19話 女ケンタウロスと少年神父、それぞれの想い

「らーらーら、ラービリンスは夢の場所、ラービリンスは夢の場所、ら、ら、ら!」


 霊峰チェカルの裾野、霧に包まれたその緩やかな登山道に、リズムだけは元気のいい即興の歌声が流れている。作詞作曲、および歌い手は全てサシャ。ユニオンで無事に登録を済ませた彼はオルガらの勧誘には一旦時間をもらうこととし、意気揚々と人生初のラビリンスへと向かっているのだ。


「……サシャ、歌うなとは言わないから、出来ればもう少し小さな声で頼む」


 弾むようなその足取りの三歩後ろには、疲れた顔のシルヴィエが遅れ気味に同伴している。二人が目指しているのはアベスカが棲息していると言われている初心者向けラビリンス、<密緑の迷宮>だ。


 <密緑の迷宮>は古都ファルタの西門から出てすぐ、霊峰チェカルに散在する古代迷宮群の中でも抜群の立地にあるラビリンスだ。内部に跋扈する魔獣もそこまで厄介なものはなく、サシャの戦闘能力があれば手頃だとシルヴィエも判断したのだったが――


「えええー、シルヴィエも一緒に歌おうよ。だってこの登山道を通る人って、その<密緑の迷宮>に行く人だけでしょ? みんなラビリンス仲間だって。それにほら見て、このユニオン章。仲間の証だから!」


 サシャの胸元で誇らしげに揺れているのは、ラビリンス入場証ともなる銀のプレートだ。


 ファルタ支部、そしてサシャ個人を示すシリアル番号が刻印されたそれは、彼のトレードマークとなりつつある大きな十字架と一緒に首から下げられている。かつて穴埋めの傭兵として騎士団に雇われていたサシャは、正規の騎士団員だけが持つ騎士章に実はかなり憧れていたのだ。


「……私は今、<密緑の迷宮>がさほど人気がないラビリンスである事をクラールに猛烈に感謝している。これからも誰にも会わないよう、切に、切に願っている」

「シルヴィエってさ、変なところで恥ずかしがり屋だよね。さっきもオルガとは喋ってたけど、バルトロメイさんとかラドヴァンさんとかとはあんまり積極的に話してなかったし」

「う……私はその、少しだけ人見知りするのだ。オルガはまあ、昔から世話になっているからな」


 シルヴィエは少しだけ視線を泳がせ、ややぎこちなく話題を変えた。


 ちなみにサシャがオルガだけ呼び捨てなのは、別れ間際につい「じゃあまた今度ね、オルガお婆ちゃん」と口走ってげんこつを喰らい、妙な呼び方をするぐらいだったらオルガと呼び捨てにしろと厳命されたからである。


「……それよりもサシャ、結局クランはどうするのだ? <幻灯狐>にしても<連撃の戦矛>にしても、どちらも本来はなかなか入れるところではないぞ。なんとなく即答を避けていたようも感じたが、何か心積もりでもあるのか?」

「ああ、それなんだけどねえ……」


 サシャが急に声のトーンを落とした。


 どちらも誘ってくれたのは大変嬉しかったし、それぞれ自分の何を求めてくれているかも充分に伝わってきて、そしてそれはどちらも喜んで手伝いたいと思う内容だった。


 けれども、サシャにはどちらにもすぐに飛びつけない迷いがある。


 もし戦場での回復要員として<連撃の戦矛>に入った場合、当然サシャはかなりの頻度で癒しをすることとなる。バルトロメイはサシャの体調やらも考慮して切り札として扱ってくれると言ってはいたが、サシャ自身目の前に苦しむ怪我人がいたらやっぱり癒してしまうと思うし、そうなるとやはり癒しの回数は結構なものとなることは間違いない。


 癒しが役に立つのならばそれはそれで良いのだが、回数が増えればサシャの体内の源泉もそれだけ減っていく。確実にどこかで補充しなければならなくなるが、クランと密に行動を共にしつつ、果たしてどこまで秘密裏に補充できるものか。


 下手をすれば、ヴァンパイアという魔獣サイドの存在としてサシャが討伐対象になってしまう可能性すらある。ここザヴジェルで吸血行為がどこまで強く忌避されているか分からない以上、最悪の場合を想定して動かざるを得ない。


 つまり、少なくとも安全に源泉の補充ができる場所なり方法なりを確立するまでは、できれば<連撃の戦矛>のような環境には身を置きたくない――それがバルトロメイに対し、即答を避けた理由である。


「む……やはり何か事情がありそうだな。まあ<連撃の戦矛>については分からなくもないか。以前やっていた傭兵、魔獣との戦いの毎日に嫌気が差して辞めたのだろう? バルトロメイところに行けばほぼ毎日がそうなるからな」

「ああ……それはまあ、いいっちゃいいんだけど」


 予想以上に自分のことを慮ってくれているシルヴィエの予想外の指摘を受け、サシャは小さな驚きと共につい言葉を濁した。


 確かにまあ、シルヴィエの言う要素もあるといえばあった。けれどもバルトロメイの話を聞く限り、あの人のところでなら魔獣と戦ってもいいかとは思えたのだ。


 かつての傭兵時代、何が嫌になったといえば、騎士団内部の権力争いの中でただの道具のように魔獣と戦わされ、その挙句にズメイ戦では本当に使い捨てにされたからである。


 が、天変地異が頻発しているこんな末世で。

 魔獣との戦いは人系種族の生き残りを賭けたものになりつつあり、それを否定するつもりはサシャにはない。バルトロメイのように共同体として真摯に魔獣と戦うならば、それはそれで良いかと思うのだ。


 先ほどはついうやむやに流してしまったが、サシャの癒しには治癒能力に加え、その余韻でしばらく身体能力が活性化するという特徴もある。これも上手く活用すれば、魔獣との戦いで大いに貢献できるかもしれない。そうなればサシャの癒しの活躍の場はもっと広がり、それはとても嬉しいことだ。


 ……源泉の補充に関する、人には言いづらい懸案事項さえ解決できるのであれば。


「――ふむ、その顔はやっぱりあまり乗り気ではないということだな。なら、オルガの<幻灯狐>はどうなのだ? 顧問と言っていたか、あんな待遇は破格だし、もし魔狂いから魔法使いを解放できるのであれば、それに貢献することは非常に価値あることだと思うのだが」

「うーん、そっちもそっちでねえ……」


 では癒しが主目的ではなく、狩りにすら同行しなくていいと言ってくれたオルガの<幻灯狐>ならば良いか、というとそうでもなかった。


 <幻灯狐>は魔法使いが集うクラン。

 魔法使い、それはサシャが最も苦手とする人種である。熟練の魔法使いであればあるほど、サシャからしてみれば”邪な空気”を身にまとっているように感じてしまうのだ。


 オルガは珍しく”綺麗な気配”の魔法使いであり、そういえばユニオンでオルガと共に戦っていた魔法使いもほとんどがそこまで”邪な空気”をまとってはいなかったのだが、それでもそんな魔法使いの集団の只中に自分から入っていくとなると、やはり二の足を踏んでしまう。


 あんまり”邪な空気”を持つ魔法使いに近く接しすぎると、怖気、悪寒、吐き気、だるさ、発熱……とサシャ自身の具合は加速度的に悪くなっていくのだ。それは故郷での傭兵時代に嫌というほどに検証された実体験。


 魔法使いが魔に飲まれる、という現象をどうにかしたいと考えるオルガには共感するし、自分だけが感じているらしき”邪な空気”への感覚が役に立つならば、それはそれで嬉しいことだ。けれども、だからといってその”邪な空気”を持つ大勢の中へ、週に何度かとはいえ丸一日入って行けというのは……。


「――むう、そちらも乗り気ではないという顔だな。まあこの先の身の振り方に関わることだし、すぐに決めなければならない事ではないといえばないのだが……。何か、私で力になれることであれば協力するし、相談にも乗るからな。遠慮なく言うのだぞ」

「あはは、ありがとシルヴィエ。やっぱり持つべきものは同志だね」

「……前から思っていたのだがその同志というのは何だ? 意味が分からない。けれどももしこの先ずっとクランに入らないということであれば、お前の癒しについてはよくよく考え――――!」




「また来たよ!」




 シルヴィエの話の途中で唐突に屈んだサシャが、目にも止まらぬ速さで右腕を振り抜いた。


 地面の小石を拾い、霧の中で接近してきた魔獣に投げつけたのだ。そして聞こえてくる軋むような魔獣の悲鳴と、何か重いものが地面に落ちた音。サシャが昨日街道で披露し続けていた、投石による魔獣の露払いは今日も絶好調である。


「……ふう、サシャのそれは相変わらず便利だな。お陰で今日はまだ一回も魔獣と戦っていない。ちなみに、この霧の中でどうやって人と魔獣を区別しているのだ?」

「うーんと、音と気配と、あとはこっちへの接近方法とかかな。今のは分かりやすいやつ。だって上の方……たぶん木の枝を、ぴょんぴょんと飛び渡って来てるような感じだったから」


 手振りを交えて解説をするサシャに、シルヴィエが霧の向こう側を透かし見るように眺め、降参とばかりに小さく首を振った。


「ふーむ、さすがにもう少し近づいてこないとそこまでは分からないな。……なあサシャ、ひとつ聞いていいか? 詮索するつもりはないのだが、これから初心者向けとはいえラビリンスに行くのだ。できればここで聞いておきたい」

「ん、何? そんなにかしこまって、聞きづらいこと?」


 サシャがあっけらかんとした笑顔でシルヴィエを見上げ、先を促した。


「……昨日、街道で護衛をしている時から気になっていたのだが。何というか、お前、本当はかなり強いのではないか? 私にはうっすらと分かるのだが、恐ろしいほどに実戦慣れもしているように思う。神父のそれは格好だけで元は傭兵だと言っていたが、それだけではないのではないか?」 


 気を遣って言いづらそうに問い掛けるシルヴィエだが、これはこれから魔獣ひしめくラビリンスに入るにあたって聞いておかなければならないこと。そして何より、シルヴィエ自身が是非聞いておきたいことだった。


 英雄の血筋として周囲から期待され、自らの性格としてもストイックなまでに武の道に打ち込んできたシルヴィエ。サシャの奇跡のような癒しは癒しとして、垣間見えた異様なまでの強さは強さで気になっていたのだ。


「その、答えにくかったら答えなくてもいいぞ? 実際これから行くのは<密緑の迷宮>だ。あの赤子を救出した時のお前の強さがあれば、まあまず苦戦などしないとは思うし」


 無理に全てを教えろとは言わないが、でも……。


 そう視線で訴えてくるシルヴィエに、サシャは「なんだ、そんなことなら」と笑みを返した。今のサシャにとって種族の絡みを除けば、シルヴィエに対して秘密にしたいことなどほとんどない。それに実戦慣れに関しては、はっきりとした答えもある。


「ええとね、シルヴィエの知ってるザヴジェルの傭兵と前にいたところの傭兵では、たぶん意味合いが全然違うと思うんだ。あっちの傭兵はほとんど毎日、消耗品のように魔獣の大群の中に突撃させられてたんだよね。それに生き残る第一線の人たちはみんなかなり鍛えられてたし、そんな中で十歳の時からやってたし」

「……なんと」


 さらりと告げられた壮絶な過去に、シルヴィエの口がぽかりと開いた。

 そんな子供の時から傭兵になって、しかも言葉のとおりであればかなりの修羅場を生き延びてきたようである。天真爛漫な純朴少年のように見えるサシャがそこまでの過去を秘めていたとは、さすがのシルヴィエも開いた口が塞がらなかった。




 ――だが。




 シルヴィエは再考する。


 あの街道での戦いの折。

 自分の強靭な四脚と違って不安定な二本足ながらも流れるように体を使い、時おりこちらがゾクリとするほどの威圧感を覗かせていたサシャ。


 シルヴィエはそこに技術や経験だけでは追いつけない、なにか根源的な格差のようなものを感じていた。それこそそこに、師と慕う貴人の影を重ねてしまうほどに。


 いくら苛酷な戦場で戦い続けていたとはいえ、はたして、わずか数年の経験だけで全てが説明できるものなのだろうか――


「ねえシルヴィエ。昨日ぺス商会の護衛で一緒だったボリスさんたちを見てても、さっきのバルトロメイさんの話を聞いても思ったんだけど……前にいたところの傭兵の扱い、やっぱり酷いよね? シルヴィエだから言うけど、オットーさんに販売をお願いしているズメイの魔鉱石。あれを手に入れたのだって単独で捨て駒のように殿しんがりにされてね、死にそうになりながら斃したんだから」


 そう語るサシャの紫水晶の瞳には、愚痴が半分と残りは――一瞬の決断と僅かな怯え、か?


 シルヴィエは瞠目する。

 ズメイを自分で討伐したというのはかなり衝撃的な内容だが、それよりも。


 これまであまり自分の過去を話してこなかったサシャが、かなり思い切って打ち明けてきたように感じたからだ。ズメイの魔鉱石にしても昨日は入手方法に関しては言葉を濁していたはず。


 サシャがズメイを討伐、それも話のとおり単独で屠ったほどの実力であれば、これから入るラビリンスでの戦い方はまた違ったものとなってくる。


 自分の好奇心はさておき、それをこのタイミングで打ち明けてくれるのはありがたいし、信頼の証のようでどこかくすぐったいが、内容が内容である。<連撃の戦矛>のバルトロメイ知ればまず間違いなく大騒ぎをするだろうし、それはこの迷宮都市に住む人間の大半が同じであるはずだ。


 けれども、サシャの紫水晶の瞳に浮かんだ一瞬の決断と、怯えのようなもの。おそらくはサシャなりに決断をし、勇気を出して自分だけに一歩を踏み出してくれたのではないか――シルヴィエはそう、直感したのだ。



 ……出来るだけ自然に、受け止めてやらなければ。



「う、うむ、それは何というか壮絶な体験をしてきたのだな……」


 シルヴィエはぎこちないながらも、出来るだけさり気ない言葉を捻りだす。


 彼女にとって、この弟のような少年はびっくり箱のようなものだ。底の見えない強さもそうだし、神の癒しもそう、次に何が飛び出してくるかさっぱり分からない。


 けれどもこれ以上は追々、その気になった時に少しずつ教えてもらえればいい――シルヴィエはそう結論づけた。何より、そんな弟分には負けてはいられない。内心でますますの己の鍛錬を誓うのであった。


「壮絶、だったのかねえ。だってそれが当たり前だと思ってたから――って、また来たよ!」


 一方のサシャはすっかり元の上機嫌に戻ってニコニコと肩をすくめ、そしてまた霧の中へ投石を始める。一拍の間を置き、再び聞こえてくる魔獣のくぐもった悲鳴。


「ふむ、相変わらず気配を見つけるのが早いな。私もこう見えてケンタウロスとアラクネの合いの子、それなり以上に五感は鋭いはずなのだが」

「え、シルヴィエって純血のケンタウロスじゃなかったの? ケンタウロスの英雄の娘さんなんでしょ? たしか十二番目とかなんとか」


 霧の中の魔獣を深追いすることもなく、何事もなかったかのように歩みを進めながら二人は会話を続けていく。それはここまでの微妙な空気を払拭したいというシルヴィエの思いと、サシャの打ち明け話を聞いた以上、自分の事についても話しておかねばという思いが重なった結果でもある。


「……ああ、確かにケンタウロスに混血はまずいない。けれど私の父は<青槍のフーゴ>。偉大なケンタウロスだが、少々ざっくばらんが過ぎるというか、良く言えば豪快すぎる性質でな」

「アラクネってあの、下半身が蜘蛛形で女だけしかいないって種族でしょ。見たことないけどかなり珍しいって聞くよ? ケンタウロスと混血なんて出来たんだ」


 するりと隣に並んで見上げながら会話を続けるサシャに、シルヴィエは小さく微笑んで頷いた。


「そうだな。父はこう言っていた――『アラクネったって上半身は同じ人型だし、脚の数がケンタウロスの倍あるだけだろ。四本も八本も似たようなもんだ。そこにきてお前の母さんは凄え美人で、さすがの俺もちょっとクラッときちまってなあ。がはは』」


 端正な美貌に紛れもない親愛の微笑みを乗せ、懐かしむように父親の口真似をするシルヴィエだが、そうして再現された発言の内容は滅茶苦茶である。だがサシャはそんな父親のことでも愛情を込めて話すシルヴィエを眩しそうに見上げ、満面の笑みで相槌を打っている。


「うわあ、なんかすごくいい人だね。その、種族に偏見を持たないって意味とかでも」

「ふふ、遠慮しないでいいぞ? 確かに種族や見た目は気にしない、そこも私が父を尊敬している美点のひとつではあるがな。母は私を産んだ後に泣く泣くアラクネの里に帰っていったそうだが、父は残された私を分け隔てなく可愛がってくれてな」


 シルヴィエの珍しいアッシュブロンドの髪も、滅多にお目にかかれないほどのその凛々しい美貌も、どうやら母親のアラクネの血が出たものらしい。どうりでケンタウロス離れしている訳である。


 けれどもそうして父親が庇ってくれなければ、純血ばかりのケンタウロスの中ではかなり生き辛かったのかもしれない。サシャからしてみれば、実に素晴らしい家族愛であった。




「――おいサシャ、なんで涙目になっている!? 今の話のどこにも泣く要素なんてないぞ!」




「だだだ、だって、ジルヴィエのおどうざん、本当に良いおどうざんなんだなあってぇ……」


 相変わらず家族というものに弱いサシャである。今回は娘に対する父親の愛情のみならず、その父親のことを誇らしげに話す娘、という構図にまず胸を撃ち抜かれていたようだ。


 本来そこまで涙もろくはないサシャではあるが、なんだかんだで面倒を見てくれるシルヴィエに対しては心の距離がぐんと近いらしい。もはや号泣である。


「ああもう、男なら泣くな! クラールよ、どうかもうしばらく人を来させないでくれ。まるで私が泣かせたみたいではないか。これならば歌を歌われていた方がまだまし――」

「ジルヴィエェ、今度そのおどうざんに会いに行こうよお。二人が一緒にいるとこ、見たい……」

「分かった分かった。機会があったらな。ただ、忙しくしている人だからな、会えるかは運次第だぞ? <青光>傭兵団のことは知っているか?」


 神父服の袖でぐいと涙を拭い、知らない、と首を横に振るサシャ。


「そうか、有名なのはザヴジェルでだけなのだな。ケンタウロスの精鋭のみで構成された、ヴァンパイア狩りといえばザヴジェルではそこ以外に名前が上がらぬほどの有名傭兵団でな、父はその団長を務めているのだ」

「……ヴァンパイア」


 サシャの涙がぴたりと止まった。

 それは自分がその混血だろうと予想している、これまで誰にも明かしたことのない種族の名前だ。幸いなことにその嫌われ者の種族は生国アスベカではかなり数を減らしており、今ここに至るまで直接的な問題となることはなかった。



 そう。今までは、だが。



 ヴァンパイア狩りで有名になっている傭兵団があるとなれば、それはアスベカ以上にヴァンパイアがいるということ。ならば当然ヴァンパイアというものが人々の意識により強く存在しているということで、今まで以上に言動に注意する必要があるということだった。


 けれどもシルヴィエは全身を強張らせたサシャの様子を知ってか知らずか、思いもよらない情報を更にぽろりと零してきた。


「まあヴァンパイア狩りと言っても、<青光>がやっていることは保護に近いのだけどな。これは秘密というほどのものではないのだが、なにせヴァンパイアは古来より人系種族の恐怖の対象だ。世間の印象が印象だし、あまり言いふらしたりはしないように頼む」

「……ヴァンパイア、保護してるの?」

「そうだ。ヴァンパイアの隠れ里の話は知っているか? ザヴジェルのヴァンパイアは人をけして襲わず、そうした隠れ里に隠れ棲んでいるのだ。それで、その隠れ里を提供しているのが先のカラミタ禍の英雄、天人族と呼ばれる貴種でな。カラミタ禍で肩を並べて戦った英雄同士、父とは深いつながりがあるのだ」


 サシャはかつてないほどに真剣な面持ちでシルヴィエの話に聞き入っている。


 ザヴジェルに来たら行ってみたいと密かに思っていた場所、それがヴァンパイアの隠れ里だ。そんな情報まで飛び出してきて、さらに、ここザヴジェルのヴァンパイアは人と敵対せずに、シルヴィエの父親のような協力者までいるという。


 もしかしたら自分もそこに行けば、いや、向こうから見つけてくれて仲間に入れてくれる可能性すら――と考えて、そこで頭を殴られたような衝撃を覚えた。



 がっくりと肩を落とし、自らの格好に視線を彷徨わせる。



 あからさまな神父服に、胸にはこれみよがしの神殿の十字架。ヴァンパイアが忌み嫌うというそれらを、混血のせいか拒絶反応が起きないのをいいことに、その血を隠すためにわざと身につけてきたのだ。


 流れの神父として人々に癒しを施すのにちょうど良かった、それも嘘ではないが、半分はヴァンパイアに対する世間の反応を気にしてのこと。けれどもそれは、はたして正しいことだったのだろうか。


 もしかしたら親戚とか、さらにもしかしたら憧れ続けた家族すら中には存在しているかもしれない種族、ヴァンパイア。今の格好は彼ら全てを遠ざけるものであり、自らのルーツに対して結構ひどいことをしているのかもしれない――


「……どうした、まだ元気は出ないか? まあそんな恰好をしているぐらいだ、ヴァンパイアの話は好かなかったか。すまなかったな」


 サシャの胸中を知る由もないシルヴィエが、律儀にサシャに謝ってくる。

 そんなことない、と無理に笑顔を作ったサシャを見て、彼女はためらいつつも話を続けることにしたようだ。


「まあここだけの話、一昨日あの親子を救いに私を追い抜いていったお前を見た時は、一瞬だけヴァンパイアを疑ったのだがな。神父の恰好をしたヴァンパイアなどいる訳もないというのに、人の身であれほどの身体能力、ぱっと頭に浮かんだのがそれだったのだ。つまらない笑い話だな」



 ……正解。



 くすくすと明るく笑いながら話し続けるシルヴィエに、サシャは心の中で静かにそう答えた。とても実際に口に出す勇気はない。


 けれどもシルヴィエはその時のことを思い出しているのか、遠い目で前方の霧を眺め、やがて軽く頭を振って微笑みを浮かべた。


「そういえばサシャ、ふふふ、お前は本当に不思議なところがあるよな。ヴァンパイアかと思う前は、私の憧れの人物に似ていると思ったこともあった。港町ファルトヴァーンを出てすぐの街道でのことだ。豹人族たちすら反応する前にブッシュラットの群れを瞬殺したろう? あの時の動きは私の心の師を彷彿とさせるものでな。すごい人物なのだぞ? 先ほどちょっと話に出たカラミタ禍の英雄の一人、大陸に一人しか残っていない天人族の、まさにその当人で――」


 黙り込んでしまったサシャの気持ちを盛り立てようとしているのか、シルヴィエは尚も明るい口調で話し続ける。



 ……ねえシルヴィエ、今ここで「実は僕、ヴァンパイアと人と何かの混血みたいなんだ」って言ったら、信じる?



 サシャはシルヴィエに心の中で問いかけてみた。



 ……ユニオンでみんなが褒めてくれた神の癒し、あれって実は飲んだ魔獣の血が源泉になってるなんてこと、言ったら信じてくれる? 気味悪がったり、怖がったりしない? その後も今みたいに、一緒に行動していろいろお喋りしてくれる?



 サシャの問いは口に出されることなく、当たり前のように答えも返ってこない。


 サシャは生まれて初めて、誰かに自分の種族のことを、癒しの源泉のことも含めて打ち明けたいと強く思っていた。優しくて頼りになるシルヴィエだからこそそう思うし、そして、そんなシルヴィエに隠し事をしたくないという気持ちもある。




「――――そういえば、こんな話よりも<密緑の迷宮>について説明しておかなければだったな。いいかサシャ、まずラビリンスには…………」




 それから目的地の<密緑の迷宮>に到着するまで、シルヴィエの講義は続いた。それはサシャの沈んだ心を振り払うにはちょうどいい話題で、徐々にいつもの明るいサシャに戻っていく。


 そして霧に覆われた登山道には結局、一人も他の者は現れず。サシャの想いは、その明るさの奥深くへと仕舞い込まれていった。


 そして、その背後には一人の亜人が必死に二人を追いかけている。彼が二人に追いつくのはもうすぐのこと。シルヴィエの懸念のうちのひとつが表面化するのは、あとわずかのことだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る