最終話 春色のそらごとに(4)

 日曜日が来ると、正樹たちは予定通りに集まり、そこには春美も来ていた。

 精神的に落ち着いているのならば、普通に生活することが一番の療法だと北原からも言われ、春美も再び皆で演奏できることに胸を踊らせていた。


 桜堤には満開の花が咲いている公園の中で、青々と広がる芝生に一本だけ立っていた桜の木を見つけると、五人はそこで演奏の準備を始めた。


「もう、すっかりお花見シーズンだね」


 春美は相変わらずの笑顔を見せながら、嬉しそうに桜の花を見つめている。

 その様子に正樹は、何の他意なく純粋に笑っている春美を見るのが、久しぶりな気がしていた。


 各々がウォームアップを済ませて、いつでも合奏を始められる準備が整うと、春美以外の譜面台には、楽譜入れと一緒に、一枚の写真が添えられている。


「あ、これ、もしかして……」

 正樹の持っていた写真に気が付いた陽子は、自分の持っている写真と、全く同じ写りなのを見せた。


「え、それ俺もなんだけど……」

「いや、俺もだよ」


 茂雄と純一郎も、揃えたように同じ物を見せたのは、校内アンサンブルコンテストで本大会への出場が決まった後に、裕介を入れた五人で撮った写真だった。


 打ち合わせたような偶然に笑っている四人の姿を、春美も微笑ましく思いながら見ている。


「あ、ごめんなさい……この写真には、先輩が写っていないのに、自分たちだけが、はしゃいじゃって……」


 正樹が気遣うようなほど、春美は不快になど思いもせず、「何で?全然いいじゃない」と言っている。

 それを見た陽子は、春美を援護を始めるように、正樹のことを言咎めた。


「何言ってるの、覚えてないの?写真には写ってないけど、これ撮ってくれたの春美先輩だよ。だから、先輩のことだって、ちゃんと一緒に入ってるの」


 陽子の言ったことを聞いて、茂雄と純一郎も、「そうだ、そうだよ。正樹も覚えてたよな」と、さりげなく正樹を庇いながらも、陽子にも調子を合わせて、重い雰囲気になりそうな場の和ませる。


「私もね、今日はこれを持ってきたから」

 そう言って春美は、持っていた鞄を開けると、中から正樹が送った写真立てを出して見せた。

 桜の模様が描かれた写真立ての中に収められている春美は、やはり上手く笑えていない。


「正直に言うとね、私はこの頃の自分があまり好きじゃなくてね、でも、この写真は裕介君にとっても大切な思い出だと思うから、今日は持って来たの……」


 春美の話しを聞いて、四人も自分たちの記憶にある裕介のことを思い出す。

 すると、陽子も春美のように自分の鞄を開けて、中から裕介の楽譜入れを出した。


「先輩、ちょっと」

 陽子は春美を手招きして、五人が譜面台を並べている正面に呼ぶと、芝生の上に裕介の楽譜入れを置いて、春美にも写真立てを並べるように促した。


「ここで聴かせましょうよ、裕介と、この時の自分たちに……時間はかかっちゃったかもしれないけど、こうして裕介が望むように演奏する姿を、目の前で見せましょうよ」


 春美は陽子の言葉に頷くと、写真立てを裕介の楽譜と、隣り合わせで座らせるように並べて置いた。


「それじゃあ、始めようか」


 茂雄の声に合わせて皆が楽器を構えると、威勢の良いトランペットの音から始まる、『戦いの組曲より、ベルガマスクのカンツォーン』が、特等席で聴いている、六人の自分たちに向けて奏でられた。


 その音に揺らされたのか、一枚の花びらが正樹の楽譜に落ちてくると、桜の花がまた、悲しみを花びらに添えて散らしてくれたように思えた。


 ※

 正樹と春美が二人で生活を始めてから、初めての桜が咲いていた。


 春美は、北原から紹介された大学病院に通院して治療を受けている。

 病状も、若干の記憶障害や判断力の低下は見受けられるものの、まだ日常の生活に大きな支障を与えるほどではない。


 正樹は春美のサポートをしながら、プライベートについても理解のあった、住宅設備販売の会社に、営業として勤めている。

 病院の費用などは、正樹の収入でどうにかできる額ではないので、春美の家族任せになってしまうが、近い将来、その両親に結婚を認めてもらう為には、諸々の生活費などの援助は受けずに、経済面でも春美を支えなければならないと、正樹は強く意識していた。


 窓を開けると見える桜の木は、アパートを借りた時には緑々しい葉桜を見せていたが、来年咲くのを楽しみにしようと言いながら、二人でこの部屋に暮らし始めた。


 正樹は、ベランダから見える景色を眺めながら、毎朝、2DKの同じアパートで暮らしている春美にメッセージを送っている。


《ゆうすけ:おはよう、はるちゃん。桜が綺麗に咲いているよ》


《春美:おはよう、じゃあ今日は、マサキと一緒に、散歩でもしてこようかな》


 春美と暮らすようになってから、今度は正樹が裕介に成り済まして、メッセージを送っていた。

 それは、やがて裕介のことも忘れてしまうほど記憶が薄れてしまう時が来ることに不安を抱いている春美の気持ちを、少しでも和らげようとする正樹の嘘であった。


 春美もこのメッセージを不快に思っている様子はなく、返信することによって、自分の記憶が保たれていることの証明になっているようである。


 それに、いつかの正樹と同じように、春美も言いづらい悩みごとや、時には正樹への愚痴だって、裕介を通せば不思議と伝えることができていた。


 正樹はこの事を、口に出して嘘とは言いたくないが、春美だってこのメッセージを誰が送っているかなど気付いているだろうし、もし、本当に天国という場所があるならば、去年の春、五人の演奏を聴かせた日に、裕介はきっと、そこへ昇って行ったと思っている。


 それは寂しい事にも思えるが、裕介の命を、自分たちの寂しさに理由をつけて、この世界に留めておくのを、親友としては望めなかった。


「おはよう、マサキ」


 寝室の窓を開けて、ピンク色のパジャマを着た春美がベランダに出てくると、降り注ぐ春の暖かい朝日に、目を細めて眩しそうにしながらも、その陽射しのような、きらきらとした笑顔を見せている。


「おはよう、はるちゃん。今日は仕事も休みだし、天気もいいから散歩でもしようか」


「うん。私もね、同じこと思ってた」


 通り過ぎた風が、ベランダに桜の花びらを運んできた。

 正樹は今でも、桜の花は、この世から嘘が消える度に、蕾を開かせていると思っている。

 けれど、その花を咲かせているのは、人を不幸にした嘘ではないとも思う。


 人は時々、苦しみから辛さから逃れるために、嘘を付いてしまう時もある。

 そして、悲しいことを乗り越える為についた嘘だけが蕾を開かせて、花びらと一緒に散らしてくれる。


 だから、こうして春美にメッセージを送っていることを、正樹は悪い嘘だとは思っていないし、あの時の春美だって、きっと同じ気持ちであったはずだと思う。


 それで、嫌なことや悲しいこと、苦しいことや、辛いことを消すことで、人を幸せに導いているのならば、蕾を開かせているのは、嘘と呼ばれるものでなく、桜の花と一緒に色付けられた、春色のそらごとだと思っていた。


 春色のそらごとに 完

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春色のそらごとに 堀切政人 @horikiri

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