポーズを中断させなければ。

 この後、俺はうまく真未とふたりきりになり、一弥より先に自分の気持ちを伝えよう。俺という存在を、真未の心に太陽のように力強く印象付けたい。未来の夫という輝かしい位置を必ず確保する。


 ハッタリでもよかった。後日、受賞してないことがバレても、今回は出版社の意向と合わず受賞を辞退した……ということにすればいい。だが、絶対に挽回してみせる。

 俺の身体を構成してる細胞たちが粛々しゅくしゅくと成功への風向きを探り始めた。妙なやる気が湧いてきた。

 近い将来出まかせじゃなく、本当に真未と作家デビュー、両方の夢を現実のものにしてやる。


 次の瞬間、ふたりの表情の違いに、吸い込まれるように現実に引き戻された。

 気づけば俺は、一弥への後ろめたさと真未から注目される快感に、満足と未知なる不安を覚えテーブルの下でガクガクと脚を震わせていた。

 俺の発言は今や、じわじわと一弥を攻撃している。一弥が自信を損ない今日のプロポーズを延期、または取り止めてくれればと強く願う。

 その呪いは、黙り混む俺の身体にじっとりと汗のようにまとわりついた。


「結月……おめでとう、流石だな。いつかこういう日が来ると思っていた、マジで。俺より先に、作家になる日が来ると。本当におめでとう。……じゃあ、また今度な。あ……真未、ピザはやめとけよ、せっかくの夕飯が食えなくなるしデブるぞ。まだ帰らないなら、俺はこれからちょっと……用事があるからトイレ寄って先帰るわ。真未、ハンカチ貸してくれ……帰る前、連絡しろよ」

 最後の言葉を恋人に向かい告げると、販売用のワイン棚を指差し一弥は立ち上がった。

 用事とはワインを買うことか。慣れた様子でイタリアの赤と白のワイン、炭酸水を店員に指示し包んでもらっている。


 横顔に一弥の不可解で思い詰めた視線を感じたが、その時俺は「また」というアイコンタクトをしなかった。心に不穏な空気を抱いたまま、スニーカーの小さな汚れをじっと見ていた。

 俺の発言に心を奪われていた真未は確か、恋人に言葉さえ掛けなかったと思う。

 白いTシャツにグレンチェックのシャツを羽織った長身の一弥。絵になる男は、ワインの入った紙袋を受け取った。

 きっと酒好きな真未のためだろう。俺は考える。この男は料理も得意なのだ。

 記念日の今夜、手料理を振る舞い、プロポーズの後にワインで祝うつもりに違いない。


 プロポーズ……。ふたりが結婚したら、真未はもう永遠に一弥のものになる。

 今までだって、ずっと……俺は片思いだった。ずっと、一弥から真未を略奪出来ずにいた。仲の良い、害のない、気心の知れた友人。

 改めてそう思うと、俺の心はざわつき嵐の中にワープする。吹きすさぶ強風と無情の豪雨に神経がすり減る。一刻の猶予もない。

 ここで行動を移さなければ、もう二度と真未との未来を夢に見ることは出来ないのだ。


「ゆづ、どうしたの。怖い顔して。ねぇねぇ、一緒に七百円のケーキセット頼まない? 安いし……ケーキならいいよね。カロリー変わんないから意味ないけど、ピザじゃないもん。メニュー見てみて、ここ。この、期間限定のショコラマーマレードレアチーズケーキっていう、美味しいかどうか怪しいのがオススメみたいだよ。それとぉ、さっき珈琲飲んだから、次、紅茶にする? そうしよっか。……ああ、それにしても、結月の小説が本になるなんて夢みたい。嬉しいな。ね、どんなミステリーを書いたの? 私にも内容をサクッと教えてよぉ」


 真未は長い睫毛の魅力的なまなざしと輝く笑顔を向け、俺を釘付けにした。すでに喉はカラカラだ。

 紅潮した頬と潤んだ瞳は、俺に対する興奮によるものなのか。動くたび艶めく真未は、エクスタシーに到達寸前のセクシー女優みたいだ。

 しかも何気に素足の膝が、俺の太ももに優しく触れてくる。

 さっきから俺は緊張で固まったまま、身体を動かすことさえ出来ずにいた。


「真未……ケーキでも何でも奢るから、好きなやつを頼めよ。……小説は、た、探偵が出てくるんだ。アレも出る、ほらなんだ……あ、死体だ。一応、何て言うか……素人探偵が頑張って謎解きしててさ……その、よくあるミステリーだよ」

 俺はそれだけ言うのが精一杯だった。


「そりゃ、ミステリーなんだから探偵や死体くらい普通出てくるよね。もう、結月ったら謙遜しちゃって。……あ、もしかして本になるまで内容を喋っちゃいけないとか? やだー、そういうことなら、気を使わないではっきり言ってね。私だってちゃんと心得てるんだから……ん 、なぁに?」


 今だ。

 俺だけに向けられる、真未の羨望の瞳。ふたりだけのこの空間。

 いつの間にか全身が心臓という臓器に支配されていた。激しい鼓動が隣のテーブルにまで伝わりそうだ。

 指先などは自律神経がイカれて、すでに自分ではコントロール不能なくらい震えている。


「真未……。聞いてもらいたいことが……あるんだ。今日がお前たちふたりの記念日だっていうことは、もちろんわかってる。でも俺は……お、俺は、実は、ずっと前から……真未の、ことを」


「ん、記念日? あ、ゆづ、待って。ごめ~ん。一弥から電話だ」

 この場にいないくせに、絶妙のタイミングで一弥は俺の告白をさえぎった。

「もしも……、あれ? なんで。電話、切れちゃった」

 真未はスマホを片手で操作しながら不思議な表情をして俺を見た。

 その瞬間、俺はあることに気がついた。


 この店は客がレジを済ませ外に出るとき、店員が「ありがとうございました」と大声で声掛けをする。

 一弥はワインを購入し、トイレへ寄ってから先に帰ると言っていた。あれから結構時間が経ってるのに、俺は店員の声掛けを聞いてない。

 そうだ、一弥はまだ店内にいるんじゃないのか。なぜ帰らない?

 どうしようもないモヤモヤした気持ちと、言葉にならない嫌な予感が生まれて消えた。


「ちょっとトイレに行ってくる」

 スマホをいじる真未が顔をあげた時にはすでに俺は動いていた。

 不安要素が渦巻き、シャーロック・ホームズはこういう場合どんな行動をとるのかと一瞬脳裏をかすめる。別にどうでもいいことだ。

 俺自身の直感を信じればいい。

 よからぬ前触れ。こんな時は数秒の思考の遅れが命取りになるんだ。

 これまで何度も経験した、不穏な予兆だけが俺を動かしていた。


 男子トイレのドアを躊躇せず開ける。洗面所には誰もいない。奥の個室は閉まっていた。

「……一弥、いるのか?」

 静かな密室の中、人のいる気配を微かに感じた。見えずとも感じるのはその呼吸なのか体温か、それとも空気の微弱な振動か。

 突如、個室のドアの下から、真っ赤なものが音もなく床をつたってきた。

 これは、これは……血だ。

「一弥ーーー!!」


 嫌な予感が的中する。

 勢いよく個室の扉を押すと、押し戻される感覚もないまま開く。

 その直後、俺の頭は真っ白になった。


「嘘、だろ。か、ず……。かず、わぁーーーっ!!!」


 俺は口元を右手で押さえる。なのに、悲鳴はいくらでも指の隙間から漏れてきた。

 一弥は目を閉じ、そのデカい胴体を横たえ、白いTシャツの胸元を真っ赤に染めていたのだ。

 人間は力を解いた状態のほうが重く大きく感じる。だらりと垂れた片手には、凶器と化した割れたワインボトルがあった。


 自殺、という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。

 そして……もしかして、その原因を作ったのは俺じゃないのかという疑念。

 それらが涙と吐き気に変化すると幾度も押し寄せてきた。

 一弥は自信喪失のあまり、衝動的に判断を誤ったんじゃないか。

 そして購入したばかりのワインボトルを自ら割り、その尖った刃先で胸を刺したんじゃないか。


 震える、声にならない声で俺は言う。

「かず、や。悪かった……死ぬな……お願いだ。た、助けを、呼ぶから……な」

 俺は転がるようにトイレから飛び出し、辺りを見回した。

 真未……。


「ま、み……。一弥が、し、死ぬ……かも、しれない。き、救急車を、早く……」


「ゆづき……。一弥が、なに?」


 真未は俺を指差し、首をかしげた。

 俺は息も絶え絶えの形相で、もう一度喉の奥から声を絞り出す。

「真未、一弥が……救急車を……早く」

 真未はまた首をかしげ、俺を指差し言った。

「なんで?」


 なんでって……だから。

 混乱中でありながらも、俺は真未の微妙な角度の指先を目で追った。あれ、俺の後ろ?

 俺はゆっくりと振り返る。

 そこには、ピンクのタオルハンカチで丁寧に手をふく一弥の姿があった。


「か、か、一弥……!お前、一体……」

 俺は驚き、マジでのけぞった。

 一体全体、どういうことだ。さっき、え、さっき、確かに血を流し一弥は死んでるみたいに……。なのに、まるで死の淵から華麗に……生還した?

 一弥は、唇の端をゆがませるとにやりと笑った。そしてチェックのシャツをマントのようにひるがえし、白いTシャツ姿になると格好つけて奴は言った。



「俺が、だ――。受賞の虚言も真未のことも、全部見通してる。俺を騙そうなんて百年早い。結月、相手が悪かったな。残念ながら、お前の負けだ。それから、女には用心しろよ……恋は人を狂わせる」



 目の前の長身のシャーロック・ホームズと名乗る男は堂々としていて、俺は思わず息を呑んだ。

 受賞の嘘も、真未への恋愛感情さえもお見通しだったっていうのかよ。

 そんなばかな……。

 じゃあなぜ、一弥は俺にハッタリをかけるんだ?


 先程、一弥の死体だと勘違いし、驚愕した光景が思い出された。

 死んだと思ったのは、白いTシャツが血に染まっていたからだ……。

 なぜだ、一弥はそんな事実などないといった顔で俺を混乱させる。

 確かに着替えの服などこいつは持っていなかった。それなのに今、そのTシャツは……血に染まって

 俺は絶対にこの目で見たのだ、胸に広がっていく赤い血を。

 自信に溢れた男。

 真未の恋人。

 一弥は何も言わずに俺を見下ろす。ただ、圧倒的な存在感で俺と対峙たいじしていた。


 負けた……、この男はいつも俺の遥か上を行く。

 斬新で洗練されていて、鋭い洞察力の持ち主だ。俺にはない鮮やかな行動力があった。

 俺は完敗を悟る。

 今、ここで、全てにおいて。もはや、認めるしかない。

「一弥。お前……やっぱり、すげぇな。なんで、俺の考えてること、全部わかったんだ……」

 嘘が暴かれるのは精神的には意外にいいと、穏やかな気持ちで思った。



「おいおい結月、冗談だろ。……自分がどんだけ怪しかったか、気づいてないのかよ? お前、緊張して大汗かいて、ずっと貧乏揺すりしてたじゃないか。嘘をついてる人間の症状を完全に網羅もうらしていた。ツッコミどころ満載だったぞ」

 観念した俺に一弥は満足する。そして、謎解きを待ちわびた名探偵のように意気揚々と喋り始めた。

 もう誰にも止められない。くそっ、勝手にしろ。好きにさせてやる。


「結月が特にナーバスになったのは、受賞で書籍化のシーンだ。もし……それが本当じゃないとすると、何のためにそんな嘘をつく必要がある? だが、お前の顔。真未に対する態度を観察してたら……普通、俺じゃなくたって気づくさ。お前、わかりやす過ぎるんだ。この俺が気づかないとでも、本気で思ってたのかよ。……だから、逆にハッタリをかけた」


 俺は脱力し、床にへたりこんだ。唇に笑いが漏れる。

 なんてことだ、全く。そんな、バレバレだったのかよ。さっきまでの必死な俺がバカみたいじゃないか!

「一弥、わかってたんなら、すぐに言ってくれればいいだろ。俺のことたっぷり泳がせておいてから、後で恥をさらすつもりだったんだな。お前はあんな……死ぬ茶番劇までして、心の中でずっと笑ってたんだ……楽しかったか、くそっ」


「結月、そう怒るなよ。確かに楽しませてもらったよ。だけど、それはもちろん結月のためだ。お前はミステリ好きな無類のロマンチストだからな。このくらい芝居がかってたほうが気に入るだろ」

 一弥は憎たらしく笑っている。

 でも確かにその通りかもしれない。俺も笑いをこらえきれなくなり、思わず吹き出した。

 男同士ふたり、まわりの客に変な目で見られながら笑い転げた。



「ちょっと二人とも! お店の真ん中で何してるのっ! 他のお客さんにご迷惑でしょ。恥ずかしいから、早くこっちに来て。ここに座って!」

 真未は頭に角をはやし、両手で激しくオイデオイデをしている。怒った真未は結構怖い。


「あんたたち、信じらんない。お店の真ん中でシャーロック・ホームズごっこ? マジでそういうのやめて! 全く、男って本当に子供なんだから! 一弥ももう帰ったのかと思ってた。何なのよ、急に現れるからびっくりするじゃない。言ってよね。しかも一弥……もしかして、ワイン飲んでる? なんかお酒臭いんだけど」


 真未が顔をしかめた。

 その時、しゅんとしていた一弥の表情が急に晴れる。俺の目を見ながら。

「結月、これがお前に仕掛けたトリックだよ。あの血は、赤ワインだ」

 確かに今、一弥は購入したワインを持っていない。俺を騙すために、赤ワインを血に見立てたんだ。


「くそっ、俺を恐怖におとしいれるためだけに、赤ワインを胸にかけて自殺したように見せたんだな。正気かよ、あんな死体の演出までしやがって。お前は、俺に心臓麻痺を起こさせる気か。破天荒すぎる。……だけど一弥。なんで今、Tシャツに赤ワインの染みがないんだ。そうだろ、服についた赤ワインの汚れは普通落ちにくい。どうやった? 俺は逆にそっちのほうが気になる」

 素朴な疑問だった。

 赤ワインの染みはどこだ。すました一弥は名探偵らしく時間をもてあそぶ。そして注目の中、ゆっくりと口を開いた。


「結月、知ってるか? 赤ワインの汚れは、で消せるんだよ。まあ、赤ワインの色素・ポリフェノールが乾く前のみにだけ使える手だけどな。そして、一緒に購入した炭酸水で拭いた。水で洗い流すより汚れが落ちやすい。咄嗟とっさにしては、なかなかだろ。……その後、素知らぬ顔をしてお前の前に現れたってわけだ。まさに、ように見せかけてね」

 一弥の勝ち誇ったような顔に、俺は苦笑いするしかなかった。この男の行動力は感動的でさえある。



「ねぇ、一弥……」

 真未だった。それは今まで聞いたこともないくらい低い声。


「ねぇ、一弥! ほんと、信じらんない!! 服を汚すためにワインを二本も買ったっていうの?! 嘘でしょ、そんなのありえないからね」

 真未の怒号に、今まで強気だった一弥が一瞬にして縮こまった。

「い、や。あの……悪かった、真未。今度からちゃんと、節約するから……」


「節約……?」

 俺の声にすがるようにして、一弥が反応する。

「ああ、実は真未な、最近めちゃくちゃ節約にハマってんだよ。そっちのほうが信じられないだろ。こんな派手で浪費家にしか見えないルックスのくせして……」


「はあ?! 私が浪費家? まったく男ってこれだから……何にもわかってないのよね。勝手に判断しないでください。だから、見た目清楚系のお嬢様タイプにみんな騙されるのよ。そして、気づかないうちに将棋の駒みたく操られるんだわ。いい? ふたりとも。清楚で控えめなだけの女なんて、この世にはいないの。人間は本能的にバランスを取ろうとするものよ。善に強い人は悪にも強い。逆もまた然り。わかった? ……それに言っときますけど、節約ほどクリエイティブでスリリングな趣味はないんだからね!」


「節約って、スリリングだったか……?」

 俺は小声で言う。

 真未は同性に対してやたらと手厳しい。きっと、話をそっちへ持っていってはダメだ。節約に話をそらさねば。俺は必死で軌道修正する。

 だが、百歩譲ってクリエイティブはあるとして、節約とスリルという言葉がどうも結びつかない。


「スリリングよ。ゆづ、節約って何のためにするの?」

 真未が俺にいきなり質問してきた。

「え、と、あの、お金を……貯めるため?」

「正解」

「じゃあ、最強の節約術って何か知ってる?」


 まずい、真未がどんどん質問してくる。

「さ、さいきょう? ちょっと、わかんないっす……」

 ここはバカになるしかない。

「あのねぇ、ゆづ。教えてあげる。……最強の節約術ってねぇ。お金を、使ことなの」

 ……なるほど。

 俺は深く相槌あいづちをうった。


「だから、一弥が服を汚すためにワインを二本も買うっておかしくない? でしょう。頭のいい結月なら、わかってくれるよね」

 俺はこわごわもう一度相槌をうった。

 その時真未の後ろ(死角)で、一弥が口パクで一生懸命俺に言う。

『た か ら れ る な よ』

 えっ?

「一弥ぁ、何か言った?」

 真未。

「いや、何も言ってないっす」

 即答の一弥。


「あのね。節約って、とってもクリエイティブな作業なの。知性と度胸も必要よ。だって、いい人過ぎる人や善行に溢れた人って大抵貧乏でしょ。清貧って言葉もあるくらい。だからお金を貯めるには、しっかりここを使わないといけないの」

 偏見にまみれた真未は、自分のこめかみを指差しにっこりと微笑んだ。

「私、記憶力もいいんだぁ。さっき、ゆづ、私に何でも奢ってくれるって言ってたよね? 嬉しい、ありがとう。一弥もちゃんとお礼を言ってね」


「わりぃな、結月。ご馳走になりまーす」

 は?? 真未と一弥はメニューを広げ、すでに相談を始めている。

 どういうことだよ、もう!

 ちょっとー、おふたりさん。

 何、もう選び始めてんの。

 しかもそこ、ガッツリ系のページですよ。遠慮してー。


「……わかったよ。今日はふたりの記念日でもあるしな。俺が奢る。たーんと食え」

 奢ると腹を決めた俺に、一弥と真未が不思議そうな顔でこっちを見た。

「さっきから記念日って言ってるけど、何のこと?」

 へ?

「今日は……ふたりが付き合い始めた記念日じゃないのか?」

 そう言った俺の言葉は、見事に爆笑でかき消された。


「全っ然、知らなかった!」

「ていうか、今までそんな日、祝ったことないんですけどぉ」

「もう、ゆづって、ほんと乙女なんだから~」

「お前、はよ彼女作れ」

 俺は……何だか、激しくこの世から消えたくなった。

 うるせーよ!!



「ねえ、一弥と結月がやってるWeb小説のサイトで、私も今度書いてみちゃおうかなぁ。紺野真未著『こんまみ流、使わない節約術』ってどう? やば~い、結構人気出ちゃうかもよ。書籍化されて、めっちゃ売れて、世界進出とかしちゃったりして~」


「真未ならあり得そうで怖ぇー」


 ふたりがはしゃぎ始めた。

 心から楽しそうに、手を叩いて笑いあっている。

 まるで、愛が永遠にここにあるみたいだ。

 こんな時は夢など簡単に叶いそうだと思った。やわらかい木漏れ日のような、ふわりと煌めき広がる夢。

 願いは、笑い飛ばせるほど軽いほうがいい。重たい願いは天まで届かないから。

 真未の無邪気な笑顔を見たら、何だか本当に人気が出るんじゃないかと少し思った。


「意外と俺らより先に書籍化して、本当に作家デビューするかもな」

 一弥が冗談まじりに言う。

 そこには嫉妬もコンプレックスもない。

 ありふれた、光射す午後。

 何だかそれでもいいかと、俺も一緒に笑いあった。





   To:真島結月

   From:倉原一弥



 この前は死体ネタで驚かせて悪かったな。

 ピザも美味しかった。真未も喜んでたよ。

 ひとつ言いたいことがあって、メールすることにした。


 例の架空の書籍化の件だが、本当じゃなかったとしても俺は受賞を信じたよ。

 俺にはわかる。結月は作家になる人間だ。

 どうしてかって?

 なぜなら俺がこの物語の主人公、シャーロック・ホームズだからw

 君は天性の語り手なんだよ、結月ワトソン


 人は皆、それぞれに適性がある。

 いいか、自分を貫け。誰も見たことのない世界を書けよ。

 それこそがお前の存在価値だ。


 ずっと羨ましかった、語り手として才能が。

 俺ら、作家を目指すものにとっては喉から手が出るほど欲しい宝物だろ。


 あの時、なんで全部わかったのかって俺に聞いたよな?

 もちろん、それは親友だからだ。

 当たり前だろ。俺はお前のことなら、世界中の誰よりもわかってる。

 初歩的なことだ。


 それから、真未のことは諦めろ。

 あいつはお前の手に負えるような女じゃない。大変だけど、俺が引き受けるよ。


 次は俺が奢るから、もうしょげるなよ。

 じゃあ、またな。

 ワトソンくん。





注)

こちらのワイン・トリック、よいこはマネをしないで下さいね。



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ワトソン・コンプレックス 片瀬智子 @merci-tiara

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