第33話 手紙の行方(5)

 正樹にとって、このメッセージの相手は、たとえ常識が別の人物だと理解していても、心の中には裕介の存在を植え付けられていた。


 裕介からメッセージが送られてくるようになってから、暗がりの中に立ち止まっていた正樹は、明かりの灯る場所を探して歩き始めた。


 過去の友人と再会することも、春美に再び心を寄せたことも、再び音楽と向き合ったことも、全て裕介が背中を押していた。


 正樹の人生において、掛け替えのない存在である裕介と、二度も永遠の別れを経験しなければならないことが神の定めだとすれば、その存在にすら憎しみを覚える。


 涙ぼやけた目に映り込んだ桜の木には、蕾だった花が、淡い色を見せて咲き始めている。

 正樹は、昨夜、陽子が言っていた言葉を思い出すと、桜の木は、世の中から嘘が消える度に、蕾を花に変えているように思えた。


 しかし、裕介との別れがどんなに辛いことであっても、いつまでも悲しみに身を添わせていられなかった。

 正樹は、悲痛する気持ちを堪えながら、陽子にメッセージを送り、再び裕介の楽譜入れを見せてほしいと頼んだ。


 午後七時、正樹は昨日と同じファミレスで、陽子と待ち合わせた。

 待ち合わせ時間に来た陽子は、メッセージで、詳しい事は会ってから話すと伝えられただけなので、突然呼び出されたことを不思議に思う。


 ひとまず、早く見せてくれと言ってせがむ正樹の焦る理由を、陽子は何も分からないまま要求に従い、バッグから楽譜入れを取り出して渡した。


「ねぇ、だからさ、一体どうしたのよ?」


「いゃ、ゴメン、ちょっと自分でも色々と混乱していて……とにかく見てからじゃないと、何て説明すればいいのか分からないんだ」


 正樹は慌てた気持ちのまま、楽譜入れの頁を捲ると、『戦いの組曲』の楽譜を見つけた所で手を止めた。


 じっと見つめていると、昨日はそこまで気付けなかったが、楽譜には手紙のように折り畳んだ後が、うっすらと残っているのが分かる。

 それは、正樹の宛名が書かれた封筒に入っていたのが、この楽譜であったのを示した跡だった。


 正樹の手が突然、小刻みに震え始めた。

 この楽譜の裏には、裕介が最期に言いたかった事が綴られているのを考えると、その内容を知ることが、急に怖くなった。


 探し求めていた物が見つかり、本当ならば直ぐに手紙の内容を知りたいはずだが、これには良いことが書かれている想像は全く付かず、裕介の苦しみに気付けなかった事への恨み辛みが込められているように思えると、正樹は自分の愚かさを突きつけられる恐怖を覚える。


「ねぇ、ちゃんと説明して……」


 たじろぐ姿を見せられるだけで、何の説明も無い事に対して陽子が問うと、正樹は心の準備をする為の時間を稼ぐように、口を動かした。


「春美先輩から……いや、裕介からのメッセージで、この楽譜の裏側に、言いたかった事が書いてあるって、送られて来たんだ。よく見ろよ、これ折跡があるだろ……多分、封筒の中に入っていたのが、この楽譜なんだよ」


 そう言いながらも、正樹は一向にフィルムシートの中から楽譜を取り出そうとせず、ただ開いた頁を見つめているだけなのが、陽子にはもどかしい。


「大丈夫?何なら、私が先に見ようか……」


 正樹は、陽子に内容を確認してもらうことも考えたが、頭の中に裕介の姿が思い浮かぶと、書かれていることを自分の目で確かめて、切実に受け止めなければなければ、親友への想いが全て嘘になることに思うと、意を決して心の弱さを打ち砕いた。


「いや、自分で読むよ。裕介が言いたかった事は何なのか、ちゃんと読んで受け止めないと……」


 正樹は楽譜をフィルムシートから取り出すと、台紙に重なっていると分からなかったが、裏に書かれている文字が、五線譜の隙間に光で透かされる。

 うっすらと浮かび上がった反転する文字を、裏返して正しく見せると、『正樹へ』の書き出しから始まる、裕介の字を目で追った。


 正樹へ


 急にこんな手紙を書いて、ゴメンなさい。

 でも僕にとって正樹は大切な友達だし、もちろん、みんなのことも大好きだから、どうしても、ありがとうって言いたかった。


 今まで本当にありがとう。

 僕は、生きているのが嫌だと思った時でも、やっぱり明日も生きていたいと思えたのは、正樹やみんながいてくれたからです。


 みんなといる時は、生きていることがすごく楽しくて、だから夜になって、一緒にいられない時間がとても怖くて、でも朝になれば、また会えると思えば、一人でいる時間をがんばることができた。


 でもね、僕のがんばれる気持ちは、いつとぎれてしまうかわからないから、この楽譜は春美先輩に渡します。


 じゃあ、こんな落書きするなよって思うかもしれないけど、これを春美先輩……はるちゃんにも読んでほしかったんだ。


 僕がいなくなって、それでコンテストに出られなくなったら、僕は自分が死んだことを後悔するから、僕の命は、はるちゃんにあげます。それなら僕がメンバーから抜けることにならないと思うから。


 それに、僕の命ではるちゃんを守れるなら、近くて見守っていたいし、それができない時は、正樹にも助けてほしい。


 だって、正樹は僕に言わないけど、はるちゃんのことが好きでしょ?

 僕だって、はるちゃんのことが大好きです。

 正樹みたいな好きとかじゃないけど、僕にとっても、はるちゃんは大切な人だから。


 正樹は僕の一番大切な友達だから、もしもはるちゃんが、困っていることや、悩んでいることがあったら、僕が何もできなくても、正樹ならきっと助けてくれるって思う。


 勝手かもしれないけど、これが最後のお願いだと思って、聞いて下さい。


 僕は、はるちゃんと絶対に死なないって約束したことを守れません。

 もし、本当に天国があったら、約束を破ったことや、みんなとコンテストにでられなかったことを、そこで後悔するかもしれないけど、はるちゃんが僕の分まで生きていてくれれば、それで僕も生きられるから、約束を破ったことにやらないし、みんなと一緒に演奏することもできます。


 でも、僕のことで、はるちゃんが苦しんてたり、悩んだりしていたら、正樹から僕のことを忘れろと言って下さい。

 ただ僕は、はるちゃんのことが大切なだけだから。


 正樹は、裕介が最期に残した願いを読み終えると、様々な感情が駆け巡る気持ちから、溢れ出す大粒の涙を、霰のように零れ落とした。


 それは、裕介に恨まれていなかった事への安堵感でもあり、春美が成り済ましメッセージを送っていた理由に気付いた開放感、そして、二度と会えない裕介のことを考えて込み上げる悲哀感などが、心の中を入り乱れる。


 けれど、涙が溢れる一番の理由は、裕介が願うようなことを、中学時代の正樹には何もできてなく、春美のことを裕介が自殺した根元と思いながら、邪険にして扱っていた。

 そして、自らの意思で春美のことを守りたいと思っている今でも、こうして裕介に気付かされなければ、春美の気持ちを知ることも出来ない自分への無力さと悔しさが、心に激しく痛みを与える。


 陽子も、楽譜の裏に綴られた遺文を読んで悲しみが込み上げてくると、正樹の悲しみには気を遣うように、涙する声を殺した。


「きっと春美先輩は、ずっと裕介の命を一人で背負っていて、なのに自分まで病気になったら、裕介の命が行き場を無くしてしまうと思ったから、正樹にメッセージを送ったんだよ……」


 メッセージについての理由は、正樹も陽子と同じ考えだった。

 そして、春海がこの手紙を隠していた理由は、裕介の願いを隠すためだったと、正樹は思う。


 正しく考えれば、隠していたのではなく、陽子に楽譜入れを預けたことで、裕介に自分が書いた返事も渡ったつもりでいたが、それは春美の思い違いだったのだろう。


 春美は、裕介にコンテストのメンバーとして頑張ってほしかったから、楽譜も返したし、手紙に書かれているような、自分を守ってもらう事など、望んでいなかった。


 だから、メンバーに加わる事を拒否していたし、それを裕介にも伝えていたが、その思いは伝わらずに、裕介は自殺してしまい、最期に書いた手紙まで突き返すような結末になってしまったのを、ずっと後悔していたのだろう。


 けれど病気を知らされて、自分の中に残された、裕介の存在が薄れていくことへの恐怖心や、最期の手紙について話さないまま、記憶が消えてしまうことの罪悪感に苛まされていたが、裕介の願いを伝えることにより、自分のことに余計な責任感を持たせたくはないと心を葛藤させていたのが、これまでの春美から悟れることと、一文の内容から読み取れる。


「どうするの、正樹……裕介の願い通りにしたいんじゃないの?」


 正樹は、春美がこの手紙ついて話すことを決めた理由に対して、自分がどのように接するべきか考えていると、陽子は鞄から自分のスマートフォンを取り出して、何処かへ電話をし始めた。


「あ、春美先輩、あの、なんか正樹が話したいことがあるみたいなんで、今から、向かわせていいですか?あ、はい、十分、いや五分だけでいいんで、お願いします」


 正樹は、仕出かされたことに唖然とするが、陽子は平然とした態度で電話を切った後、自分の取った行いについて説明もせず、「ほら、早く行きなさいよ」と言って、正樹を促した。


「何、勝手なことしてんだよ!」


「こんなの頭で考える事じゃなくて、気持ちで動くものでしょ!考えてる暇があったら、さっさと行って、思ってること話してきなさいよ!」


 陽子がしたことは、余計なお世話だとも思えたが、これは悪ふざけや悪戯でしていることではなく、彼女なりの愛情表現だと、正樹は解釈する。

 仮にも、自分に想いを伝えていた陽子が、春美への想いを応援している気持ちを考えれば、その優しさを非難することなど出来なかった。


「言われなくても、分かってるよ!」


 正樹は、素直な態度を見せることはできないが、陽子の気持ちを真摯に受け止めると、自分が素直に思っている感情だけを気持ちに残して、春美の所へ向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る