プロローグ
01話 流れの神父
「また日没が早くなった気がする」
アスベカ王国、王都近郊の農村地帯。荒野を吹き抜ける風に全身を晒しながら、一人の神父姿の若者が小さく溜息をついた。
彼の前に広がるのは、午後も半ばだというのに早くも西の空に沈みつつある夕陽と、日に日に短くなっていく日照時間に耕作すら放棄されてしまった、一面の荒れ果てた元小麦畑。そして――
「今日はまた、随分と早いなあ」
――長い長い夜の始まりを告げる、魔獣どもの遠吠えこだまする北の地平線だ。
特にここ数年はグレイウルフなどの狼系の魔獣が増え方が異常で、夜ともなれば腹を空かせた彼らがそこら中から押し寄せてくる。
主神である天空神クラールが眠りに就いて数千年。
新世代の神々の降臨は数あれど、世界は急速に終末へと向かっていた。
「お、この村の人はずいぶんと強そうだ」
ただ、そんな末世でも人々は逞しく生きていく。
日照時間はついに朝夕二時間ずつ短くなり、一日の三分の二は夜になってしまった。爆発的に増えた凶暴な魔獣が地表を席巻し、地震や火山の噴火などの天変地異も頻発している。大陸南方の地では、奈落と呼ばれる暗黒に国が丸々飲み込まれ、一夜にして消失した例もあるという。
風の噂にいわく、奈落とは突如として発生する巨大な底なし穴。
餓死寸前の難民いわく、そこから無限に湧き出てくる異形の化け物たち。
精根尽き果てた盲目の戦士いわく、剣も効かず魔法も効かず。
奴隷に堕ちた亡国の王族いわく、化け物たちが引き連れる漆黒の霧に飲まれたが最後、その土地は暗黒に喰われて消える――
だが、それがいったい何だというのか。
奈落は国を幾つか挟んだ遠くの話。作物はまるで実らずとも、畑には夜な夜な凶暴な魔獣の群れが徘徊しようとも、それならば。
「やや、神父さまでねえか」
「見てのとおり、これからちょっと狩りに出てきますだ。危ねえから村の中に入っていてくだせえ」
日没間際の残照を惜しむかのように、村から粗末な槍や弓を手にした亜人たちが一斉に駆け出してきた。
鹿人族、兎人族――彼らは戦いに向いた種族ではないが、それなりに組織立っている。一団となって目指しているのは、遠吠えが聞こえてきた方角だ。
そう。農民たちはこの地で生き抜く苦肉の策として、鍬を捨てて剣を取ったのだ。
まるで彼らの畑で小麦を収穫する代わりに、同じ彼らの畑で魔獣の肉を収穫するかのように。
彼らとて危険は承知の上である。
だが、村に迫る魔獣の脅威を減らせると同時に、狩った魔獣は立派な食料となり、貴重な現金となるのだ。背に腹は代えられず、窮鼠は猫を噛む。おあつらえ向きに、魔獣どもは狩っても狩っても毎晩のように押し寄せてくる。
かくして郊外の農村は必要に迫られて自警団を組織し、そこからその大半が集団で狩りを行う狩人の村へと変貌を遂げていたのだった。
「あの、神父さま」
と、そんな村人のうちの一人が、神父姿の若者の前で足を緩めた。
そして意を決したように話しかける。
魔獣の遠吠えが始まったというのにこんなところで一人ぽつねんと立っている不審な相手だが、何しろ神父だ。郊外の住人にとって、それはとても見逃せない好機だった。
「あの、神父さま、今日の狩りの新鮮なところをご馳走しますで、もし良かったら村の怪我人たちを癒してやってはくれねえですか?」
「こらアーモス、変なことを言うでねえ。神殿にお布施できる金なんか村のどこにもねえんだぞ。イザークはひと月もすりゃ動けるようになるし、ヤナは可哀想だが運がなかったんだ。イザークにはびっこが残るかもしれねえが――」
村人が魔獣と戦えば、当然怪我人は出る。
元々がそれまで農業をしていた素人の集団だ。農村に多い鹿人族や兎人族といえば、穏やかな性質で荒事に向かないというのが一般的なところ。凶暴な魔獣との戦いに向いた種族ではない。
金のある村では戦いに特化した種族の傭兵を自警団で雇うものだが、こんな郊外の辺鄙な村にそんな余裕があるはずもない。結果として自前の村人たちのみで戦い、どこも多くの怪我人を抱えながらもかろうじて村を維持している、そんな状況であった。
「でもよ、イザークにびっこが残ったらずっとこの人数で魔獣の相手をしてかにゃならんだぞ? ポーションはねえし、どうすりゃいいんだよ」
この世界で、怪我人への対処法は三つ。
自然に治るのを待つ、
ポーションは街に行けば買える――ブラディポーションという、どんな怪我でもたちどころに治ってしまう奇跡の霊薬もあるらしい――が、どれも恐ろしいほどに高価である。
余裕がある者はたいていが神殿に行き、ポーションよりは若干安いお布施を包んで神の力で癒してもらうのが一般的だ。
「どうすりゃいいって言われてもなあ……」
が、こんな郊外の村からどうやって街の神殿まで怪我人を連れていけというのか。
村の周りですら日が落ちれば魔獣の天国となるのである。村人が総出で護衛していけば怪我人を街に連れていけないこともないが、残された村を守る戦力のことを考えれば、とてもではないが簡単に実行できる手段ではなかった。
つまり郊外の農民にとって、怪我人はまじないにも似た民間療法を行いつつ、自然に治るのを待つしかない訳で――
「あ、怪我人? あんまりすごい癒しはできないけど、まとめて癒しちゃうよ」
――そんな事情を知っているのか、我に返った神父姿の若者が砕けた口調で村人たちに言葉を返してきた。
彼の名前はサシャ。くたびれた黒い立襟の神父服の胸元には大きな銀色の十字架が輝いており、首から下げられたそれを慣れた手つきでアピールするように村人たちに見せながら言葉を続ける。
「お布施とかはいらないけど、ご馳走してくれるっていうんならありがたいかな。ん、ここにも怪我してる人がいるね。とりあえず先に癒しちゃおうか」
この辺りでは非常に珍しい紫水晶の色の瞳で村人たちを見回し、サシャはにっこりと笑いかけた。
細身の体に、ざっくりと後ろで縛った癖のない黒髪。ざっくばらんな物言いといい、成人したばかりにも見えるその姿は、そこまでの霊験を持つ神官にはとても見えないものだ。
さっぱりとした顔立ちも見る人によっては「かわいい」と評する類のものである。が、このサシャという神父の装いをした若者は、どこか周囲の人間を従わせるような雰囲気を持っていた。左右の肩口から覗く、二本の剣の柄頭があるからだろうか。
「じゃあ怪我してる人、順番にこっちに来て」
そう言うが早いが、サシャは一番前にいた亜人の腕に軽く触れた。
同時にふわりと漏れる、神々しいまでに静謐な青の光。どよめく村人たちにサシャはニコリと微笑み、次々に彼らを青の光で包んでいく。
「なんだか気持ちがええぞ……」
「おい見ろアーモス、お前さんの顔の古傷までが消えてら! 凄え、本物の神の癒しだ!」
「おお、体の底から力が湧いてくんぞ!」
「神父さま、俺の膝もお願いしますだ。何年も前にやられたやつだけんど、今じゃ実は走ったりするたんびに痛みが――」
驚きに目を丸くし、次いで喜びに沸き立っていく村人たち。結局全員に癒しの光を施したサシャは、そんな彼らの姿を本当に嬉しそうに眺めている。
「あはは、なくなっちゃった指とかは戻せないけどね、怪我の範疇ならそれなりに癒えるから。そうやって喜んでもらえればこっちも嬉しいよ」
そう言って少し照れたように笑うサシャ。
彼は神殿で任命された正式な神父ではない。孤児の生まれでどうにか幼少期を生き抜き、つい最近までは傭兵として最前線で魔獣と戦う生活を送っていた、という経歴の持ち主。
が、この国において傭兵とは、はした金で使い捨てにできる便利な捨て駒集団のことである。そんな救いのない戦いの日々に嫌気が差し、物心ついた時からなぜか使えるささやかな癒しの技を利用して、流れの神父の真似事をしながら郊外を放浪している――それが今のサシャの生活だ。
彼がそうしている理由はいくつかあるが、その一番のものは。
主神が眠りに就き、世界が終末に向かって殺伐としている今のご時世。
特に都市部の人心の荒廃ぶりは目も当てられない状況だ。略奪や人さらいなど日常茶飯事、力こそが正義といわんばかりに強き者だけが生を謳歌している。
その反面、この地のような郊外の農村はまだそこまで荒れ果ててはいない。元々が荒事に向かない温厚な種族が農村を構成していることもあって、都市部では滅多に感じることの出来ない、人の素朴な温かさのようなものが未だ残っているのだ。
「おおお、膝が軽いっ! ほら見てくろ! ほら!」
「うはは、こっちは顔のここんとこさあった引き攣れが全然ねえ! これでカミさんも惚れ直してくれるってもんだら!」
「なーに言ってるだアーモス。お前んとこは今だって何をすんにも一緒の仲良し夫婦じゃねえか。これ以上村ん中で引っ付きはじめたらこっちがたまんねえっての」
「がはは、違えねえ!」
そんな郊外の村人たちが揃って無邪気に喜ぶ眼前のこの光景こそが、彼がこうして神父の真似事をしつつ旅をしている一番の理由だった。後は美味い食事にありつければ大満足。今夜はきっと暗い話は全部忘れ、この裏表のない村人たちと底抜けに楽しい夕食が食べれることだろう。
「あーそうそう、癒しを受けた人はこれからちょっとの間、普段よりよけいに体が動くからね。狩りに行くんでしょ、無茶しちゃダメだよ。村にいる人は出来る範囲で癒しておくから」
「……なんと、そりゃ本当ですかい」
「畏れ多くも、加護までつけてくれただか? なんとお礼を言えばいいのか。本当に、ほんとうにありがとうございます」
村長だろうか。ひと際立派な体格をした壮年の鹿人族が、村人たちを代表してしきりに頭を下げてくる。そして周りもそれに揃って一斉に感謝を伝えてくるものだから、小柄なサシャはあっという間に彼らの輪の中に飲み込まれてしまった。
と、そんな中で誰かが感心したようにぽつりと漏らした。
「こんなに凄え神父さまなんて、見たことも聞いたこともねえよ。祈りすらしねえで、まあ」
そうなのだ。
神父が旅をしていて、高額なお布施なしで癒しを行うことも驚きなのだが、神殿で行われる神の癒しには、必ずと言っていいほどに長々とした祈りの時間がつきまとう。
怪我が大きいほど、そして古いほどに大規模な儀式が必要となる――数少ない過去の経験に裏付けられた村人たちの常識では、神の癒しとはそういうもののはずだった。
だが。
それを目の前のこの若い神父は、治癒を司る神ゴザへの祈りの文言ひとつなく、次々に神の癒しを実現してみせた。
なんと素晴らしい癒し手か。きっとよほど神に愛された高位の大神官様に違いないぞ……村人たちの視線がやや挙動不審になりかけた、そんな時。
「あははは。やだなあ、そんなかしこまった目で見ないでよ。たいした者じゃないし、ていうか、そもそも本物の神父じゃないし」
そう笑ったサシャが、屈託のない笑顔のまま一同に説明を始めた。
「こんな恰好をして神父の真似事をしてるけどね、神殿の本物の神父じゃないから。そもそもが王都のスラムで育った孤児で、ちょっと前までは傭兵をしてたんだ。神殿とも全然無関係だから位階なんてないし、お布施とかもどうでもいいんだ。……瀕死の人とかまでは癒せないけど、でも、普通の怪我は治ったでしょ? 癒しの神様とか良く知らないけど、なぜか昔からできるんだよねえ」
呆気にとられた顔で、さっきの癒しが神殿に関係のない自己流だとは、とぽかんと口を開ける村人たち。
普通の怪我というのがどこまでの範囲を言っているのかは分からないが、実際にここにいる全員が古傷まで跡形もなく癒えているし、何よりも。
あの神々しい青の光に包まれた瞬間、全員が紛うことなき神の存在を感じていたのだ。
弱りはて、長い眠りについているという天空神クラールが、圧倒的な存在感を放ちつつ確かにそこに在った。いや、より正確に言えば、この若い神父にクラールそのものを感じていたのである。
「あは、なんか最近急に癒しも上達してきててねえ。なかなか悪くなかったでしょ?」
「そりゃ、悪くないどころか……」
村人たちは傷が癒えるだけでなく、身体の底から不思議な活力が湧いてきているのを今まさに実感している。
悪くないどころか、もはや奇跡としか思えないそれ。
こないだまでは一度癒しをするだけで一杯いっぱいだったんだけどねえ、そうあっけらかんと笑うサシャだったが、村人たちの中に、もはやその神性を疑う者など一人もいない。
本人曰く「神父の真似事」らしいのだが、むしろ、彼こそがこの末世にクラールが遣わしたありがたい存在――村人たちの中では、そうサシャのことを拝みはじめる者もいる。
先が見えない末世の生活に、神がささやかな救いの光を差し伸べてくれた。
村人たちがサシャを見る目には、そんな感激の涙が光っている者すらいる状況であった。
けれどもそんな素朴な村人たちにはお構いなく、サシャは気さくに話し続ける。結構おしゃべりな性質なのだ。
「なんかね、殺伐とした戦いばっかりの傭兵の生活に疲れちゃってね。なぜか知らないけど小さい頃から癒しの技は使えたから、思い切って傭兵を辞めて、今はこうして流れの神父の真似事をしながら旅をしてるんだ。……なんていうかさ、傷つけるより、癒す方が性に合ってるんだよねえ」
軽い口調で自らの来し方を話し、そこに混じった本音に少しばかり気恥しそうに「てへへ」と笑うサシャ。
「……そ、そうかい、そんな事もあるんかね。まあ、こっちはお陰様で助かっちまったけんど。何しろ神殿のえらい人たちは、こんなとこまではまんず来てくれねえからなあ」
村人たちもサシャの笑みに引き込まれるように笑顔を浮かべ始める。
純朴そうなサシャの雰囲気に今の説明はぴったり合っていたし、基本的に戦いに向いていない彼ら農村の亜人たちにとって、サシャの言い分は心の奥底で素直に共感できるものだった。
――彼らもまた、魔獣相手の狩りよりも本当は毎日を平穏に、自分の畑に愛情を注ぎながら静かに作物を育てていたかったのである。
それに何より、あそこまで身近に神と共に在る若者だ。それだけでも自然と親愛の気持ちは湧いてくる。村人たちは賑やかにサシャを取り囲み、口々にサシャに話しかけていく。
「ほへえ、神殿でお布施を積んで神父にならなくてんも、癒しは使えるんだなあ」
「あは、そうなんだよねえ。大怪我は治せないけど結構便利に使ってるよ」
「というかお前さん、傭兵やってたんか?」
「そうそう、元、だけどね。あの生活にはもう戻りたくないなあ」
「そうは言っても……お前さんが、そのちみっこい体で、傭兵を?」
周りを取り囲んで口々に問いかけてくる村人たちに、一人ずつ快活に言葉を返していくサシャ。
傭兵の話になると、「本当だってば。じゃあ見てみる?」とひと言断りを入れたうえで、背中に交差させて背負った二本の剣をすらりと抜き放った。それらは二本とも神父が持つには不似合いすぎる、使い込まれた業物だった。
「こう見えてもそれなりに強いんだよ? ほら、ここまで一人旅をできてるぐらいだし」
サシャが軽やかな身のこなしで双剣を振るうと、村人たちはまた新たな驚きに目を丸くした。
技巧派というよりはやや身体能力任せの剣捌きではあるものの、それでもここらの農村にいる鹿人族や兎人族には到底真似のできない、びりびりとした凄味すら感じられる実戦向けの剣だった。
この腕前ならば、凶暴な魔獣がわんさか襲いかかってくるこの地を一人で旅もできるのだろう――誰もがそう実感し、思わず見惚れてしまうほどに。
「あ、狩りに行くなら早くしないと暗くなっちゃうよ? こっちはひと足先に村に行って、怪我してる人に癒しをしておくから」
ふ、と剣舞を止めたサシャの指摘に、村人たちが慌てて辺りを見回した。
魔獣がぞろぞろと姿を現して、けれど夜になりきっていない今が狩り時なのだ。暗くなれば魔獣の数も増えるし、その分だけ危険も増えてこちらが狩られる側に変わってしまう。
「あいやあ、こりゃいかん!」
「急げみんな、神父さんのためにもたっぷり狩ってこねえと。今夜は宴会すんぞ!」
「そうだそれがええ、いっちょ頑張ってくっか」
「こんなに身体が軽いのは何年ぶりかだもんよ、任せとけって」
色めき立った村人たちが「じゃあ神父さん、また後でな」と口々に言い残し、徐々にその数を増している遠吠えに向かって三々五々駆け出していく。
神父じゃないんだけど……と苦笑いを零しつつもどこか満足気に、そんな村人たちの背中に大きく手を振るサシャであった。
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