朝霧に昇る陽探し作る詩

柳 真佐域

第1話『始まりの句』

「午後のお昼寝はさぞかし気持ちよかっただろうな、朝霧」

「チッ」

 夕暮れの職員室で朝霧良加は、忌々しそうに舌打ちを打った。白球の弾ける音がする。黄昏時の校庭では、運動部が互いの健闘を称え、エールを送りあっていた。校舎からは吹奏楽部が、各パートに分かれて音合わせをしている。安っぽいインスタントコーヒーの匂いのする職員室。生活指導の桜島守高は、孫の手を使って背中を掻いている。キイキイとやかましく音を立てる事務椅子に、どっしりと腰を下ろして、朝霧を睨んでいた。口元には笑みがあったが、縁が太い老眼鏡の奥の眼は、人を値踏みする鈍い光を放っていた。桜島が椅子に凭れて顎を上げると、その視線を外すように、ふてくされて横を向く朝霧が眼鏡のレンズに映った。煩わしく眼鏡を外すと、桜島は目頭を揉んでから言った。

「授業中に寝るなとあれほど言っただろ。それも屋上でなど言語道断だ」

 しかめっ面をして叱りつけたつもりだが、当の朝霧は他人事のように宙を見ている。

「お前の生活指導をしてもう一年か。遅刻欠席早退、授業中の居眠りに頭髪・服装の乱れ、禁止にしているピアスも外さない。それに加えタバコに他校の生徒との喧嘩。昭和の不良か、お前は?」

「っせぇな誰にも迷惑かけてねぇだろ」

「悪影響があるって言っているんだ。お前が乱す風紀に当てられるものがいないことも限らん。なぁ朝霧。高校の青春の一年をお前は棒に振った。俺にはそう見えるんだがな」

 神妙な顔つきで桜島は言った。

「だったらどうなんだよ」

「今日で俺の生活指導を終わる」

 見放された、つまりはそう言うことだ。朝霧は面倒くさそうに頭を掻いた。いちいちあれこれ言われるのは癪に障るし、いっそ清々しい思いで溜息を吐いた。

「それで? 俺は退学にでもなるのか?」

 朝霧は皮肉っぽく笑って見せた。桜島は鼻息を一つ吐いて、孫の手で自分の肩を叩き、サンダルを履いた右足を反対の足の腿に乗せて言った。

「現国の奥寺先生は分かるな? 今後は奥寺先生にお前の生活指導を担当してもらう。俺も残念だがな。いいか、お前も分かっているだろうが、これは最後通告だ。奥寺先生でも駄目ならもうお前のことを誰も庇いきれない。今時高校もロクに出られない奴が社会で通用すると思うか? 不良なんてモラトリアムにかまけて、立場に守られ、大人に甘えているうちに出来る駄々っ子とかわらん。世の中はお前が考えているほど甘くないぞ。若いうちに後悔なんて作るもんじゃない」

 そこまで言うと、桜庭は孫の手の先で朝霧を差した。背中の垢が臭ってきそうで朝霧は顔を背ける。

 満開だった桜は、昨日から散り始めている。今年は遅咲きでやっと花を開かせたと言うのに、あたたかくも猛烈な春の風は、振り乱すように枝葉を揺らしていた。夕陽の赤を吸って、茜色に染まった桜の花びらが吹雪いている。

「聞いとるのか」

 忠告と共に、桜島は孫の手を朝霧の胸を突いた。

「てめぇ!」

 瞬間、朝霧はカッと頭に血を登らせ、すごんだ。朝霧の怒声で、職員室にいた教師たちの視線が集まる。そんなものに捕らえられる前に、朝霧は桜島に食って掛かろうとしたが、桜島の下卑た笑いに、振り上げた手が止まった。

―――いいんだぞ、朝霧。おまえはそのままでいいんだ。そのまま落ちるところまで落ちてしまえ。

 桜島の笑みが、そう言っているような気がした。誰かの思い通りになることが、何よりも朝霧を苛立たせる。人前では聖職者として、理路整然と物事を語る教師たちが、一度本性を表せばこういう顔をする。生徒とは言っても、自分の利とならなければ、どこまでも冷淡になれる。決して手は出さずに、神経を逆撫でて、自壊するように追い詰めていく。真綿でゆっくりと首を絞めていく。その苛立ちが朝霧の素行を尚更、貶めていた。

―――いいよ。堕ちるとこまで落ちてやる。

 そう思って朝霧の拳は、桜島の皺で垂れた頬を目がけた。

「駄目です、朝霧君」

 その声が朝霧の蛮行を止めた。その声は、耳の奥に向かって強く良く響く。老成した神主が神事を全うしたような、岩の中を反響する木霊のような、心にすっと入ってくる、そんな声だった。いつの間に傍に来ていたのか、奥寺由紀夫は朝霧の元へ歩み寄っていた。中年の盛を越えているとはいえ、奥寺は桜島より若かろうが、頭髪の一本残らず白髪になっている奥寺の方が、年齢を倍は重ねているような気がした。

「その手をどうするつもりですか?」

 奥寺は、朝霧の振り上げた手を見て言った。

「関係ねぇだろ」

 突っぱねるように朝霧は言ったが、その手首を奥寺は掴んだ。

「君はそんなことをするためにここにいるんじゃない。桜島先生もデリケートな生徒相手に大人げないですよ」

 奥寺がそう言うと、桜島は興味を失ったように椅子を引いて、机に向き直った。

「早かったですな、奥寺先生。もう少しゆっくりいらしても良かったんですがね」

 桜島はわざとらしく平静を装って、机の上のコーヒーを手に取った。もうとっくに冷めているだろう。湯気も香りも立ってはいなかった。

「いやね、手のかかる生徒が手を離れる時というのは物寂しいものですな。いっそのこと……なんてね」

 奥寺はお道化ながらそう言うと、コップの中で波打ったコーヒーの滴が床に跳ねた。

「てめぇ……」

 尚も食って掛かろうと、朝霧は手を払いのけて迫ろうとしたが、奥寺が肩から体を押さえつけて制した。

「桜島先生、約束したはずです。今より朝霧君は私が預かります」

「私からはもう何も話すことはありません。あとはどうぞ先生のお好きになさってください。ですが、奥寺先生。先生も約束を取り違えないでくださいよ」

「わかっています。行きますよ、朝霧君」

「っなんだよ! 離せ!」

 朝霧は、手首を掴む奥寺の腕を掴み、爪を立てた。

「っ」

 と、一瞬顔を歪めたものの、奥寺は朝霧の手を離さなかった。ズルっと柔らかいものが滑る感覚がした。爪が喰い込み皮膚を裂いて血を滲ませる。それでも奥寺は朝霧の手を放しはしなかった。そのまま痛みに耐え、朝霧の興奮が治まるまで、奥寺は彼を静観していた。硬直はおおよそ2分間は続いた。桜島もたじろいでいたが、奥寺は何も言うなと目で制していた。放課後のチャイムが一つ鳴って、奥寺の手首から血が滴って、朝霧の上履きに赤い染みを作った。その拍子に朝霧は、自分のしていたことに驚いて、後ろへ飛び退いた。朝霧が引いたことで奥寺は手を離した。

「頭は冷えましたか?」

 教師に暴力をふるった。これで退学は確実だった。朝霧は手に残った感触が煩わしくて、爪の跡が残るほど拳を強く握った。

「奥寺先生……保健室に」

 桜島が奥寺に駆け寄ったが、奥寺はハンカチで傷を抑えると、桜島を押しのけて朝霧の前に立った。

「来なさい、すぐに」

 それだけ言うと、奥寺は踵を返して職員室を後にした。

「朝霧……」

桜島は危険物でも扱うように声をかけたが、朝霧は見向きもせずに職員室を後にした。


 急いで水道に行き、手を洗った。人の肉を抉る感触がいつまでも残っている。洗っても洗っても、爪の中に血が混じっているような気がして、気持ちが悪い。水道から流れ出る春の水は冷たかった。その熱は激情にかられた炎のような熱も、奪ってくれる気がした。手が真っ赤になっても尚、水の中で手を拭いに拭い続けていると、不意に横からペーパータオルが差し出された。

「もう春とは言え、それ以上は手がかじかんでしまいますよ」

 奥寺だった。随分と長い間水道で格闘していたらしい。保健室で手当てしてもらったのだろう、ワイシャツの裾からガーゼの当てられた手首がチラリと見えた。せっかく冷えてきた頭に、また雑音が響いた。朝霧は水を止めると、手を制服で乱暴に拭った。そして両手をポケットに入れて立ち去ろうとする。

「君はいつまでそうやって嫌なことから逃げるつもりですか」

 奥寺は朝霧の背中に呼びかけた。叱るような声音ではない。単純なる問い。今日の朝、何を食べましたか? とか、明日は晴れると思いますか? なんかと同じ、言ってしまえば他愛のないことのように。それでいてそれは自分だけが知っている確かなこと。加えて、彼の問いは、言葉通りではなく、もっと先を見据えて問うた言葉のように思えた。

 逃げているわけじゃない。ただどうしようもなく、自分を縛っている、足にも肩にも纏わりついた柵に苛立つだけだ。自分の中に重く粘ったストレスを、吐き出している。排気している。そうしていなくては、いずれは自分の中に溜まったドロドロの澱に取り込まれてしまう気がした。

「逃げた先にも人がいると言うものですよ。人は永遠に独りで自問するだけです」

 尚も奥寺は呼びかける。突き放すのか、それとも正しさを説いているのか。教師の言うことに、聴く耳なんて持ち合わせていないのに、朝霧の足は苛立ちから止まっていた。

「悪いことをした生徒がいれば罰すればいいだろ。停学でも……退学でも」

「罰って言うのは罰せられたことに後悔して初めて罰と呼べるんですよ」

「はっ」

―――後悔?

 そんなものするくらいなら。朝霧はそう思って鼻で笑った。

「君は停滞している。吹き溜まりの中にいて自分に患っている。振り返ることも知らずに、安穏と今を逃避し、刹那的な衝動に身を任せ、時間と人を排他的に葬り去っている」

「俺が何をしようと俺の勝手だ」

 朝霧は吐き捨て、振り返り奥寺を睨んだ。

「それが本当に望んでいるなら誰も止めやしません。君が苛立てば苛立つほどに人を傷つける。それは自分自身もそうです。自分を蔑ろにしてはいけません」

「自分を可愛がれっていうのか? 馬鹿馬鹿しい。そういうのが一番嫌いなんだよ。わが身可愛い奴ほど中身は腐ってる。あんただって教師だ。踏み込む勇気もないくせに偉そうなことを言うな」

 イライラする。立場に守られているのは教師だってそうじゃないか。それに相手が子供だからって子供扱いするのは、きちんと向き合っていない証拠じゃないか。状況に応じてお前は半分大人なんだからなんて理屈、卑怯すぎる。早く生まれて、早く物事を知って、金を貰って人の世話をして、心から尊敬出来る奴なんていやしないじゃないか。ただ茫漠に数多あった職業の中から、教員としての仕事を選んだだけに過ぎないだろうが。教師としてたくさんの人を見ている経験値が多いだけで、説教なんか説いたりして、自分は人にものを教えられる人間なんだと、勘違いしているんじゃないのか。

「私は君に本当に変わると言うことを教えたい。人間は学び、知ることによって世界の見方さえも変えてしまえる存在なんだと言うことを気付かせてやりたい。それが私の言う君に課す罰ですよ」

―――世界? 大それたことを言う。

「あんたたちに何を言われようと俺は変わらない。そんなクソダサイ奴に俺はならない」

「試してみますか? きっとあなたは変わります、あなたの見る世界も。来なさい」

 奥寺は再びそう言うと、朝霧の横を通り過ぎて、ついてくるように背中で促した。朝霧はその背中を見ていたが、それきり奥寺が振り返りはしないことが分かり、むしゃくしゃはしたが、ついて歩くことを決めた。その姿を人は導くと、そう言うのだろう。


「は? 俳句?」

「そうです。あなたは今日から俳句を作るのです」

 奥寺について行き、夕陽の差す現国準備室に連れてこられ、朝霧はそう告げられた。

「五・七・五の調べに乗せて、十七音の短詩を作ります。川柳と違うのは春・夏・秋・冬の季語を一つ入れること。平安時代からある日本の和歌です」

 奥寺は教務席について、当たり前のようにそう説明した。

「馬鹿にしてんのか? 俳句なんてじじぃやばばぁがやるダジャレみたいなもんじゃねぇか」

 馬鹿馬鹿しい。世界を変えるなんて大きなことを言って、老人の趣味を押し付けるなど何を考えているんだ。朝霧はため息をつき、聞いて損をしたと席を立とうとした。

「若い人にも俳句は親しまれていますよ。伊藤園で行われる新俳句賞では小学生、高校生の部がありますし、愛媛県松山市では毎年全国の高校の俳句部から俳句甲子園が開かれています。テレビ番組でも俳句を特集する番組は有ります。結構人気なんですよ」

「だからってなんで俺が俳句なんて……」

「俳句とは人間が作り出した言葉で世界を映すこの世で一番洗練された詩です」

 ……この世で一番とは随分と仰々しいことだった。朝霧は一年生の頃、奥寺を知った。その時はこんなに大言壮語を吐くような、意外性のある教師であることなど、微塵も思わなかった。朝霧は教室にいるときは、大抵どの授業にも耳を傾けず、窓際の一番後ろの席から、窓の外を眺め、退屈な時間が流れ去るのを、ただぼんやりと過ごしていた。初めは名指しで注意されたり、回答を指名されることもあったが、それも繰り返し沈黙していると、教師も諦め、次第に順番を飛ばされた。そんな中、奥寺は初めから朝霧のことを無視しているかのように、授業を淡々と進め、雑談も挟まずつまらない授業を重ねた。

 いや、一度だけ朗読を強いられたことがあった。あれは何についての授業だったか。その内容は覚えていないが、奥寺がしつこく催促するものだから仕方なく答えたことがあった。渋々でも応じた朝霧の態度に、一瞬だけクラスの意識が集まった気がした。煩わしかったが、奥寺の要求はそれ以降一切なかった。奥寺の授業は、その退屈さからか他になく静かだった。だが、ろくに会話をしたこともないが、特に奥寺を嫌っているという話題も聞いたことが無い。どこにでもいそうな人畜無害な教師。そういう印象だった。

 それがどういうことか、はっきりと自分の自信を言葉にし、真っすぐな心で不良生徒に向き合う熱血教師よろしく、熱視線を送っていた。それも燃え盛る炎のような暑苦しい視線ではない。ただ静かに燃える、寺の奥にしまわれた炎。冷たく真っ暗な闇の中、ポォっと明るく、闇に染まることのない灯り。頼りないのに、触れば火傷する凶暴さを兼ね備え、人を温めもする光。変なイメージばかりが頭に浮かんでくる。嫌な感じだ。朝霧は、奥寺由紀夫という男を知らない。見てくれは、そこらの教師と変わりがない。現に、先ほどの、職員室での強引さを見るまで、そう思っていた。

「さっき言っていた、桜島との約束ってなんだよ」

「気になりますか?」

 そう聞き返せば、こちらが素直になることはないことを、この男は知っている。隠したい確信がそこにはある気がした。朝霧はどう聞き出してやろうかと、頭を捻り、口を開こうとした時だった。

「私が君を更生させることが出来なかったら、この学校を去るという約束なんですよ」

 奥寺は、あっさりとそれを白状した。

「は?」

 意味が分からない。見ず知らず、とまでは言わないにしても、自分が担任を受け持っている生徒でないのに、何を、何があってそこまでの決断をしたのか、朝霧には全く理解が出来なかった。思考は停止する。その止まった思考を、囃し立てるように、奥寺は言った。

「私は、君に俳句の才能があると思っている。素行は悪くても、君には世界を美しいと思う心が、言いようによっては、誰よりも繊細にある。その小さな胸に、その光を映す二つの眼に、澄んだ音を聞き分ける耳に、触った感触に怯え、また寄り添う手に、それらを感じ取り、考える頭に、一切合切の俳句の才能が詰まっていると、私は確信しています。ここまで言えば、あなたは分かりますよね?」

「ふざけんな。俺を口説こうって魂胆か?」

 危険な臭いがする。身の危険と言うより、先の見えないそう、恐怖。絵も知れぬ世界に、こいつは運ぼうとしている。こんなに真っすぐに、人から好意を受けたのは初めてのことだった。これを好意と感じている自分がいることにも羞恥した。誰一人として、ロクに話したこともなく、ロクに相手にされたことはなく、ロクに向き合っても来なかった。突拍子もないことを言っていても、この男が今、自分に真摯に向き合っている。それだけが分かった。それでも尚、素直なんかにはなれない自分がいる。自分がこれまで築き上げてきた不良としてのプライドが、それを許さない。何物にも屈することはなく、何物にも臆することはなく、何物も凌駕する存在でありたい。子供ながらの浅はかな夢だ。誰しもが抱く、中身のない、空想上の物。それを誇りと呼ぶのはちょっと違う気がしたけれど、それだけが自分の中に残っている唯一で最大の武器だと信じている。奥寺は、朝霧の問いに対して、こう答えた。

「魅力のない人には、何も言えません」

 それが、奥寺の人との向き合い方の、行き着いた真理か。

「客観的に見れば、私は是が非でも君に俳人になってもらい、名声を得て、自分の周りに感謝して、自ら頭を下げるような人になってもらわなければなりません。そういう意味では私は今、必死にならねばならないのだと思います。でも、そんなもの、どうでもいい。そんな物の為に、君に俳句を作ってもらいたいわけではないと私は断言します。君は、君の、君にしか出来ない句を作る。それだけで十分だと私は思っています。君が俳句を作ったことで、どんな人間になるのか、君の作った俳句が何をもたらすのか。そんなことを考えるのは、俳句を作った後にあるボーナスポイントのようなものです。君は私と、一日一句、俳句を作ればいい。私と君との約束が叶うなら、取り決めはそれだけしか必要ではありません」

「……あんた、おかしいぜ。そんなの、俺がまた規則を破った時、あんたはただ俳句を作らせていました、だけじゃ済まないことくらい分かるだろう? 無意味だそんな物。やるだけ無駄だ。馬鹿でもわかる」

「ええ。私は君を信じることもしなければなりません。でもそれは、君を預かると決めた時に、もう済ませています。それに信じることは俳人としてではなく、ただの教師の務めですから」

 ただの。ただの教師の務め。

「ははっ。あんた面白いな。頭のネジが二三本抜けてら。狂ってるぜ」

 朝霧は自分が今相対しているのが、ただの一教師ではなく、得体のしれない一人の狂人だと言うことを確信した。随分と良く化かしていたものだ。周りを欺いて、凡人を装い、平然と日常に溶け込み、同じものを食べ、同じように笑う。そのことを、この男が常人と紛れてやっていたこと、その時間と労力に、朝霧は笑った。

「いいぜ。俳句、作ってやるよ」

 もう少し、この男を見てみたい。そう思った。

「本当ですか?」

「男に二言はない。あんたが辞めたいって言うなら別だけど」

 奥寺は笑った。その笑みは、狂人なんかではなく、ただただ、束の間の安堵に、胸を撫で下ろしたように見えた。こんな笑い方を、朝霧は見たことが無かった。

 朝霧良加と奥寺由紀夫の約束は、そうして交わされたのだった。


「俳句にはまず兼題というテーマがあります。例えば学校、例えば音楽、例えばテレビ、例えばクリスマス。兼題とはその句の顔となる部分です。それをこの歳時記に書いてある季語を使って表現する。季語はそのまま季節を表すものですから、そのままテーマに使われることも多いです。そうですね。ではまず、『桜』で一句作ってみましょう」

 そう言って、奥寺は朝霧に歳時記を手渡した。辞書のようにぶ厚く、そして使い込まれたそれは、奥寺がこれまでどう俳句に向き合っているのかがわかる足跡のような重みがした。

「桜ねぇ」

「桜を見て、君が何をして、どう思ったのか。それを17音で綴ればいいのです。毎年必ず咲く桜は、日本人なら誰しもが思い入れを持っているものです。近年は咲く時期が後の季節に近づきつつありますが」

「……『綺麗だな桜吹雪は綺麗だな』 でどうだ?」

「真面目に。でも君は桜吹雪を綺麗だと思うんですね。そういう着眼点を生かしてもう一句作ってみましょう」

「なんだよ。約束と違うだろ。一句作ったら解放してくれるんじゃないのかよ」

「句になっていないものは論外です。君の初めての句が、これで本当に良いんですか?」

「ってもどう作りゃいいかわかんねぇよ。お手本もなしにさ」

「お手本なんてものは必要ないです。人の物を知るということは、自分の感性の純度を下げてしまう。ありのままが出来るときは、それが一番いいんです。勉強だったらあとからいくらだって出来る。今の自分の思うまま感じるままの句を私は聞きたい」

「手探りで探せってのか」

「杖くらいは差し上げます。作文と一緒です。誰が、何時、何処で、何を、どうしたのか。それが入るだけで、俳句は形になります。17音の制限の中で、それをやるのが俳句というものです。君は何時桜を見ますか?」

 そうして、朝霧は考えた。良い句なんてものはハナから知らない。だが、これだけ自分に才能があると言っているんだ、奥寺は良い句でなければ納得しないだろう。だったら何が良い句なのか考えるべきである。桜と言われて頭に浮かんだ風景は、散っている桜吹雪の場面だった。蕾で、誰もが今か今かと咲くのを待ち望んでいて、六分咲き、七分咲きと着て、徐々にニュースで花見に盛り上がるサラリーマンたちに嫌気がさしながら、薄ピンク色の桜が満開になって、世の中がどこか浮かれているそんな時、春風に揺られながら、懸命に咲く桜の花が、臨界を迎え、花弁が解けて儚く散っていく様。それを見た時、自分の中で何かを感じる器官が生きていることを感じた。その瞬間にだけ、今を忘れられる気がした。それは紛れもなく、美しいと感じることだ。そんな酔狂な心が自分の中にもある、そういうところを奥寺は見透かしていたのではないかとも思った。

「……桜散る」

「桜散る」

「あ~クソ、……『桜散る見惚れて今日も遅刻する』 これでどうだ?」

 朝霧が恥ずかしながらそう言うと、奥寺の瞳孔がふっと広がり、その時だけ一瞬、時が止まったようだった。朝霧の顔は夕焼け色に染まっているが、内心耳まで赤く染まる思いだった。

「桜散る見惚れて今日も遅刻する か。良いですね。凄く良い」

 奥寺の表情は逆光で見えずらいが、確かに笑っていたと思う。

 こうして、朝霧の初めて句が出来た。そしてそれは、これから二人で紡いでいく始まりの句でもあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝霧に昇る陽探し作る詩 柳 真佐域 @yanagimasaiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ