第2話
御前演奏をきっかけにウォルフガングの評判がにわかに高まり、レオポルトは海峡を越えイギリスを含むヨーロッパの国々での興行を計画しようとしていた。
そんなある日、レオポルトはウォルフガングが聴いたことのない旋律を奏でているのに気付いた。
「ウォルフガング、その曲は?」
「姉さまが作ったんだよ。」
ウォルフガングの答えを聞いたレオポルトは、マリアを呼びつけた。
「マリア、さっきウォルフガングが弾いていた曲を聞いたかね?」
「ええ、私が思いつきで作ったものですわ。」
マリアの答えを聞いたレオポルトはマリアに向かってもう一度尋ねた。
「あれがもしウォルフガングが作ったものだったら、聴衆はさぞや驚くことだろうな?
きっとそうに違いない。お前ならどう思う、マリア?」
支配者然としたレオポルトの言葉の裏を正確に読み取ったマリアには抗う気力すらわくはずもなく、自分の足元に目を落とし、父親が望むままの答えを返したのだった。
「お父様のおっしゃる通りですわね、あれはウォルフガングの作品ですわ。きっと・・・」
この時から、マリアの音楽はマリアのものではなくなってしまったのである。
「マリアが作った曲を、ウォルフガングの作品として奏でさせる。」
レオポルトから見て、マリアの音楽的才能は目を瞠るものがあった。
しかしながら、聴衆が望むのはウォルフガングだ、マリアが弾くよりもウォルフガングが弾いたほうが聴衆がわくのだ、熱狂するといってもいい。
そもそもが、マリアにとって不運だったのは、女に生まれたことだった。
男に産まれてくるべきだったのだ。
彼女の圧倒的な才能は女であるがゆえに軽んじられ、搾取されるだけになってしまったのだ。
しかし不運なのは何も彼女だけではなかったのである。
ウォルフガングもまた同じように、不運だったのだ。
なぜなら、彼が敬愛する父親が熱望する才能はマリアのものであり、マリアの作る音楽なくしては、ウォルフガングの存在価値などないかのように感じられたのだから。
実際、ウォルフガングも今は神童ともてはやされてはいるが、あといくつか年を重ねれば、ただの演奏家になるやもしれなかった。
どれほど偉い人に認められようが、ウォルフガングが欲したのは父親からの評価であった。そしてそんな彼が自分をどのように肯定できようか。
余談ではあるが、結果、彼は死ぬまで自身のアイデンティティーの喪失に悩み続けることになるのだった。
マリア・テレジアの前での御前演奏を行った次の年の初夏、レオポルトは家族四人で暮らすザルツブルグを旅立つことを決意していた。
三年以上にも及ぶ長い演奏旅行の幕開けだった。
大陸だけでなく、海峡を越え、イギリスにも足を延ばしたのだ。
モーツァルトという神童の評判は既に海峡を越えていたのである。
海峡を越えたイギリスでも、貴族のサロンに呼ばれ、マリアとウォルフガングは、多くの演奏をした。
その神童を見てやろうと、貴族だけでなく音楽家までもがこぞって押し寄せたのだった。
そしてその中の一人ににクリスティアン・バッハがいたのである。
一家が、イギリスを訪れる数年前に、クリスティアン・バッハはイギリスへと居を移していた。
クリスティアンは、偉大なる父の死後、尊敬する音楽家であり、父親の友人でもあったヘンデルが、自由を求めてイギリスに渡ったことを知り、自身も自由を求め、イギリスに渡ったのであった。
決して音楽家として不遇であったわけではないが、偉大過ぎた父の音楽から逃れるように、自身の音楽を求めたのである。
そしてそのことは決して間違いではなかったのだ。
クリスティアンの音楽はイギリスで広く受け入れられ、人気作曲家となっていたのである。
偉大なる父のように歴史に愛された音楽家ではなかったかもしれないが、少なくとも彼の音楽はその時代の人々に愛されていたのだった。
友人から誘われ、噂の神童とやらを見てやろうなどという軽い気持ちでサロンに訪れたクリスティアンは、ウォルフガングが作ったとされる曲を聴いて心から驚いていた。
これほどのものをまだ10歳にもならない子供が作ったということに。
そしてもう一つクリスティアンが惹かれたものがあった。
ウォルフガングの姉のマリアである。
少年よりもほんの少しだけ背の高い少女。面差しは少年によく似ていたが、少年のそれよりもほの暗い色を瞳に乗せたただの少女。
演奏をせずにいる時は物静かなただの少女、だがひとたび演奏を始めれば、激情に身を震わせ、その瞬間だけはただの少女には見えなかった。
とはいえ、クリスティアンがマリアに心惹かれたのも一時のこと。
マリアたちがこの地を去り、クリスティアンが二度とマリアに会うことが無ければ、それで終わる程度のものでしかなかったはずだった。
だが実際は、このイギリスの地でレオポルトは体調を崩し、この演奏旅行で一番長くイギリスに留まることになったのである。
必然的に演奏会の数も多くなり、クリスティアンがサロンでの演奏会に誘われることもたびたびあったのである。
クリスティアンの中の時間が自然と積み重なり、心のどこか、クリスティアン自身ですらわからない場所にひっそりと、マリアの居場所は作られたのだ。
そんな頃、レオポルトの体調も戻り、ザルツブルグを出てから三年目の初冬に、ようやく一家は故郷に帰ることとなったのである。
この時、実質的な距離に二人の間をつなぐ細い運命の糸は断たれたかのようだった。
無論、マリアとクリスティアンの間にそういったものがあるとは、当人たちの知るところではなかったのだが。
フロイライン・モーツァルト @snp
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