第十五話

 

 朝食を済ませた雪那は猛に雑貨店の店番を任せ、雨を連れて出かけた。

 乗合馬車に乗り、賑わう逢坂の街を玉造から少し南下して、四天王寺という地区へやって来る。そこは多くの寺社が建ち、道頓堀や心斎橋などの繁華街とは違った空気を纏っていた。

 寺社の集まる場所の一角にある『緒方おがた診療所』と看板の掲げられた平屋の建物に雪那と雨は入った。

「おはようございます」

 玄関を入ると右手に小さな窓を設けた受付があり、そこに雪那は声をかけた。

「おはようございます。東雲さんの定期健診ですね」

 窓の奥から現れたのは、白い狩衣ような着物を着た女性だった。

 診察券と身分証を雨はその女性に手渡す。

「お掛けになってお待ちください」

「お願いします」

 少し緊張を孕んだ声でそう言って雨は足早に土間から上がり、そこに並んだ長椅子に腰を下ろした。

「大丈夫だよ」

 雨の隣に腰を下ろし、雪那は雨の肩を優しく叩く。成長期ではあるがいまだ幼い小さな肩は微かに震えていた。

 雪那達が診療所に入って暫くすると、同じように診察を受けに来た人々が、次々に受付を済ませて行く。

 患者達を横目に眺めていると、診療所の二階、この診療所を運営している者達の居住スペースから、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

「なんで起こさなかったんだ君は」

「起こしましたよ、先生が起きないのが悪いんじゃないですか」

 バタバタと足音と共に聞こえて来たのは不機嫌そうな女と不満げな男の声だった。

「ほら、患者さんもう来てるじゃないか」

「じゃあ僕一人で診察していいんですね」

「研修医にやらせられる訳ないでしょ、十年早いつーの」

 階段を降りてきたのはどちらも白衣を身に着けた医者だった。ただし、ボサボサの赤毛を無造作に束ねた長身の女はこの診療所の経営者だが、黒髪を短く切り揃えた眼鏡をかけた男は彼女に師事する研修医だ。

「皆早いねえ、直ぐ始めるからちょっと待ってて」

 階段を降りきるなり、ひらひらと待合室の長椅子に座っている患者達に手を振り、女ー緒方海里おがたかいりは弟子の華岡清純はなおかせいじゅんに促されるまま診察室に入った。

「相変わらず賑やかな先生達だね...」

 診察室から漏れ聞こえてくる二人のやり取りを聞きながら、雪那は目を細めて苦笑した。

 

「東雲雨様、診察室にどうぞ」

 先生達が診察室に入って十分が経った頃、ようやく雨の名前が呼ばれた。

「雨、行こう」

 雪那に促され雨は重い足取りで診察室に入った。

「おはようございます、先生」

「おはよう、なんだ、やけにビビった顔してるね。心配しなくても注射くらいしか痛い事はしないよ」

 診察室の椅子に腰かけた緒方は雨が入って来るなり肩を竦めた。

「先生、患者さんにそれはないでしょう...」

 呆れた様子で溜息を吐いた華岡は、緒方とは正反対の穏やかな促しで雨と雪那に席に座るよう促した。

「緊張しているのは仕方ないですから、不安を煽ってすみません」

「華岡助手、血液検査用の器具を早く用意して」

「自分で用意してくださいよ。僕は雑用じゃありません」

 文句を言いながらも華岡は指示通りに注射器と薬品の入った試験管を戸棚から取り出す。

「今日は色々身体の検査もしてみよう。外観だけじゃ浸食の度合いは分からないからね。秋津川さん、少し時間かかるけどいいかな?」

「僕は構いません。雨の黒結病の状態は詳しく分かっていた方が助かるので」

「雨君もいいかな?」

「先生にお任せします」

 柔らかな表情で顔を覗き込まれ雨は緒方の申し出に頷いた。

「華岡君、今日は君に検査の一切を任せる。しっかり実践で学んでこい」

「分かりました。では、ここからは僕が引き継ぎます」

 緒方から仕事を任されて華岡は強く頷く。

「そうだな...ざっと二時間くらいはかかるかな。その間、待合室で待ってる?」

 診察室の壁に掛った時計を見やり、緒方は時間を逆算して雪那に検査が終わる時刻を伝える。

 緒方の問いかけに雪那は首を横に振った。

「いや、今日は少し寄る所があるので、少し出てきます、雨、一人で平気だよね」

「大丈夫。雪那さん行ってらっしゃい」

 雪那が寄りたい所が何所なのかを事前に聞いている雨は静かに送り出すように手を振った。

「先生、それじゃお願いします」

「ああ、また後でな」

 雨を診察室に残し、雪那は診療所を後にする。

 寺社仏閣の立ち並ぶ門前町を歩きながら雪那は雨が抱える病の事を考えていた。


 十五年前の大災厄の時、怪夷との攻防がようやく人間優勢になった頃、怪夷討伐軍を形成していた術師達の間で、奇妙な病が流行った。

 始めは、腕や足などの一部に黒い斑点が出来る態度だったが、次第にそれは術師達の身体を蝕み、まるで石にでもなったかのように動かなくなっていった。やがて、全身が黒く染まり、最期には呼吸困難が原因で術師達は息絶えた。

 最初こそ原因は分からなかったが、術師達は斑点が出る前、怪夷との戦闘で怪夷に噛まれたと証言していた。更に、その病は術師が術を使用するごとに進行する事が明らかになって行った。

 大災厄の後その病は『黒結病』と名づけられ、術師達の間で恐れられるようになっていった。

 その黒結病の第一人者が先程の緒方海里であり、彼女が戦時中前線で討伐軍の治療に当たり、黒結病を発見した元軍医だった。


 雨が何故黒結病を発症したのか経緯は分からないが、亡くなった両親が術師として従軍していたため、何らかの形で患ったのだろうというのが雪那と莉桜の見解だった。

 雨の右胸にも黒い斑点が幾つもある。今は進行を薬で抑え、術を使うのも関節的な方法を取っているため、浸食は緩やかだったがいつ身体が動かなくなるか分からない。

 そんな不安を抱えて生きる雨だからこそ、雪那も莉桜も彼を気にかけていた。

 定期健診を欠かさないのもそのためだった。

(今回の結果も何もないといいけどね...)

 内心で呟きながら、雪那は一路逢坂の中心地を目指して乗合馬車に乗り込んだ。


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