第六十話


 その光景は、まさしく十五年前の江戸の再来だった。

 黒煙に飲み込まれ、燃え上がる街。

 逃げ惑う人々と、それを捕食せんと蠢く怪夷の群れ。

「ああ、またこの光景が見られるとは」

 恍惚と頬を染め、仮面の男は黒煙に包まれた西の防衛都市の姿に笑みを浮かべた。

「ランもホマレもよくやってくれたようですね。ジュウロウザも無事に救い出せた。後は、私の出番といった所でしょうか」

 口元に手を添えてほほ笑み、メルクリウスは炎と怪夷に埋め尽くされていく逢坂の街を見下ろした。

 目的は一つ、ある人物を捜すために。

 仮面の奥に隠された瞳が、混乱に陥った人々の中から、ある一人の人物を探し出す。

 千里眼とでもいううべきその瞳が捉えたのは、怪夷から逃れてきた民衆を護り、結界を展開するポニーテールの乙女。

 その懸命な姿を捉えた途端、彼は乗っていたビルの屋上からとんと、固い床を蹴る。

 次の瞬間には、まるでそこに誰もいなかったかのように、仮面の男の姿は忽然と消えていた。



 火の手が上がり、怪夷が溢れだした市中を、猛は必死に駆け抜けていた。

 大阪城の爆発の後直ぐ、彼は齋藤に背中を押されて逢坂の街に飛び出した。

 全ては、愛しいひとを見つける為に。

 先程、事務所にいる雨に暁月を介して通信を取ったら、雪那は事務所には帰っていない事が分かった。

 次に彼女が向かいそうな所で莉桜が定宿にしている「あさか」が思い浮かんだが、先日莉桜と仲違いをしている為、向かうとは思えなかった。

 もし、何処かに向かおうとしていたならその検討はつかないが、この騒ぎだ、きっと雪那の好奇心を考えたら彼女ならまず大阪城に向かうと、猛は核心があった。

(だが、一体何処までいったんだ)

 道頓堀沿を駆け抜けながら猛は焦っていた。

 雪那は今日は刹那を連れていなかった。その事がどうしてか気がかりだ。

 それに、雪那は後方支援が専門であり、戦闘は殆どできない。

 五年前の執行人試験の時はそれなりに戦闘もこなしていた気がしたが、猛が彼女と接点を持つようになってから今日、彼女が戦っている姿をあまり見た事がない。

 唯一救いなのは、雪那が得意なのが結界を貼ったり、防御の術に強いという事だ。

 ランクDくらいの怪夷なら、多少数が多くても結界で防げるだろう。

 あまり長い時間は厳しいだろうが。

 そのささやかな希望だけを胸に、猛は大阪城への道を走り抜けた。




 バチっ、バチンツ。

 結界に怪夷が自身が消えるのも顧みず飛び込んでくる。

 その動きに雪那は眉を顰めた。まるで、この結界を壊そうとしているような動きだ。

(ランクDの怪夷がこんな行動をしてくるのはおかし)

 統率のとれた動きに雪那の脳裏を嫌な予感が過る。

 それは、あの時の作戦の折、結界に触れてきた仮面の男と視線が交わった時の焦燥感に似ていた。

 次々に体当たりをしては、結界に消されて黒い霧となっていく怪夷。

 その動きが、突然止み、それまで周囲を囲むように蠢いていた怪夷が波が引くように他の場所へと散って行った。

「怪夷が…」

 唐突にその場から去っていく怪夷の群れ。

 こんな事は始めただと困惑していると、散っていく怪夷の間から一人の男が現れた。

 鼻から目元までを覆う豪奢な装飾の施された仮面。子供の頃、外交官だった父に見せてもらった欧羅巴にある長靴の形をした国の、港町で行われる祭りで使われる仮面によく似たそれ。

 自身の正体を隠し、一夜の舞踏会に興じる貴族が身に着けた仮面の向こうから、こちらを見つめる視線はまるで蛇のような粘着質と不気味さが宿っていた。

 雪那と視線が合ったとたん、仮面の男はパチンと指を鳴らす。

 直後、雪那が貼っていた結界が、ガラスを割った時のように粉々に砕け散った。

「怪夷がいないうちに逃げて」

 足元にしがみついていた少女や、結界の中に逃げ込んでいた人々を雪那は咄嗟に促す。

「お姉ちゃんは」

「いいから、早く!」

 不安げに自分を見上げてくる少女を他の大人に預け、雪那は仮面の男と真っ向から向き合った。

「おやおや、優しいのですね」

 ふふっと、笑いながら仮面の男は雪那が逃がした人々を遠目に追う。

「貴方は何者?この間の作戦邪魔してくれたの忘れてないから」

「ほほう、記憶に留めていてくれたとは恐悦至極。ようやく貴方に直接会う事が出来ました」

 胸元に手を添え、頬を朱に染めて仮面の男は雪那に笑いかける。

「僕は貴方の事知らないんだけど…この間の襲撃といい、この騒ぎも貴方達が仕組んだの?」

 毅然と雪那は浮かんだ疑問を男へとぶつける。

 土方や永倉達が話していた『メルクリウス』なのではという予想が、雪那にはあった。

(なんだろう…僕はこの人を知っている…昔、何処かで出逢ったような…)

 朧げな幼い頃の記憶を、雪那はふいに思い出す。

 それは、物心つく前の事。そう、丁度大災厄が起こる前の。

「はっ」

 突然意識が他の方向に飛んでいた事に、雪那は驚いた。

(今のは…)

 忘れてた記憶の蓋が、少しだけ開いた瞬間、背筋を悪寒が走り抜けた。

「やはり、忘れてしまいましたか…まあ、あの時の事は中々強引でしたし、覚えていないのも無理はないでしょうね」

 寂しげな声音で紡がれる言葉に雪那は違和感を覚えた。

 まるで、相手は自分の事を知っているようではないか。

 警戒を強めながら雪那は仮面の男を見据える。ふいに、男の姿が視界から消える。

「ッ⁉」

 気付いた時、その怪しげな仮面は己の顔の傍へと迫っていた。

「なっ」

 咄嗟に距離を取ろうと身体を動かすが、己の意思に反して身体が動かない。

(なんで…)

「ふふ、驚く事はありませんよ」

 耳元で囁く仮面の向こう側に、怪しく光る眼光が見える。そのすべてを見透かす視線にいつしか雪那は捉われていた。

 意識が遠のき、ここではないどこかの情景が浮かびあがる。

(嗚呼…なんだろ…これ…)

 急激な睡魔に襲われる感覚と共に、瞼裏に広がったのは、過去の映像。


 巨大な円柱型の蒸気炉。

 黒い衣に身を包んだ数人の人々。

 突然親元から引き離され、泣き叫ぶのは幼い頃の自分。


(嫌だ…そんなの…思い出したくない…!)


 緑色に光る水を湛えた水槽へ、幼い身体が放り投げられる。

 水面に身体が着水する瞬間、一匹の猫が自身に飛びついたのを見た気がした。

 ドボンと、身体が水中に沈み、膨大な霊力の波が全身を絡め散っていく。

 やがてそれは、雪那の全てを作り替えるように、全身から魂に至るまで染み渡った。


「ああああああああ!」


 身体を抱くように腕を掴み、雪那は絶叫した。

 その叫びを最後に、ぷつりと雪那の意識が途切れ、その身体は重力に従って傾いた。

「おっと」

 倒れかけた雪那の身体を抱き留め、仮面の男はその腕に抱き上げる。

「やはり、少し刺激が強すぎたようですね」

 腕の中で気を失っている乙女を見下ろし、仮面の男は肩を竦めた。

 シュンと、背後から迫った刃を、男はひらりと躱す。

「その人を放せ!」

「おやおや、さしずめ、悪代官から姫を助けに来た正義の味方というところですか?」

 暁月を構え、猛は雪那を抱えた仮面の男へと向かっていく。

「お前がメルクリウスだな」

「ええ、貴方はこの間土方殿達と共にいた方ですね」

「雪那さんを放せ、彼女をどうするつもりだ!」

 打刀を構え、猛は吠えるようにメルクリウスを問いただす。

「それが知りたければ、まずは真実を知る事です。そうそう、あのお嬢さんにも伝えて下さいね。私は逃げも隠れもしませんと」

 ふふと、不敵に笑い、メルクリウスはひらりと宙へ舞い上がると、まるで風に紛れるようにして姿を眩ませた。

「待てっ!くそ…っ」

 目の前から忽然と消えた雪那とメルクリウス。

 雪那を護れなかった事に猛は短く舌打ちした。


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