第十三話
「それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
美幸と沙耶を交えて悠生は莉桜と夕食を共にした。
莉桜が作った夕食は前評判の通りに美味く、何処か懐かしい味がした。
故郷の料理を久々に口にし、幼少の頃を思い出しながら悠生は自室がある二階へと戻ってきた。部屋の前で、莉桜と挨拶を交わし、障子戸を開けて部屋の中に入る。
「ただいま、朔月」
部屋に戻ると、部屋の隅に用意した止まり木で羽を休めていた愛鷹の朔月が、主の気配に気づき首を入口の方へ向けていた。長い船旅でも平気な顔をする朔月は、やはり今も常と変わらない凛々しい顔つきをしている。
「お前も腹が空いただろ」
部屋の隅に歩み寄り、朔月の前に腰を下ろした悠生は、荷物から今日市場で仕入れてきた生肉を取り出した。
目の前に差し出された生肉を、朔月は鋭い嘴の先端で起用に摘まむと、それを美味しそうに頬張った。船上では干し肉が主な餌だったからか、実に嬉しそうだ。
夢中で生肉を頬張る朔月を横目に、悠生は格子の嵌った窓の外を覗き込んだ。
昼間の賑わいが、まるで幻であったとでもいうように、逢坂の街は静寂に包まれ、先を見通すことを許さないとでも警告するように濃い霧が不気味に夜闇を覆っている。
(まるで、倫敦のようだな...)
霧の海に沈む逢坂の街を見つめながら悠生は、かつてこの日ノ本と同盟を結び、共に発展を遂げた西の島国を思い出した。
かの地は先の大災厄の際、日ノ本以上の被害に見舞われ、現在は屍者の国と揶揄される魔都と化している。
かの地を思えば日ノ本の復興は驚異的なものであり、政治や経済の機能が東西で独自に分離していた事も回復の速さに繋がったのだろう。
だが、いくら復興を遂げ、都市機能が回復しているとはいっても、怪夷と呼ばれる異形はいまだ人々を脅かしている事実は変わらない。やはり、原因を絶たない限り真の復興とはいえないのである。
朔月に食事を与え終えた悠生はふと、腕時計に目を遣った。
時刻は夜の八時。
(そろそろ定時連絡のじかんだな)
荷物の中から二つ折りの小箱を取り出し、悠生は中央に掛けられた金具を外して、上に箱の半分を持ち上げた。
箱の中にはダイアル式で操作する通信機が納まっていた。
太いゴムで出来た筒に繋がれた通話用である真鍮の管を取り出し、ダイヤルを回して悠生は神戸にいる仲間へと信号を繋いだ。
宿の裏手にある湯殿で湯に浸かりながら莉桜は天窓越しに見える夜空を見上げていた。
蒸気の霧に包まれた逢坂の街では故郷の出雲の様に夜空の星を眺める事は殆どない。
月ですら朧掛って輪郭は常にぼやけていて、まるで平安の時代、御簾越しに見る姫君のように月はその表情を曖昧に隠していた。
『ねえ、莉桜』
桶に湯を張った処に身を浸けた三日月が不意に話しかけてきた。
「何?」
夜空に向けていた視線を戻し、莉桜は呼びかけに答えながら三日月を見遣る。
『今日は、なんだかふわふわしてるね』
「ん?ふわふわ?」
唐突に言われた事に莉桜は思わず小首を傾げた。
『うん、朝からずっと』
今日一日感じていた莉桜の変化を三日月は反芻しながら頷いた。
思わぬ指摘に、湯船の中で身体を伸ばして莉桜は一日を
振り返る。
そんなに、今日の自分はいつもと違っていただろうか。
常に傍にいる三日月がそう言っているのだから、少し浮かれていたのかもしれない。
「久し振りに案内人の仕事入ったからかも」
『そっか、うん...そうかもね』
ちゃぷん、とお湯に鼻の下まで浸けて三日月は納得する。
『まあ、莉桜が楽しいならそれでいいよ』
ぷかぷかとお湯に浮かびながら三日月はそれ以上は特に何も聞かず、代わりに飛んできた通信を受信した。
『雪那から』
その一言で莉桜は全てを把握したのか、三日月が繋いだ通信に出た。
『莉桜、今大丈夫?』
「まあ、お風呂に入ってるのでいいなら大丈夫だけど」
雪那からの通信に莉桜は応答する。
『会話が出来るならなんでもいいよ。早速本題に入るけど、夜回りに出ていた猛から、天満宮の付近で怪夷の目撃情報の報告があった』
「直ぐ出る?」
『いや、まだ確定情報じゃないから今夜は警戒だけしてもらう。ポイントを確認して明日の夜、打って出ようと思う』
雪那からの情報に莉桜は「了解」と応答した。
『莉桜と別れた後に聞き込みをしてみたんだけど、もしかしたら“角付き”かもしれないから、万全の態勢で』
「ふーん、角付きかあ..昨日のランクCといい、大物が続くね」
『恐らく、今回は他の事務所も出て来ると思う。昨日のはランクCになったばかりの所に遭遇できたからうち単独で仕留められたけど、次はそうはいかないと思う』
「確かに。怪夷はランクDなら毎晩何処かしらで出てるから、何処の執行人が倒しても大差ないけど、ランクBの角付きともなると、手柄としては欲しいわな」
『ましてや、角付きともなると知能がある。それなりに出没のタイミングも考えてくると思うんだよね』
「他の事務所に取られないように頑張るよ。話はそれだけ?」
莉桜の問いかけに雪那は更に続けた。
『それから、明日は雨の定期健診の日だけど、どうする?案内人の仕事あるなら僕が付添うよ』
「あ、そうか、明日だっけ...忘れてた...」
雪那に言われて莉桜はしまった、と頭を抱えた。
「ごめん、雨の事任せていい?今度埋め合わせするから」
見えてはいないだろうが莉桜は顔の前で両手を合わせて雪那に頭を下げた。初日に客を放り出して雪那の用心棒業遂行に行ってしまった穴埋めを明日はしなくてはならない。
本当は付添いたいが、今回ばかりは雪那に任せる事にした。
『了解。そういうかなと思って雨には伝えてあるよ。ちょっと寂しそうだったけど』
夕食の時の雨の顔を思い出しながら雪那は様子を莉桜に伝える。
『まあ、雨も納得はしてたよ。もう十四歳だし、そろそろ自立しないとね。僕等だって事情があったにせよ十五歳で親元離れてるんだしさ』
「そうだけどさ...」
湯船の縁に凭れ掛かりながら莉桜はぼんやりと雨の顔を思い浮かべる。
孤児で逢坂のスラム街にいた雨を拾ってからかれこれ三年。
生きていれば同じ歳であった弟の面影を重ねるように莉桜は雨の事を大切にしていた。
彼の身体を蝕む病の事は常に頭の片隅にあって、どんな時も気にかけていたのだが、まさか定期健診の日を忘れていたとは思わなかった。
「進行してないといいな...」
ばそりと呟くように言う莉桜の言葉に、雪那も複雑な表情を通信の向こうで浮かべていた。
『特に体調は崩してないから大丈夫だと思うよ』
「健診終わったら直ぐに報せて。気になるから」
付添えない代わりに、せめて結果だけでも早く知りたくて莉桜は雪那に頼み込む。
それを雪那は快く承諾した。
『それじゃ、明日の夜八時に。何かあったらそっちも連絡して』
そう言って雪那は通信を終了した。
通信を終えた莉桜は溜息を吐きながら湯船から身を挙げる。
湯船の縁から溢れた湯が、檜の床を濡らし、立ち上る湯気が莉桜の身体をぼんやりと包み込んだ。
今日は色々とあって久し振りに疲れた。
手拭いで水気を拭き取り、三日月を連れて浴室を出る。
「今夜はもう寝ようか」
三日月の身体を拭いてやりながら莉桜は肩を竦めた。
格子窓の向こう、霧に包まれた夜空の下で、それぞれの思いは火種のように微かに燻り始めていた。
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