第35話 春色のそらごとに(2)
正樹は春美を抱きしめながら、このまま彼女の辛さや苦しみも、全てを受け止めることで、自分へ移し替えることができたらと思った。
「これからは、先輩が悩んでいる事は、全部僕に、いや、僕と裕介に話して下さい……」
春美はその言葉を聞くと、寄せていた体を離して、正樹の顔を見つめた。
残った涙を瞳に潤ませながら、見つめてくる春美に、正樹は優しく微笑んで応える。
「正樹君……ありがとう」
正樹は涙を拭かせようとして、ハンカチを取り出す素振りを見せるものの、普段からそのような品を持ち歩いている訳ではないので、ポケットを手で叩いて、困った素振りを見せる。
春美はその仕草を見ると、込み上ていた悲しみが少し治まり、クスクスと笑いながら、シャツの袖で涙を拭った。
それから二人は、公園のベンチに肩を並べて座ると、互いに何を話せば良いのかと迷いながら、夜の中に隠れた桜の木に目を向けて、会話のない時間を誤魔化す。
数分前に、あれだけ力強く抱きしめた春美の身体でも、平静になると、その記憶が余計に緊張感を高め、肩と肩が触れる度に、正樹の心を困惑させる。
「もうすぐ、いっぱいに咲くね」
その声を聞いて正樹が目を向けると、春美は横顔を見せたまま、桜の木を指差した。
「あぁ、桜……そうですね」
正樹は夜空に浮かぶ月を見つけると、あの光がもう少だけ近くにいてくれれば、桜の木も暗がりの中で過ごさずに済むのに……と、考えていたら、月の存在が少し意地悪な奴に見えて、春美にとって自分が、あのようになってはいけないと思わされる。
「陽子がね、いい事を言ってましたよ。桜の花は、嫌だったことも、悲しかったことも花びらと一緒に散らして、全部嘘だったことにしてくれるって……」
正樹が目を合わせると、春美はすっかり涙を止めていて、いつも通りの笑顔を見せた。
「そうなんだ。何だか桜って、正樹君のことみたいだね」
さらりと言った春美の言葉が、正樹には、物凄く照れ臭い。
「何か、そう言われると恥ずかしいなぁ……でも、僕はちょっと違います。嫌だったことも、悲しかったことも、全部受け止めて、嘘にはしません。僕が、春美先輩の傍にいたいと思う気持ちは、本当です」
熱心に語る正樹を見ながら、春美は何処かいたずらな笑顔を見せている。
「でも、今日はエイプリル・フールだよ?」
正樹は、春美の言うことに足元を掬われた気持ちになると、それについて動揺を隠せなかった。
「違います!本当に嘘じゃありません。そう言うなら、僕は先輩が大嫌いです、傍になんていたくありません、それに……」
春美は、躍起になって話す正樹のことを可笑しげに見ながら、揶揄うような態度をとる。
「それで……何?」
「僕は……春美先輩なんて、愛していません……」
あべこべの言葉に込められた意味が、春美の時を止めている隙に、正樹は唇を寄せて触れ合わせた。
突然の出来事に春美は、目を閉じる余裕もなく、長く触れ合う時間の中で、ゆっくりと瞼を下ろして唇を委ねる。
正樹はゆっくりと唇を離すと、自分でも突然と駆り立てた衝動に戸惑った。
「ごめんなさい、突然……」
「本当よ、何の心構えも無しで……ファーストキスだったのに」
春美は目を背けて話しているが、正樹は驚いた言葉に、目を見開いて春美の横顔を見る。
「え、本当ですか?」
春美は正樹の質問に、少し考えた間を開けると、クスクスと笑いながら、「嘘だよ」と答えた。
「それは、本当がよかったな……」
学生のわけでもないから、それは考える必要もなく当たり前のことであるが、正樹はその嘘に後味の悪い嫉妬を覚える。
「じゃあ、その嘘がうそ」
「どっちなんですか……」
正樹はその嘘について、答えを桜の蕾に委ねたが、暗闇はその答えを隠していた。
「私ね、本当は今の病院よりも、もっと大きい大学病院で診てもらうのを、北原先生に勧められているの」
春美の話すことが冗談から離れると、正樹の気持ちも、襟を正して話に向き合う。
「そうなんですか……」
「うん、でもね、ここからだと、少し通院するには遠くて、今はいいけど、一人で通うには途中で何が起きるかわからないって、お父さんは心配するの……お母さんは、病院の近くにアパートを借りて、一緒に暮らそうって言ってるけど、私の為に家族が離れて暮らすのは、ちょっと嫌だから……」
正樹は、春美が見せる重々しい雰囲気に、曖昧な台詞や、空気を変えて話すのも不真面目なことに捉えると、今に見合った言葉で会話を繋げる。
「そんなに遠いんですか……その病院」
「ううん、普通に考えれば、そんなことないんだけど、ここからだと通院に二時間近くはかかるし、毎日のように通うのは心配みたい。だから、本当は一人で住めればいいんだけど、それはそれで家族に心配かけちゃうでしょ?だから、どうしようかなって、北原先生と話をしていたの」
春美の悩みがそのような事ならば、正樹は選択肢を考える必要もなく、答えには一本道を歩くような話しだった。
「なら、僕と一緒に暮らしませんか?それなら、先輩を一人にさせることもないし、家の人は僕なんかじゃ心配かもしれないけど、ちゃんと挨拶にも行きます。だから、春美先輩にとって、一番いい方法で治療した方がいいですよ」
春美は、正樹が提案する事に、「でも、それじゃあ……」と言って、迷いを見せる。
「はっきり言いますけど、何でもかんでも春美先輩の為にしている訳ではないんです。僕に出来ることはできる。でも、出来ないことは、できません。その出来ることをするのは、僕がそうしたいから、そうするだけなんです」
正樹が、真剣な眼差しで語るのを見ると、春美はそれを拒むことも、否定することもなく、目を合わせて微笑むことで、その優しさに応えた。
「ねぇ、一つだけ言ってもいい?」
春美は、正樹の見せる直向きな眼差しに向かって、自分の気持ちを述べようとする。
「何ですか?」
「あのね、私、いつ病気が酷くなるのか分からないけど、別に生き急いでいる訳ではないよ。だって、今のだって突然だったし……それで、一緒に暮らすことや、親に挨拶するとかまで一遍に話されたら、それこそ人生が早く終わっちゃいそうで嫌だよ」
正樹にとっては、春美の悩みを真摯に受け止めて応えていたつもりであったが、それに対して忠告を受けると、確かに答えを求めることを急ぎすぎたかと、ばつの悪い気持ちになる。
「ごめんなさい……全然そんなつもりじゃなくて……」
「気持ちは嬉しいけど、ほら、こうして過ごしている時間は、もっと大切にしたいから……そんなに急いだら、折角の思い出なのに、病気じゃなくたって私の心に残らないよ」
春美はそう言って瞼を閉じると、今度は自ら唇を求めた。
正樹はそれに応えて唇を寄せると、柔らかく触れ合う一時に、この時間が、春美の記憶から永遠に消えないことを願った。
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