第四章 東雲雨と魚住猛
第十四話
逢坂の朝はいつも早い。
朝陽が昇ると同時に、街を覆っていた霧が晴れ、少しぼやけた青空が頭上に広がる。
政府が決めたある規則の為に夜の帳が降りると共に人々は店を閉じ、外出を控える。それに反比例するかのように、逢坂の街は夜明けと共に活気づくのである。
江戸の頃、『天下の台所』と称された名残からか、今でも逢坂の至る所で朝市が開かれ、人々の往来は朝の方が賑わっている。
大通りから聞こえてくる賑わいに促されるようにして、悠生は夢の中に沈んでいた意識を浮上させた。
「...ふあ...」
布団から身体を起こし、欠伸をする。
主の起床の気配に気づいて、部屋の隅の止まり木で羽を休めていた朔月が喉を鳴らした。
「おはよう...」
宿に備え付けてあった浴衣の乱れた胸元を繕いながら、悠生は格子窓の外に目を向ける。
「この街の朝は早いんだな」
外から聞こえてくる活気に満ちた声と、何処からか漂ってくる米の炊ける匂いに悠生は思わず微笑んだ。
「ユウさん、おはようございます」
顔を洗いに一階にある水場に降りると、丁度起きてきた莉桜と鉢合わせになった。
「おはよう、莉桜さん。早いね」
「逢坂の街はこれが普通やからね。みんな、鶏みたいに朝陽と共に起きて、陽が沈むと共に休むのが基本だから」
桶に水を溜めながら莉桜はそう言って長いぬばたまの髪を櫛で梳く。
「それは、この街の変わった規則が要因?」
莉桜の横に並び、同じく桶に水を張りながら悠生は問いかけた。
「そんな所。でも、もともと商人の街だから朝は早いよ。今の時間なら朝市やってるし、朝食の前に行ってみる?」
器用に髪を二房に分けて髪留めで纏めて莉桜は悠生に提案をする。
それに悠生は首を縦に振って答えた。
「案内してもらえますか?案内人さん」
「任しとき」
満面の笑みで応じると、莉桜は桶に溜まった水に手を入れて顔を洗った。
「ひゃあ、冷やっこい」
井戸から汲み上げた水の冷たさに莉桜は声を上げる。
そんな彼女の様子を眺めたから、悠生も顔を洗った。
「それじゃ、支度終わったら食堂で」
剃刀で髭を剃る悠生にそう告げて莉桜は先に部屋に戻って行く。
それを横目に見送って悠生も支度を早々に始めた。
莉桜が美幸の旅籠屋で朝を迎えている頃。秋津川事務所にも朝は訪れていた。
今日は久しぶりに怪夷討伐の仕事もなかった為、珍しく早く寝た雪那は、それに合わせるように早く起床した。
部屋の三分の一を占めるベッド。自身の隣には、夜回りからいつの間にか帰ってきていた猛が寝息を立てていた。
「お帰り、猛。ご苦労様...」
恋人を起こさないように小声でそう言った雪那はもそもそとベッドを降りた。
部屋の隅にあるクローゼットから着替えを引っ張り出して着替えていると、足元に刹那が擦り寄ってきた。
「あれ、やけに早いね。いつもはもう少し寝てるのに」
『そう言う雪那も早いじゃないか。ボクはこれから朝の散歩に行こうかと思っただけだよ』
大きな欠伸を一つして、刹那は長い尻尾をゆらゆらと揺らす。
「気を付けてね」
出かけるという刹那の頭を雪那は優しく撫でた。
雪那の手から離れた刹那は、窓の縁に身軽に飛び乗ると、三階の屋根伝いに散歩へと出かけて行った。
刹那を見送るように窓辺にやってきた雪那は、既に人々の賑わいに満ちた逢坂の街を見下ろす。
今日も一日が始まった事を告げる朝の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「さて、今日も頑張るか」
決意のような言葉を独り言ち、雪那は二階へと降りて行く。
秋津川の事務所の社長室にある執務机に歩み寄り、鍵の掛った引き出しを開ける。
中には昨日、斎藤から渡された一枚の伝票が入っている。
「今日はこれの受け取りも行かないと...それから」
今度は引き出しから手帳を取り出し、予定表を確認する。
そこには『十時・雨・診療所定期健診』と記されていた。
「雨送ってきた帰りに中之島の軍警本部に行こう。それで報酬貰って、その足で雨迎えに行って...」
今日やるべき予定を雪那は一つ一つ確認していく。
今日のメインは以前から決まっていたので、その予定の合間に色々と組み込む事にした。
(また変なトラブルを引き寄せませんように)
念のためそう八百万の神々にお願いをして雪那は手帳と伝票を懐に仕舞い込んだ。
秋津川事務所の三階。そこには
雪那の恋人である猛は寝室を雪那と共にしているので、私室は個人の趣味出る身体を鍛える為の器具が並ぶトレーニングルームと化している。
その為、三階は殆ど雨のみが使用する状態になっていた。
そんな静かな私室で、雨は夜が明けるより前に目を覚ました。
少し眠気の残る目を擦り、窓から差し込んでくる昇りたての朝陽の光に目を凝らす。
ゆっくりと身体を起こし、ベッドの縁に腰を下ろした雨は、自身の身体に視線を落とした。
深呼吸をして、何かを確かめる様に、ゆっくりと指を曲げたり閉じたりを繰り返す。
(良かった...今日も動く...)
数回手を握る動作を繰り返してから、雨はホッと安堵した。
目が覚めてこの確認をする。それは、雨にとって一種の願掛けのようなものだった。
「今日も頑張ろう」
自分を鼓舞するように呟いて、勢いよくベッドを降りる。
寝巻から私服に着替えた雨は、上の階で寝ているであろう雪那達に配慮しながら静かに私室を出て、共有スペースである二階へ降りた。
洗面所で顔を洗い、身支度を整える。
今日は月に一度の大切な日だ。
毎月の事だが、執行人をやっている身としては今日の結果が大きく響く。
昨日の雪那の心配や恐らく同じように思っている莉桜の事を考えると、無茶が出来ないのは分かっている。が、自分を救ってくれた彼女達に恩を返そうと思うと、自然と焦りがでてしまう。
(ダメダメ、暗い気持じゃ莉桜さん達に心配かけちゃう)
パンパンと、頬を叩いて気合を入れる。
「さて、みんなの所行こうっと」
気を取り直すように雨は台所から紙袋を持ちだし、一階へと降りた。
事務所の裏手、ガラクタの無造作に置かれた場所で雨は指笛を鳴らす。すると、それに応えるように何処からともなく数十匹の野良猫や野良犬が現れた。
「皆おはよう、ご飯だよ」
集まってきた動物達に雨は声をかける。
大小様々な形の容器を十数個並べた。その中に持ってきた袋から乾燥して固まった餌を振り分けた。
お行儀よく器の前に並んだ野良猫や野良犬は、雨の「よし」という声に反応して餌を食べ始めた。
「沢山食べるんだよ」
容器の前にしゃがみ込み、一匹ずつ頭をなでながら優しく話しかけた。
政府の術師であった雨の両親は先の大災厄の後の防衛の最中、ある病気の為に命を落とした。
一人残された雨は孤児としてこの逢坂に流れ着き、スラム街でしばらく過ごしていた。
その時から野良猫や野良犬を世話していた為、莉桜と雪那に拾われた後も、彼等の世話は日課になっていた。
「何にもないといいな...」
胸に去来する不安を慰めるように雨は美味しそうに餌に食いついている彼等の頭を撫で続けた。
『相変わらず早起きだな』
何処からか聞こえてきた声に雨が視線を向けると、屋根の上から、トンと身軽に飛び降りる一匹の猫が現れた。
「刹那」
青みがかった毛並みの猫の名を雨は優しく呼ぶ。
その声に呼ばれる形で刹那は雨の足元に近づき、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄った。
「刹那も食べる?」
雨に聞かれて刹那は顔を上げて頷いた。
微笑みながら雨は掌に餌を載せて、刹那の前に差し出した。
雨の手に載せられた餌を刹那はカリカリと齧った。
「刹那はお散歩に行くの?」
『ああ、雪那だけじゃ情報集めらんないからな。ボクが行ってくる』
餌を頬張りながら刹那は雨の質問に答えた。
「気を付けてね」
反対の手で雨は刹那の頭を撫でる。
『...君も、あまり結果に気落ちはするなよ』
まるで、沈んだ心を見透かしたような言葉に雨は一瞬目を見張ったが、直ぐに泣きそうな顔で頷いた。
「大丈夫、ありがとう...」
微かに震えた絞り出すような小さな雨の声を聞き、刹那はぺろりと励ますように雨の手を舐めた。
再びトンっと身軽に飛び上がった刹那はそれ以上は何も言わず、朝の街に消えて行った。
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