追想編

第五章ー決意と旅立ちと

第二十話




 少し昔の話。逢坂の街が現在の形に近い様式に収まった頃。

 世界規模で起こった大災厄。江戸から亡霊のように溢れた怪夷との戦いがひと段落し始めた五年前。

 彼女達の戦いはそこから幕を開けた。



「はあ、はあ...」

 深い山の中を、どれだけ歩き続けたのか見当がつかない程に、莉桜は無我夢中で歩き続けていた。

 その腕に一振りの太刀を抱きしめて。

 立ち止まってしまってはきっともう動けない。そんな恐怖に突き動かされながら莉桜は昼夜問わず歩き続けていた。


 纏っていた紅色の着物は泥と草木の汁に濡れて臙脂色に変わり、裾はボロボロに破れていた。


 歩き続けた足には既にマメが出来て潰れ、血が滲んでいた。

 気が付いて初めて、痛みを感じた。それ程、自分は必死に歩いていたらしい。


 かつて、幽世として神々が住まう場所として崇められていた出雲の土地を出たのは生まれて初めてだった。

 託された地図を頼りに、莉桜はある都市にいる人物の元を目指していた。


 不意に、鼻先に潮の香りを感じ取り、莉桜は思わず足を止める。

(あ...)

 それは長い長い絶望の淵に差し込んだ一筋の光のように莉桜の折れかけた心を奮い立たせた。

 既に走る気力などなかったが、莉桜は転がるようにその匂いのする方へ駆けだした。


 林を抜けた先。茂みの向こうに広がっていたのは、キラキラと輝く青い海。

 その先には蒸気船が行き交う港街が広がっていた。

「...着いた...」

 波の打ち付ける海面を見つめる莉桜の目元にうっすらと水滴が浮かんだ。




 逢坂と並び、防衛都市の一つとして機能する神戸は、古くから外国との貿易や交流を目的とした大使館を構え、異国情緒溢れる独特の雰囲気を醸し出す外交都市だった。


 逢坂と違い、神戸は外国からの蒸気船を直接受け入れる港を備え、政治的な交渉や会談などはこの街で行われるのが習わしになっていた。


 その街の一角。海を望む丘の上に雪那の実家はあった。

 白い漆喰の壁に中央にドーム状の青い屋根を備えた洋館は、雪那の家の権力を誇示している。


 煉瓦の壁に囲まれた敷地内に備えた中庭で愛猫の刹那と日向ぼっこをしていた雪那は、それまで膝の上で香箱座りをしていた刹那がピンと耳を立てて顔を上げたのに首を傾げた。


「どうしたの?」

 間延びした声で雪那は刹那に話しかけると、その紫水晶の瞳が見つめる方に視線を向けた。


『血の臭いがする』

「え?」


 突然不穏な事を言った刹那の言葉を肯定するように、中庭から繋がる屋敷の門の方でゆらりと影が揺れた。

 腰かけていたベンチから立ち上がり、雪那は警戒しながら門の方へと近付いた。


(まさか...怪夷じゃないよね...)


 こんな晴れた日の昼間にでる筈はないが、最近は新種や亜種の発見の話も聞く。太陽の下を闊歩する個体が出る可能性は十分にあり得た。

 息を殺し、足音を潜めて雪那は門へ通じる石畳の道に出て、目を見張った。


「莉桜?」

「...雪那...良かった...あってた...」


 門から現れたのは、血だらけ泥だらけでボロボロになった幼馴染。

 ゆらりと、雪那に会えた事で張りつめていた気がぷつりと切れた。きっと、執行人として死線を越えて来た後の莉桜だったら気絶などしなかっただろう。だが、十五歳の少女には目的地に辿り着いた安堵だけで気を抜くには十分な状態だった。


 傾いた莉桜の身体を雪那は咄嗟に抱き留めた。

「え?、何?どうしたの?」


 実に一年ぶりに再会した幼馴染の現状が理解できず雪那は困惑する。

 だが、既に泥のように意識の眠り込んだ莉桜から答えは返ってこない。

 気を失っても莉桜の腕には託された太刀がしっかりと握られていた。




 目を覚ましたのは神戸に辿り着いた翌日の夕暮れだった。

 瞼を持ち上げ最初に視界に入ったのは、見慣れない天井。

 身体を動かそうとするが、筋肉痛や疲労感で指一本動かすのもままならなかった。


 張り替えたばかりの真新しいイグサの香りが心地いい和室とふかふかの布団が、疲れ切った莉桜の意識を再び眠りに誘う。

 うとうととしていると、不意に障子戸が開いて誰かが入ってきた。


「あ、目覚めた?」

 入室してきたのは水差しや手拭いを載せたお盆を持った雪那だった。

「大丈夫?なんか飲む?」

 お盆を莉桜の枕元に置き、畳の上に座って雪那は莉桜の顔を覗き込む。

「水欲しい...」

 小さく頷いて莉桜は雪那の顔を見上げる。

 水差しから湯飲みに水を注ぎ、片手で莉桜の身体を支えて起こし、雪那はその口に湯飲みの縁を近づけた。


 自らも首を伸ばし、唇を湯飲みに付けて流れ込んでくる水を吸い込んだ。

 水が喉を通る瞬間、それまで感じていなかった渇きが急に蘇り、莉桜は貪るように水を飲み干した。


 それから、三杯ほど水を飲み干して莉桜は再び布団に身体を横たえた。

「はあ...」

「後で何か食べる物持って来るから。食欲は?」

 問われて莉桜は僅かに顔を逸らしながら頷く。

「...ある」


 里を出てから何も食べていなかった。興奮していた分感じていなかったのだろうが、こうして目的地に辿り着き、一度意識を失って目を覚ました事で、生存本能が働いたらしい。

 莉桜は自分でも驚くほど空腹を感じていた。


「起きられるなら、一緒に食べよう。父さん達が帰ってきたらまた呼ぶから、それまではゆっくりしてなよ」

「雪那...あのさ」

「ん?」

「...聞かないんだね、理由...」

 ぽつりと、絞り出すように切り出した莉桜の問いかけに雪那はなんでもないように笑みを零す。


「後で父さんに話すんでしょ?なら、そん時でいいよ。何かとんでもない事があったのは分かったからさ」

 雪那の口から紡がれた言葉に

 莉桜は大きく目を見開いた後、くしゃりと顔を歪め、目深に掛布団を被った。


「必要な物があったら枕元の呼び鈴鳴らして」

 ポンと、莉桜の肩を叩き雪那はそれ以上は何も言わずに部屋を出て行く。

 障子戸が静かに閉じる。その音を聞きながら莉桜は布団の中で肩を震わせた、声を押し殺して嗚咽を零した。



 日が暮れて夜の帳が港町を覆い隠した頃、明かりが灯った秋津川邸の食堂では、仕事から帰宅した雪那の父が、莉桜と向かい合い、彼女が差し出した書状に目を通していた。


 雪那の実家は外国との調整や交渉などを行う外交官で、政府から伯爵の爵位を賜る家柄だった。


 いつもなら夜中に帰って来るのも珍しくない人物だったが、莉桜が目を覚ましたという報せを受け、早々に帰宅した。


 雪那の父親と莉桜の父親は古くから交流がある親しい間柄だった。

 血と泥で薄汚れたその紙面には、達筆な文字で切実な内容が記されていた。

 一息に書状を読み終え、雪那の父・秋津川晴司は静かに息を吐きだした。


「...お父君からの書状、確かに受け取った...よくぞここまで生きて辿り着いたものだ」

 俯き静かに秋津川が書状を読み終わるのを待っていた莉桜は、小さく首を縦に振る。

「貴殿の身元は私が保証する。お父君との約束だからな」

「ありがとうございます」

「辛いだろうが、気が済むまでここに居ればいい。あの部屋はそのまま自由に使いなさい」

「お気遣いに感謝します。秋津川伯爵」

 俯いたまま、莉桜は深く頭を垂れる。テーブルで隠れた膝の上でぎゅっと拳を握り、唇を引き結んでいた。


「後の事は雪那に任せよう。あの子になら色々話せるだろうしな。さて、食事にしよう。しっかり食べなさい」

 微かに震える声で莉桜は返事をする。


 秋津川は奥に控えていた女中に声を掛けると、食事の準備と雪那達を呼ぶように指示をする。


 その様子を莉桜はぼんやりと見つめる。

 自分の家は山奥でそこまで裕福では無かったが、温かく、この屋敷のように穏やかな時間が流れていた。


 それが数日前、突然終わりを迎えた。

 里を襲ったのは誰か分からない。


 騒動が起こった時、莉桜は鍛冶師である父親の工房で手伝いをしていた。

 里の長でもあった父親が里の者から報せを受けるや否や、莉桜は工房の裏に設けられていた隠し部屋に押し込まれ、静かになるまで出て来るなと言われた。


 父の言いつけを護り隠れていた莉桜は、元々見張り部屋の役割も担っていたらしい隠れ部屋から、里の惨状を目の当たりにし、出行きたい気持ちに駆られた。


 だが、何故父が自分をここに一人だけ隠したのか、その理由を知るために気持ちを抑え込み、騒ぎが収まるまで息を潜めていた。


 炎に包まれる里の中、莉桜が見た人影は怪夷を従えていた。

(奴等は一体何者なんだろう...)


 雪那の屋敷に辿り着き、気持ちが少し落ち着いたからか、冷静にあの時見た光景を考えられるようになった。


 今まで怪夷を直接見たことは無かったが、直感で里の人達に襲い掛かっていた黒い影が怪夷だというのは理解できた。

 だが、怪夷がヒトに従うなどという話は聞いたことがない。

(怪夷を従えた人間...?)

 瞼の裏に張り付いた光景の中に陽炎のように揺らめく謎の人影の事を莉桜は整っていく食卓を見つめながらぼんやりと考え込んだ。

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