第36話 春色のそらごとに(3)

 正樹は春美を家の前まで送ると、二階の窓に明かりが灯るのを見届けて、そこから離れた。


 唇を指の先で触れると、正樹の脳は春美に触れた感触を、はっきりと思い出す。

 一人になって、春美に話していた台詞を思い出すと、恥ずかしくなる一面も多々あったが、自分の気持ちを素直に伝えて、それを受け入れられたことを、唇から伝わった記憶が証明していた。


 それもこれも、切っ掛けを作ってくれたのは陽子だと思い、礼と詫びを込めたメッセージを送ると、『まだファミレスにいる』と返信が来たのを見て、正樹は慌てて陽子の所に戻った。


 店を飛び出してから二時間近くたったいるから、それまで一人にしていたのは申し訳ないと思いながら戻って来ると、正樹が座っていた席には、茂雄と純一郎がいて、三人はサイドメニューをつまみにして、酒を飲んでいた。


「何だ……てっきり、一人なのかと思って、悪いことしたなぁって思ったよ」


「悪いことはしているわよ、さっきまでは本当に一人だったんだから」

 陽子はデキャンタの白ワインを飲みながら、少し赤くなった頬を見せて、正樹に愚痴を言う。


「急に、『正樹に置いてかれた』ってメッセージが来たから、何事かと思ったらけど……手紙、見つかったんだな」


 正樹は、席が空いている陽子の隣に座ると、その件について茂雄に答えた。


「あぁ、もう読んだのか?」


「お前宛の手紙だからな、勝手に悪いとは思ったけど、俺たちだって探していたんだから、いいだろ?」


 正樹は、「別に構わないよ」と答えた後、ワイヤレスチャイムのボタンを押して、店員を呼び出し、生ビールを注文する。


「それで?春美先輩はどうだったの」

 陽子の訊ねる質問には、正樹にとってまだ新鮮な記憶すぎて、人に話すのは照れ臭さがある。


「まぁ、その……あれだよ」


「ちょっと、お膳立てしてあげたんだから、ちゃんと報告くらいしなさいよ!」


 陽子が問い質すと、正樹はその間に運ばれてきた生ビールに口をつけて、ジョッキの半分ほどを飲む。

 その姿がやけ酒なのか、それとも違うのかは、茂雄と純一郎には分かりづらい。


「煩いなぁ、ありがとうってメッセージ送ったくらいなんだから、悪い話じゃなかったに決まっているだろ」


 正樹が伝えると、三人は時を止めたように唖然としていたが、少し後に陽子が、その沈黙を誤魔化すように会話を繋いだ。


「上手くいったってこと?そうなんだ、へぇ……」


「お前、応援しているのか、違うのか、どっちなんだよ」


 陽子は正樹の質問に、「さぁね」と言うだけで、はっきりとは答えず、ジャーマンポテトをフォークで刺してつまみながら、白ワインを飲んでいる。


 その空気を重く捉えた純一郎は、場の雰囲気を変えようとして、ふざけるように話し始めた。


「何だ、上手くいったなら、もう春美先輩とキスでもしたきたか?」


 正樹が純一郎の質問に真顔を見せると、茂雄まで真顔になって、陽子の様子を伺っている。


「えっ、マジでしたの?」

「バカ!してねぇよ」

 茶化そうとする純一郎の質問を、必死で誤魔化そうとする正樹に、陽子は鎌をかけるようなことを言った。


「私、気を遣って言わなかったけど、あんた今、結構口臭いよ」


 正樹は陽子が言ったことに、「え、マジで?」と話しながら、口を抑えた手のひらに息を吐いていると、その姿を見た三人は、声を出して笑い始めた。


「マジ単純、ホントに正樹って分かりやすい」


 正樹は騙されたと思いながらも、ポケットからタブレット菓子を取り出すと、念のために三粒を口に入れる。


「じゃあ、色々と協力してやったんだから、ここは正樹の奢りだな」


 茂雄が冗談交じりにメニュー表を手に取ると、間に受けた正樹は、それを取り上げて追加注文を止めさせた。


「おい、まだ食い物残ってるだろ。まぁ、陽子は一人で待たせたり、悪いことしたからいいけど、お前らは勘弁してくれよ……唯でさえ、これから金がいるんだから」


 意味深な発言に引っ掛かった陽子が、その理由について訊ねると、正樹は春美が大学病院へ通う事について、三人に話した。


「一緒に暮らすって、それってもしかして、結婚するって事?」


「そんなに大袈裟な話ではないけど、やっぱり一人で生活するのは、春美先輩も不安だと思うし、家族だって心配だろうから、やっぱり誰かが一緒に居る方がいいだろ」


 三人は正樹の考えに、今になって反対する事もないが、ただ感情や勢いだけで物事を決めてはいないかだけは、心配になる。


「でも、お前の言う通り、家を借りるのだって、生活するのだって金は必要だろ。ほら、バイトも辞めたみたいだけど、これからどうするんだよ」


 茂雄の質問については、正樹も現実的な事も踏まえているから、迷うことなく考えを話す。


「アパートを借りるとかは、大学の頃からバイトで貯めた金もあるから、どうにかなるよ。それに、春美先輩が云々とかじゃなくても仕事はしないとだから、ちゃんと就職をしようと思っているよ」


 正樹から先を見据えた言葉を聞くと、今のままより目的もはっきりとしているので、本人にとっても良い事てはないかと、茂雄も思う。


「そうか、なら頑張れよ。まぁ、今みたいには頻繁に会えないだろうけど、俺たちも協力するからさ、なぁ陽子?」


 茂雄が意見を問うと、陽子は納得のいかない様子は無さそうだが、何かを考えているように黙っている。


 純一郎が、「やっぱり反対なのか?」と聞いて訊ねると、陽子はかぶりを振って、質問を否定し、自分の考えていることを述べた。


「ねぇ次の日曜日、もう一回五人で集まろうよ」


 正樹が「急にどうしたんだ?」と、突然の提案について訊くと、陽子は考えの続きを皆に話した。


「なんか、めでたし、めでたしみたいになってるけど、そもそもは、あんたと春美先輩がくっ付くのが目的じゃなくて、裕介が手紙に書いていた事を知りたかったんでしょ?だったら、それを読んでから、ちゃんと望みを叶えている姿を裕介に見せないと……だって、中学生の頃の私たちは、裕介が願っていた事を、ちゃんと出来なかったんだから」


 陽子の意見について、批判する者は誰もいなかった。

 むしろ男三人は話を聞いて、そこまでの考えに至らなかった自分たちを浅はかに思う。


「そうだな……裕介の為にも、自分らの為にも、あの時のままで終わらせたら駄目だよな……」


「そうだよ……ちゃんと聴かせてあげよう、私たちの音楽」

 陽子が裕介の楽譜入れを皆に見せると、正樹も、茂雄も、純一郎も、その一冊に裕介本人を見るような眼差しを向けて、皆が同じ気持ちであるのを示した。

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