第34話 春色のそらごとに(1)
正樹は、がむしゃらになって走っていると、揺れる身体に感情を昂らせ、乱れる息が理性を忘れさせていた。
今、向かっている場所には、これまでの出来事に終わりを告げる為ではなく、これからの春美と自分が、前に進む為に向かう場所だと、情熱的な自分が言っている。
会って何を話すかなどは考えていないが、言葉を選ばなければ、心の中にある伝えたいことは一つなので、気持ちに迷いはなかった。
目的地を定められた訳でもなく、ただ本能のまま向かっていたように、春美の家に向かっていると、近くまで来た所で、公園のベンチに座っている女性の姿を見つけた。
「正樹君……」
静かな夜の町に、正樹が慌ただしい足音を響かせていたのが目立ったのか、それに気が付いて立ち上った女性を見ると、名前を呼んでいるのは春美だった。
正樹は、公園に足を踏み入れて直ぐに立ち止まると、春美とは少しだけ距離を置いて、荒れた息を整える。
俯かせる顔を上げて、公園の入り口に立っていた桜の木に目を向けると、また蕾が色を付けて花を咲かせようとしているのを見つけた。
正樹は、言葉を口にする準備をしながら、春美に視線を移すと、背後には裕介の姿もいるように見える。
だが、それはまぼろしや幻覚などではなく、正樹が今、一番伝えたいと思っている事が、その姿を心に映していた。
「裕介……お前、もういいから……春美先輩のことは俺が守って行くから、だから心配しないで、お前は俺の所に来い……」
正樹が突然言い出したことに、春美も驚きを隠せなかった。
それを冗談と捉えるべきか、本心として聞き入れるべきかも判断できず、ただ、分からないと思うことだけが言葉になる。
「ちょっと……正樹君、どうしたの?何を言っているのよ」
春美が話しても、正樹はその言葉に対しては応えようとせず、揺るぎない気持ちだけを、眼差しに込めて伝えている。
「俺は、これからもずっと、春美先輩のことを守って行きたいと思ってる。でも、それは、お前に言われたからじゃなくて、自分で決めたことだ。それでもいいだろ?」
春美には、正樹が自分に気持ちを向けて言っているようにも聞こえないが、それが心には直球すぎるほど響いて、余計に胸を締め付けた。
裕介が最期に残していた言葉が、正樹に伝わったことが分かると、胸のつかえが取り除かれて、春美の気持ちを楽にさせた。
けれど、それを知らせたことで正樹に持たせた感情を、春美は優しさとして受け取れず、自分がこれから歩く下り坂を想像させた人生に、同情を持ちかけて付き合わせるのは、人からの哀れみを弱った心の餌にして、甘えることに思えていた。
「でも、やっぱり正樹君に、ずっと私の傍にいてなんて、言えないよ……」
正樹は大きな溜息を吐くと、余計な考えを払い除けるように頭を揺さぶり、乱れる感情をふるいに掛けた。
春美の謙虚で、人に優しく、誰にも甘えることのない強さが、今は邪魔に思えて仕方がない。
けれど今、自分が訴え掛けているのが裕介だと思えば、春美の気持ちに惑わされる必要はないと思い直す。
「だってよ、裕介……それでも俺は、お前の願いに応えたいし、ずっと春美先輩の傍から離れないって決めたから……だから、お前は俺に力を貸してくれよ……なぁ、いいだろ」
春美は、正樹の揺るがない気持ちを痛切に感じると、溢れそうになる涙をぐっと堪えて、自分に言い聞かせた。
ダメ、絶対にダメ……と、自分の気持ちに言い聞かせると、隙を見せた心から、欲を退けて追い払う。
「ありがとう、正樹君……でも、私のことはもういいから、もっと自分を大切にして……」
正樹の耳に届く春美の声は、聞こえる言葉を変えていても、伝わる意味は変わらない。
それが再び、正樹の想いを制御しようとして理性に呼びかけると、刺激された心の衝動が、全ての感情を払い除けて叫び出した。
「俺は、裕介に聞いてるんだよ!だから、お前が答えろよ!」
自分の前では、いつも冷静を保って見せている正樹が、あまりにも感情的に話しているのを見ると、正樹が話し掛けている相手は、本当に裕介なのではないかと、春美は思えてきた。
そう考え始めると、本心を抑圧していた名目の気持ちが、ほつれるように解けてゆき、縛り付けていた心に自由を与える。
そして、正樹が訴え掛けているのが裕介ならば、それに嘘の気持ちで応えるのは、裕介にも嘘を付かせていることになると、春美は思った。
「じゃあ……本当に、はるちゃんの事、これからもずっと、守ってくれるの……」
その言葉を聞いて正樹は、何も言わずにただ頷いて応えると、春美は堪えていた涙を声に出して曝けながら、正樹に駆け寄って身を委ねた。
「本当は、凄く怖かったの……自分の記憶が無くなっちゃって、裕介君から貰った命まで、私が道連れにして無くなっちゃうのが怖くて……でも、その事を誰にも言えなかった」
涙声に言葉を詰まらせながら、堪えていた気持ちを打ち明かす春美のことを、正樹は両腕で強く抱きしめる。
「大丈夫です……その命、今度は僕が貰いますから……」
桜の蕾は、まだ花を咲かせていなかった。
それが正樹には、今、自分が語り掛けていたのは裕介であったのが、嘘ではなかったように思わせた。
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