77話 新たな境地と天人族の契約(後)
「サシャ! それだけ動けるなら大丈夫そうだな!」
「ごめんシルヴィエ心配かけて! もう大丈夫だから!」
サシャは尚も周囲を蹂躙し続ける。
背後から襲いかかるラプトルを振り返りもせずにひらりと躱し、攻撃に移ろうとした飛行蟲の機先を制して返り討ちにし。
今のサシャには全てが"見えて"いるのだ。
周囲で乱闘する全ての飛行蟲とラプトルの、その全ての動きが。そこかしこで振り回されている飛行蟲の鎌も、飛び上がろうと羽ばたきはじめるその皮翼も。突進を始めるラプトルの脚の筋肉の盛り上がりも、爬虫類の視線が見つめるその標的も。
それら全てがはっきりと知覚できているサシャにとって、乱戦の只中を泳ぐように、全ての機先を制し続けることはさほど難しいことではない。彼には元来、それを可能とするだけのヴァンパイアとしての超人的な身体能力も備わっているのだ。
「ヴィオラ! さっきは無詠唱で無理をしてくれてありがとね! でもお陰でまだ本調子じゃないでしょ、無理はしないで!」
「え、あ、サシャさま……?」
隠していたのかもしれないが、荒い呼吸を押し殺して戦うヴィオラの援護に入るサシャ。ヴィオラは驚いているが、今のサシャにはそんなことまで分かってしまう。それだけ【ゾーン】の範囲内に関する知覚能力は上がっているのだ。
考えてみれば、姉のダーシャは【ゾーン】のことをこう言っていた。
その領域で起こることを見なくても把握できたり、そこで失われた他者の命の欠片を自らのものとしてちょっぴり吸収できたり、そんな感じね――と。
まさにそのとおりの状況になっている訳だが、いきなりここまで進化したきっかけはひとつしかない。つい今瀕死のコアから贈られた、膨大な青の力だ。
思えば<密緑の迷宮>で初めて青の力を受け取った時には、それで【ゾーン】の第一歩、地面に絵が描けるようになった。ならば今回の二回目でここまで【ゾーン】が進歩してもおかしくはない。
……こうなった直後はあまりの情報量の多さについふらつき、イグナーツに支えてもらったサシャだったのだが。
「よおし! なんだかいくらでも戦える気がしてきた! ヴィオラは少し休んでて!」
「サシャさま……」
サシャの言葉に嘘はない。
これだけ周囲の全てが見えている上に、体内の泉の青の力は文字どおり溢れんばかりなのだ。さらに狭い範囲とはいえ、周囲で力尽きていく飛行蟲やラプトルから追加の力も流れ込んできている。
「行くぞおおお!」
あたかも神罰を下す雷のごとく、青の残光を曳いて凛然と周囲の大乱闘に斬り込んでいくサシャ。ラプトルには心なしか手加減をしているものの、飛行蟲は片端から盛大に蒼く燃え上がらせていく。
サシャの体からはまばゆいほどの青光が立ち昇り、行く手を阻もうとするものは何も出来ずに機先を制される。流れるような舞うような、神々しいまでの戦いぶり。どんな熾烈な乱戦だろうが今のサシャの足取りを止められるものはなく、その背後で生き長らえているものもない。そして。
「――ラプトルが逃げていくぞ!」
乱戦の中でシルヴィエが上げた叫びのとおり、周囲のラプトルがぽつりぽつりと逃げ出しはじめた。召喚主の枷が外れて自然に戻った分、圧倒的強者がいれば逃げるのもまた本能である。
一匹が逃げ出せばあとは芋蔓式。
剥き出しの闘争本能を上回る恐怖があっという間に伝播し、総崩れになって我先にと逃散していくラプトルたち。残ったものは――
――それでも退く気配を一切見せない、奈落の飛行蟲の大群。
それらはそもそも異質な存在であり、根本となる理からして異なるのかもしれない。だが、それは文字どおり神兵のごとく戦い続けるサシャにとって、待ち望んでいた展開だった。
「よし! これで手加減なしで行くよ! コアの仇討ちだ!」
今まで手加減をしていたようにも見えないのだが、それでも動きがさらに一段早くなった様子を見れば、それは本当のことなのだろう。執拗にまとわりつくラプトルがいなくなって雲霞のごとく集まりだした飛行蟲を相手に、サシャは一歩も引かない戦いを繰り広げていく。
「イグナーツ殿!」
「うむ!」
初めはそんなサシャと共に果敢に戦っていたシルヴィエやイグナーツらが、ひと声を掛け合って守り主体の堅実な戦法に切り替えはじめた。
彼らの後ろには、景気よく古代魔法を使いすぎて息切れしているエリシュカや、未だ本調子ではなさそうなヴィオラがいる。その二人を守るという意味もあるが、何よりサシャの戦いがめざましすぎて、邪魔にならぬよう手控えるという意味合いが強い。
イグナーツとシルヴィエという歴戦の戦士二人から見ても、それだけ今のサシャの戦いぶりは神がかっているのだ。まばゆいほどの聖光をまとい、惚れ惚れするほどに無駄のない身のこなしで、圧倒的戦力で大量の飛行蟲を灰塵に帰していく。
「サシャさま、すごい……」
ヴィオラがぽつりと呟いた。
一歩戦いから退いてみれば、サシャの戦いぶりの凄まじさが良く分かる。
飛行蟲はまるで憎むべき天敵に群がるようにサシャにだけ集中していき、四人は呆気なく安全圏に取り残された。そして、それぞれの感慨を持って眼前の戦いを茫然と見詰めている。
「あの戦いぶり、まさにダーシャ殿そのもの……。天人族とは、かくも手の届かぬ存在なのか……」
「彼こそまさしく、奈落と戦うために遣わされた神の戦士なのだ。我々が授かった導きは、掛け値なしの真実であったのだ」
「実に、実に素晴らしいぞサシャ君。なんとミステリアスで、なんと研究しがいのある少年なのだ。あれで我らが<幻灯弧>の顧問なのだぞ、なんという幸運」
そこかしこで次々と蒼く燃え上がっては塵になっていく飛行蟲、その数はあっという間に百を超えただろうか。それでも奈落の先兵はサシャに襲いかかるのを止めない。不倶戴天の仇敵を前にした死兵のごとく、空中から地面から執拗に飛びかかっていくのだ。
そして、そんな飛行蟲と戦い続けるサシャの心の中にあることはひとつ。
それは青の力と一緒に流れ込んできた、コアの無念だ。
何千年、いや下手をしたら何万年と生きてきて、成体となる目前であえなく破壊された悔しさ。ヴラヌスという種族としての機微は今ひとつ理解できないものの、その無念さだけは痛いほどに理解できた。
人として周囲と共に生きることを完全に放棄し、結晶となって更なる成長を目指すこと。人を餌として、家畜として体内で飼おうというその発想。
サシャには相容れることなど出来そうにない同族ではあるが、そんな存在でも奈落にいいように破壊されて良いはずがない。力を譲ってくれたという恩もある。
そんな無念を晴らすため、どこまでも破壊しかしない奈落を少しでも食い止めるため、サシャは次々と飛行蟲を屠り続ける。奈落とはいったい何なのか。どうしてこう、何もかも壊してしまおうとするのか。
「――サシャさま?」
どれだけ戦ったのだろうか、サシャはふと我に返ると、そこら中で盛大に燃え上がる蒼い焔をぼんやりと見つめていた自分に気がついた。もう襲いかかってくる飛行蟲はいない。全てを屠り尽したのだ。
ごめん、と声に出して、心配そうに言葉をかけてきたヴィオラを振り返るサシャ。
そこにはヴィオラだけでなく、シルヴィエやイグナーツ、エリシュカといった面々が勢揃いしていた。念のためにと全員に癒しを贈りつつ、サシャはそれぞれが無事に今の戦いを切り抜けたことに安堵の溜息を洩らした。
「……ええと、ちょっとお願いがあるんだけど」
「はい! 何なりと!」
「使徒殿の言葉とあらば」
即座に承諾の言葉を返してくれたヴィオラとイグナーツの後ろで、「お願いと言うからにはこちらのお願いも聞いてくれる覚悟が――」とエリシュカが言いかけたが、それはシルヴィエに遮られた。
「どうしたサシャ、お前らしくもない。遠慮なんてしないで、さっさと言え」
「あー、ちょっとコアがあった場所に行ってみたいかな、なんて」
出来るだけエリシュカの方を見ないようにしつつ、
「なんだそんなことか。飛行蟲は全滅してるし、ラプトルはとっくに門の外へと逃げ出している。逆に行かなくてどうする」
「シルヴィエ殿の言うとおりだ。ここは今のところ安全だ。追加の飛行蟲が侵入してこないかだけ気をつけておけばいい」
「そうですね、前回はそこに
「それは私も望むところだな! 是非行こう!」
サシャの言葉に全員が頷き、五人は揃って石造りの斜面を登りはじめた。
警戒は完全に緩めないながらも、ほぼ普段どおりに会話も交わされている。話題は先ほどのサシャの戦いのことについてと、なぜ奈落の先兵が魔獣と戦っていたかということについてだ。
「それにしても、奈落の先兵はどうやってここに入り込んだのでしょう? ラビリンスの管理小屋はまず通っていないですよね?」
「うむ、そこも不可解なところだな。ただ、<深淵に架かる道>の下から舞い上がってくるところはこの目で見たぞ。道の下の深淵の奥深く、光が届かない虚空の奥からな」
「となれば、そのまま深淵から侵入してきたと考えるのが筋だろう。だが、どこから深淵に?」
「かの深淵はいずこに通じるもの也や……昔から語られているラビリンスの謎のひとつですね。まさか奈落とそれが絡んでくるとは。エリシュカさまは何かご存知ですか?」
「わ、私か? 私はあいにく深淵には興味がないのだ。昔、どのぐらい深いのかと唾を垂らしてみたことがあったぐらいだな」
「つ、唾ですか?」
「そう。近くに小石でもあればそれを落としてみたのだが、なくてな。唾で代用してみた」
「そ、それはなんというか……」
「ああ、二度とやるまいと心に誓った。なにせ垂らした唾が、吹き上げる突風に押し戻されて危うく自分にかかるところだったのだ。それ以来、深淵の謎はどうでもよくなった」
「…………」
ヴィオラだけではなく全員の間に微妙な沈黙が降りたが、それをシルヴィエが咳払いと共に断ち切った。
「さあ、もう着くぞ――――やはりこうなっていたか」
すり鉢状の
それは充分に想像できた、ある意味で予想どおりの光景だった。
まず目に飛び込んできたのは、激しい戦いを物語る無数のラプトルと飛行蟲の死骸。その奥に、ボロボロになった守護魔獣ズメイの残骸が転がっている。そして最奥部、一段高くなった円形舞台の上には、限りなく白い灰の残滓が乱暴に撒き散らされていた。
「……見ろ、ズメイは最後までコアを守ろうとしていたんだな」
「……ええ。随分と必死に戦ったようで、けれども力及ばずに」
「……魔獣ながら天晴、と言いたくなる光景だな」
思わず、といった体で足を止め、しんみりと言葉を交わしたのはシルヴィエ、ヴィオラ、イグナーツの三人。残るサシャとエリシュカは、そのまま無言でまっすぐに白い灰を目指して奥へと進んでいる。
サシャにしてみれば、伝わってきたあの言葉と無念さ、そしてふつりと消えたコアの気配、勝手に暴れ出した魔獣たち……全てがコアの死を物語っているのは分かっているのだが、どうしても自分の目で確かめておきたかったのだ――
――同族の死、というものを。
エリシュカは隣で「もしかしたらここにも
そして、追いついてきたシルヴィエたちとも一緒になり、撒き散らされた白い灰の中を丹念に探ることしばらく。やはりこの<神罰の迷宮>の主だったものは、ただのひとかけらも残ってはいなかった。
「……ズメイを斃した飛行蟲どもに持ち去られたか、破壊されたのであろうな」
「ですがシルヴィエ、その後飛行蟲は全てサシャさまに殲滅されているのですよ? 持ち去られたというよりは破壊されたか、最後の瞬間にその全てを青の光にして――」
ヴィオラの視線を辿り、皆の視線がサシャに集まる。
「あー、たぶん、それかな……」
歯切れ悪くそう答えるサシャ。
前回の<密緑の迷宮>で受け取った青光と比べ、死を覚悟したという状況の割には異様に多かった今回の青光。前回にはなかった無念さとかの付随するものも一緒に流れてきたことを考えれば、残る力の最後のひとしずくまでサシャに流した可能性は高い。
……流したというより、託した、と言った方が正確なんだろうけど。
託された当人であるサシャは、そう心の中で呟いた。
ただ、なぜそこまで自分に託すのか。託して何をしてほしいのか。
「むむっ、それは残念だが、まあ良しとしよう。今回はこんなに立派なものが手に入っているのだしな!」
サシャの目の前では、エリシュカが三つに割れた透明な魔鉱石を大切そうにローブの隠しから取り出している。戦いに追われてすっかり意識の外に行ってしまっていたが、彼女が抜け目なく確保してくれていたようだった。
そしてエリシュカが滔々とその素晴らしさを語り出したところによると、どうやらそれは無事に
……でも、そこにコアはいないんだよね。
サシャは胸を突くような空虚さを覚えつつも、”絶対的な死”を迎えて消えてしまった同族を思い返す。
次世代を託されし者よ、そんな風に語りかけられたように思う。
ヴラヌスに未来あれ、無念さと共にそんなことを言い残していったように思う。
「……本当に、何を期待しているんだか」
思わず零れたその言葉は、サシャの本心からのものだ。
青の力を譲ってくれることはありがたいし、助かることだ。けれども正直なところ、サシャにはラビリンスになるつもりも、ましてや成体となって天空神になるつもりもないのだ。
もしそれを期待しての力の譲渡だったら、実に困ったことになる。姉のダーシャやまだ見ぬ父ヤーヒムのように、サシャは人として、人の中で生きていきたいと思っているのだから。
……でも。
サシャは思う。
譲ってもらった青の力で、出来ることは多い。【ゾーン】がパワーアップしたし、お陰でさらに奈落の先兵を打ち倒せるようになった。
そう。
人として生きるのを止めてラビリンスになるとか、そんな先のことは約束できない。けれども今、譲ってもらった力を使って目の前の奈落と戦うことなら約束できる。そうして奈落を追い払えば、それがここのコアへの何よりの手向けになるのではないか。
「よし! 絶対に奈落を追い払うから! 約束する!」
決然と大声で断言したサシャに、目を丸くしたのは残りの四人だ。
だが、そんな一瞬の戸惑いの後。
エリシュカが持つ魔鉱石とサシャを交互に見比べたヴィオラがハッと息を呑んで、唐突にその琥珀色の瞳を潤ませてサシャの手を取った。
「ああ、これこそが本当の意味での<天人族の契約>なのですね……まさか、わたくしがそんな伝説上の場面に立ち会えるとは…………」
「え、ヴィオラ何を言って――」
「なるほど、まさしく天人族の契約。その類稀なコアに誓ってザヴジェルに勝利をもたらすと、そういうことか。なるほど、なるほど。サシャ、お前はもう心技体が揃った一人前の天人族なのだな。先程の戦いといい、随分と置いていかれたものだ」
「いや、だからシルヴィエも何を――」
「使徒殿。いや、奈落と戦うために遣わされた神の戦士よ。我々はその大義に命を賭して従うぞ」
「えええ、いつの間にか神の戦士に格上げされてる!? ねえイグナーツさんちょっと落ち着いて――」
「サシャ君! 今の儀式でこの
「えええーっ!」
なにがどうなってこうなったのか、サシャは頭を抱えるしかない。
否定しようにも奈落を追い払うという決意は嘘ではないし、強いていえば、ただの魔鉱石に天人族の契約なんてややこしい名前をつけた昔の人が悪い。
姉ダーシャは言っていた。
ヤーヒムズ・コアなんて誰かが勝手につけた大仰な名前だけど、父さんの偉大さが後世に残るなら文句はないわ、と。
「よし、サシャがやる気になってくれたのは良いことだ。今ふと気がついたのだがな、今回の事態は胸騒ぎがしてならないのだ」
「……ん? どういうことシルヴィエ? 詳しく教えて」
ようやく落ち着きを取り戻したサシャが、シルヴィエの話題変更にここぞとばかりに食いついた。
「奈落の先兵が未踏破のラビリンスコアを狙ったというのは、実に由々しき事態ではないか? なぜ狙う、どうやって侵入した、という問題ももちろんあるのだが」
そこでシルヴィエは言葉を切り、一同の顔を見回して続きを重々しく告げた。
それは確かに重大な事態であり、場合によってはザヴジェルの存亡にすら発展する危険性があるもの。全員が一斉に顔色を失ったその指摘とは――
「この<神罰の迷宮>に侵入した先兵は、ちょうど我々で食い止めることができた。だが、他の未踏破ラビリンスはどうだ? <深淵に架かる道>は全ての未踏破ラビリンスにある。もしかしたら、先兵が侵入したのはここだけではないかもしれない」
――という、実に恐ろしい可能性だった。
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