三ヶ日

@nekonohige_37

三ヶ日

 人に限らず、動物だけにも限らず、植物にとっても食事と呼ばれる行為は生命維持において最も重要な行動の一つだろう。

 単純に肉体を動かす上でも、知性を働かせる上でも、常に摩耗を続ける肉体の修復においても、肉体の外から栄養素を取り入れ己の糧にする行為は重要である。

 故に、空腹という概念は全人類が最も感じることの多い警報の一つと言えるが、現代人においてその警報はある種、食事の楽しみを引き立てる調味料の様な役割の他ならない。

 それもそうだ、なぜなら現代人において飢餓と呼ばれる感覚は遠い世界で繰り広げられるフィクションであり、大抵の場合空腹を感じても食事にありつけないという恐怖を感じる事は無いのだから。

 では、もし仮に、口にする物がない状況下に現代人が追い込まれたらどうなるか?

 その模範解答というべき状況が、狭いワンルームマンションの一室で展開されていた。

 『今年の締めくくりと新年の食卓を彩るにぴったりのごちそうですね!』

 中古で買った古い液晶テレビの中でニュースキャスターが蟹を頬張る姿を見つめながら、一周回って妙なテンションになり始めた彼は鳩尾のあたりをさする。

 「蟹くいてぇ……」

 ぼそりと呟いたところで帰ってくるのはスピーカーから流れるCMソングだけだ。

 今年一年が後数十分で終わるという年の瀬に、何故自分はここまでの空腹に追い込まれているのかを考えた。

 そもそもの原因の全ては、彼の計画性の無さにある。

 年の瀬の最後の日、彼はいつも通り朝食を抜いて家を飛び出すと、酒屋でアルバイトに励んだ訳だが、こういった日の酒屋はいわゆるかき入れ時であり、一日中仕事に駆け回り食事をとる暇が無かった。

 無論、それだけなら仕事帰りにスーパーなどで買い物をすればいいのだが、何を思ったのか、彼はスーパーで財布の中の現金を全て使い、縁起物である鏡餅を買った。

 とはいえこの地点でもさしたる問題ではない。

 では何が問題か、それは、今日という日が銀行の取り扱いが止まる年末年始ということにある。

 当然キャッシュカードを端末に入れたところで現金は引き出せず、さらにはクレジットカードすら持っていなかった彼は、事実上所持金ゼロの身となったのである。

 「つうか何で鏡餅……」

 彼は目の前にある一人暮らしには大げさなサイズの鏡餅を見つめる。

 別に特段この手の文化に興味があるわけでは無いが、たまたま財布にあった現金ぴったりの額でこの縁起物が買えるのは何かの縁だ、そう思って妙なテンションのままレジに並んだ数時間前の自分が憎らしい。

 「餅……」

 こたつの天板に寝そべると、彼は低い音を奏でる腹をさすってからため息をつく。

 冷蔵庫の中には調味料以外食料は無し、普段はカップ麺が入ってる棚も今は在庫が無い。

 買い置きの菓子類も全て切らした状況において、唯一彼が口にして空腹を和らげる作用を持つのは、目の前にある縁起物の餅だけである。

 「縁起物だしな……」

 いっそこれを焼いて食べようかとも考えたが、『何かの縁』で巡り合わせたこの二段重ねの餅を正月前に食すのはどこか気が引ける。

 「ひもじい……」

 別に命に関わるほどの飢餓ではないが、それでもあたり一面お正月のごちそうモードに入ったこの時間帯に、一人だけ空腹に震えているという状況が一層ひもじい思いを加速させる。

 彼はせめて気を紛らわせようとテレビのリモコンを操作し、両手を枕にして突っ伏す。

 丁度そんなときだった、彼の鼓膜を妙な声がくすぐったのは。

 「おにいさん、おにいさん、聞こえてますか?」

 端的に言えば愛らしい子供の声だった。

 「おーい、あなたの事ですよ、お兄さん!」

 もっと詳しく述べるなら、鈴を転がした様な少女の声だった。

 どうせ何か正月番組の音声なのだろう、そう思って聞き流した彼の耳を、予想外な声がつつく。

 「お正月にお腹すかせてどうしたんですか? 机に伏せても空腹はなくなりませんよ?」

 まるで自分を馬鹿にしたかの様な言葉で、どれだけ嫌みな番組なのかとふと視線をあげた先、そこには妙な存在が在った。

 「そうです、お兄さん、ちゃんと聞こえてるじゃないですか」

 一人暮らし用のテーブルの上、そこには人が居た。

 いいや、人と呼ぶにはいささか誤解があるので情報を継ぎ足すと、フィクションの世界で登場する様な、手のひらサイズの少女が立ってこちらへと語りかけていた。

 「あー……とうとう幻覚が見え始めたか……俺頭やべえな……」

 当然そんな事を思った訳だが、文字通り小さな人影は冗談みたいに鮮やかなオレンジ色の髪の毛を揺らし、ついでにそのてっぺんに乗った緑色のリボンを揺らせてから再度口を開く。

 「どうやら混乱してるみたいですね? でも大丈夫ですよ、状況は至ってシンプル。

 お兄さんは今、みかんの妖精とお話してるんです。

 ね……簡単でしょ?」

 「余計混乱するわ!」

 ぱっと口をついて出た突っ込みだったが、同時に幻覚に対して返事を返した事にしまったと思った。

 だが、空腹が見せる幻覚なら、返答を返さないところで消える気がしなかった為、彼は存在する訳がないその『みかんの妖精』とやらに向き直る。

 「そうですか?」

 「そうだよ! つうか何でこのタイミングでみかんの妖精なんてもんが現れるんだよ」

 投げやりに返した声に、みかんの妖精(?)は拗ねた様に俯くと、元気なく小言を溢す。

 「ミカちゃん……悲しいな……」

 「みかんの妖精だからミカちゃんってどんだけ安直なネーミングだよ……っつうかこのタイミングで出る幻覚なら普通蟹とか鏡餅とかいろいろ――」

 っと呟き、目前に鏡餅にのったみかんがあることに気づき、大きなため息を一つ吐く。

 「私は妖精! 幻覚じゃないもん!」

 「わかったわかった、んじゃ妖精らしく何か願い事でも叶えてさっさと居なくなってくれ」

 手で振り払う仕草をするが、帰ってきたのは予想外な返答だった。

 「いいよ! どんなお願いする?」

 何の含みもない明るく肯定的な質問、その声に嘘や偽りの色は感じられない。

 それと同時に、ふと一つの可能性が頭をかすめる。

 「おまえ、一応鏡餅のみかんなんだよな」

 彼の言葉に妖精はうなずく。

 今が極度の空腹下であるが為に、現状を空腹が生み出した幻覚や白昼夢の類いだと思ってはいたが、そもそもこの状況を生み出したのは、大晦日という特殊な日と、妙な縁で購入した鏡餅の存在にある。

 偶然にしてはおかしなこの状況は、冷静に考えれば何か科学では証明しきれない妙な力がかかっていると言ってもおかしくはない。

 「おまえさ、何か特殊なみかんなのか?」

 問いに答えたのは僅かな沈黙と、遅れて紡がれた語彙だった。

 「それは難しい質問だね、私たちはみんなが特別だよ。

 それぞれがそれぞれの生まれ方をして、それぞれの思いを抱く。

 ただ私はその中でも、たまたまあなたの願いに誘われた神様が意思と願いを叶える力を授けてくれただけ」

 子供の言葉にしては妙にまとまった彼女の言葉に、思わず言葉を無くした。

 「願い……ね」

 日本には八百万の神と呼ばれる信仰がある。

 万物に神が宿り、万物が心を宿している。

 その考えが本当なら、彼女の存在は己が抱いていた強い願い、つまりは空腹を満たしたい、そんな一心の思いが凝り固まったとしても大げさではないのかもしれない。

 「大晦日に、ましてやあの鏡餅のみかんだ、それも有り得るのか?」

 自分自身に対して紡がれた疑問符を、そっと飲み込んだ。

 「まぁ……どうでもいいか」

 深く疑うのはやめにしよう、何故かそう思えてきた彼は、素直な気持ちで願いを口にした。

 「お願い事、そうだな、特別豪華な晩ご飯を用意してくれよ」

 ささやかな願いを、少女は透き通った笑顔で受け止める。

 そして――

 「それは無理」

 「この役立たずみかんが! っていうか冷静に考えたら何で仏教の文化で妖精なんて西洋の物が登場してんだよ!」

 机を握りこぶしで叩いた彼だったが、自称妖精はそんな手にそっと小さな手のひらを重ねてから口を開く。

 「ごちそうは無理だけど、あなたの空腹を和らげる位の事はできるんだよ」

 柑橘類の匂いがするオレンジ色の髪の毛を揺らす少女は、この世の誰よりも優しく美しい笑顔を作ってから机にぺたりと座る。

 そして、自分の胸元に手を当ててから上目遣いになると、ぽっと頬を朱に染めてから呟いた。

 「あなたが望むなら……私を……食べちゃってもいいんだよ」

 「誤解招く様な言い方してんじゃねえぞごるぁ!! それなら望み通りてめえをくってやらあ!」

 直後、彼は鏡餅の上の鷲づかみにして狭いワンルームの中立ち上がった。

 丁度その瞬間、彼が住むこのアパートは新年を迎えた訳だが、生憎な事にこれから先の出来事をよく覚えてない。






 「……ん……朝か……」

 彼はこたつに下半身を埋めたまま、ぼんやりと天井を見つめてから己があの後眠りにつき、そのまま朝を迎えたのだと知る。

 「初夢がミカちゃんねぇ……」

 そんな事を呟きながら、彼は状態を起こすとみかんが消えた鏡餅に向き直り言葉をなくす。

 「人の子よ、目覚めたか。

 私は餅の精霊、越後屋。

 悪しきみかんの妖精から解放してくれた事を感謝する」

 彼は何も見ていない、聞いてないと己に言い聞かせると、再び状態を倒し天井を眺め、突如机の上に現れた自称餅の精霊から意識を逸らし、今年は寝正月をしようと決め込むのだった。


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