第五十九話
軍警本部を飛び出した雪那は、玉造の事務所に帰る事もせず、1人逢坂の街を歩いていた。
日が暮れて間もない市中は、柔らかな明かりが零れ、人々の営みがキラキラと耀いている。
本来なら、家に入らねばならに時間。それが分かっているからこそのこの温もりに満ちた明かりが、雪那には愛おしく思えた。
莉桜と共に逢坂に着て五年。
この街の平和を護って来たのは、無駄ではないのだと、この明かりが気づかせてくれる。
実家にいた頃のは当たり前だったものも、莉桜と共に自立をして、自分達だけで生活をするようになって、知った事の方が多かった。
時が流れ、雨を拾って、猛と出逢って、まさか自分が誰かに恋をする事も思いもよらなかったあの頃。
莉桜との関係に一時期ヒビが入ったりもしたが、今ではそれもいい思い出だ。
そう思っていた。つい先刻までは。
(猛の気持ち…よくわからなくなったな…)
胸中で呟き、雪那は歩みを止めて溜息をついた。
無意識に抑えた胸が、ずきりと痛む。これが誰かを想っていた事への痛みだと知ったのは、いつだろう。
逢坂での生活は、これまで莉桜や家族しかいなかった雪那の世界に様々な風を呼び込み、縁を結ばせた。
それは、とてもいい事なのだろうが、猛が自分に近づいた理由を知ってしまった今、本当に正しかったのか分からなくなった。
(僕は…本気で好きなんだけどな…)
ずきずきと痛む胸の鼓動に、思わずシャツを強く掴む。
息苦しさから逃れたくて、珍しく走って来た自分に、雪那は苦笑した。
(うーん。これからどうしよう…)
蒸気の霧に包まれ始めた空を見上げ、雪那は内心当惑した。
正直、事務所に戻るのは気が引けた。かといって、「あさか」に行くのも足が進まなかった。先日の口喧嘩以来、莉桜とも連絡を取っていない。
美幸に頼めば恐らく一晩くらい部屋を用意してくれそうだが、莉桜と鉢合わせたら気まずい。
(莉桜…まだ怒ってるよね…)
とぼとぼと道頓堀の傍を歩きながら、雪那は親友の顔を脳裏に描いた。
莉桜と喧嘩をするのは、これが初めてではない。彼女が事務所を抜けた理由は、自分が彼女の相談もなしに猛を秋津川の執行人に引き入れた事だ。
二年前。
猛は軍警の隊員として、怪夷の現場検証や他の事務所との獲物争いの際に、良く会っていた。
最初はただの軍警と執行人の関係だったが、莉桜と二人だけで怪夷討伐に当たっていた時に、何かと助けてくれた。
莉桜は不満げだったし、あの頃は必死過ぎて軍警だろうが他の事務所だろうがが莉桜にはライバルであり、自分達の邪魔をするものとしか映っていなかったようだが、雪那自身は、手を貸してくれる猛の存在は有難かったのだ。
彼に惹かれたきっかけは何だったか。
きっと、些細な事だったのだが、気が付けば好きになっていた。
恋の定義など、いまいち分からなかったが、猛の方からのアタックもあったせいか、いつの間にか恋人になっていた。
だが、それすら猛の計算、いや、正確には土方の計算だったのだろうか。
そう考えると、自分のこの気持ちは何なのか。
道頓堀の土手に座り込み、雪那は膝を抱え込んだ。
今日は刹那も連れて来ていない。本当に独りなのだと、その時実感した。
川面に映る自身の顔は、どんよりと暗い。
これからどこに行こうか、思案していた時だった。
ゴゴゴゴゴゴ。
地面の下から、何かが蠢く音がする。
地震かと、腰を上げた瞬間、北の空に黒煙が巻き起こった。
「何…⁉」
大阪城の天守閣に当たる場所に取り付けられた煙突と瓦屋根が、黒煙と共に吹き飛ばされる。
逢坂の街を揺るがすその爆発は、建物を爆風で震わせ、飛び散った破片と火の粉が空から降り注いだ。
咄嗟に雪那は橋の下へ駆け込み、上空から降ってくる破片や火の粉から身を隠した。
(大阪城が爆発した…?)
一体何が起こったのか、その時はよく分からなかった。
それは、逢坂に住まう人々も同じだったようで、政府から言い渡されている外出禁止の時間にも関わらず、先程の爆発音と建物を揺るがした振動の正体を知ろうと、次々に屋外へと顔を覗かせた。
「なんだ、今のは」
「大阪城が爆発した?」
「おい、こっちに火の手が上がったぞっ」
時間が経つにつれ、事態が深刻化していく。
蒸気炉から降り注いだ火の粉が、木造の家屋に引火し、所かしこで火の手が上がる。
それは、黒煙を伴って次々に隣の建物へ燃え移って行った。
静寂に包まれていた筈の街が、赤々と燃え上がる。
それは、これまで見た事のない光景だった。
次々に人々が屋外へと出てくる。規律など今は関係ないとばかりに、逢坂の街は夜にも関わらず人で溢れだした。
「大阪城で一体何があったんだ…」
混乱する人々の動向を見つめながら、雪那は冷静に北の空を見上げる。
この街を護ってきた執行人としての使命感のようなものが、雪那の足を大阪城の方へと向かわせる。
川沿いを人々が向かう方とは逆に進みながら、雪那は更に最悪の事態に直面した。
「怪夷だ!」
燃え盛る街の暗がりから、ぬるりと怪夷達がその姿を露わにする。
現れた怪夷は、逃げ惑う人々を見つけるや否や、ぬるりと滑るように近づき、背後から飛び掛かった。
「ぎゃあー」
「た、助けてくれっ」
「いやああ」
どこからともなく沸いて出た怪夷が、1人、また一人と、人間を飲み込んでいく。
その光景は、先日の作戦で執行人に襲い掛かった怪夷より、意図も簡単に人を吸い殺していった。
(このままじゃ…)
次々に喰われていく人々を見ている事が出来づ、雪那は1人怪夷の前に立ちはだかった。
「滅っ」
呪符を取り出し、今まさに少女を飲み込もうとしていた怪夷を消し去る。
自身を中心に、限界まで雪那は結界を貼ると、怪夷から逃げ惑う人々に向かって声を張り上げた。
「結界の中に!早くっ」
周囲にいた人々に雪那は普段では出ないような大声で叫んだ。
彼女の呼びかけに応えるように、逃げ場を失っていた人々が結界の中へ逃れてくる。
「お姉ちゃんありがとう」
「もう大丈夫だよ」
助けたばかりの少女が足元に抱き着いてくる。その小さな頭を撫でて安心させた雪那は、結界に入って来た人々を見渡した。
「あんた、術師様か?」
荷物を抱えた初老の男が、雪那に問いかける。
執行人の存在は暗黙の了解だが、この逢坂に住むもの全員が知っている訳ではない。
「あ~うん、そんなとこ」
誤魔化す様に笑って、雪那は更に呪符を飛ばして結界を強化した。
(しばらくはこれでどうにかなるかな)
避難者達をこれからどうするか、雪那は冷静に考え始めた。
恐らく、騒ぎを聞きつけて軍警や執行人達も動き出すだろう。
刹那がいない今、大して戦えない雪那は、ここで結界を貼りながら救援を待つことしかできない。
(せめて、早く誰かが助けに着てくれればいいが…)
ちらっと、結界の外を見やれば、怪夷はその数を増している。
更に、火の手があちこちで上がり、ここもいつ火の海になるか分からない状況だった。
(それにしても…怪夷の増えるスピードが速い…)
地面から湧き出てくる怪夷の姿に、雪那は疑問を抱いた。確かに怪夷の出現は不確定だし、数もそれほど決まっていない。
けれど、普段の討伐時の数はせいぜい二十体いれば多い方だし、沸いて出るようなものでもない。
この間の作戦の時も、怪夷は湯水のごとく沸いて出たと聞いた。
(逢坂の街に何かが起こっている…これは、あの辻斬りと関係があるのか…)
バチンと、結界に近づいた怪夷が、弾かれた霧散する。
それを繰り返すように怪夷達は雪那が張った結界に自ら体当たりを始めた。
怪夷が激突する度に、結界が揺れ、火花が散る。
頭を抱えて避難した人々はその場に蹲った。
「怖いよ」
「大丈夫、大丈夫だよ」
しがみついた少女を宥めながら雪那は自身の中に有り余る霊力を結界に注ぎ込む。
今はまだいいが、いつまで持つか。
自身の限界を考えながら雪那は更に呪符を取り出した。
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