第32話 手紙の行方(4)
春美の気持ちが落ち着いてくると、正樹は春美の体に触れていた手を離し、机の上に置いてあったハンカチを手渡して、涙の残りを拭かせた。
「あ……今日はもう、帰りますね。先輩も、ゆっくり休んで下さい……」
自分の想いを伝え切った正樹だが、今は答えを求めるような雰囲気ではないのを感じ取ると、他の質問なども見送ることにして、部屋を後にした。
扉を開けた部屋の外では、幸恵が心配そうな表情で、姉の様子を伺っていた。
「お姉ちゃん、大丈夫ですか……」
部屋にいる春美に悟られないように、小声で訊ねてくる幸恵に対して、正樹は安静なことを頷いて伝えた。
春美が大量に薬を飲んだことを思い出して、不安そうにしている幸恵を一人にする訳にもいかず、二人はひとまず階段を降りて、リビングへ場所を移した。
コーヒーを入れるから、椅子に座って待つように言った幸恵の好意を、正樹は気持ちだけ受け取り、腰を浮かせたままで話し続ける。
「お姉ちゃん、凄く泣いていたみたいですけど、大丈夫なんですか?」
「大丈夫。でも、今は不安なことも沢山あるみたいだから、時々様子を見てあげて」
正樹は、姉思いの優しい妹だと思いながら話に応えているうちに、ふと、幸恵はいつから部屋の前に居たのかが気になってしまう。
「あのさぁ、もしかして、ずっと話を聞いていたの?」
探りを入れるように訊ねる正樹の態度に、幸恵は意地悪く、ほくそ笑んでいる。
「さぁ?それは、どうですかね……」
話を聞かれていたことに確信を持った正樹は、赤面する顔を少しでも誤魔化そうとして、幸恵から目を背けた。
「でも、本当は喜ぶことなんだけど、お姉ちゃんの気持ちを考えると、良かったねなんて、言えないな……」
幸恵の言ったことを意味深に捉えた正樹は、背けていた顔を戻して、疑問を投げかけた。
「どういう意味、それ?」
「だって、先輩に好きだって言われて、きっとお姉ちゃん、凄く嬉しいはずなんですよ。でも、今の自分を考えたら素直に受け止められない気持ちがあるのは、私にも分かります……あ、ちょっと待っていて下さいね」
幸恵が再び階段を上って行くと、正樹は、何に待たされているのか分からないまま、窓際にある観葉植物に目を向けて、おぼろげな時間に背景を作る。
五分ほど待って幸恵が戻ってくると、何の説明もせずに、手に持っている一冊の漫画本を正樹に差し出した。
「何、これ?」
「あ、これ、私が小学生の頃にハマっていた漫画なんですけど、本の事はどうでもいいんです。それよりも見せたいのは、別の物なんですよ。ちょっと、真ん中くらいのページを開いて下さい」
正樹が本の小口に親指を滑らしながら、無造作にページを捲ると、四つ折りになっている紙が挟まっていた所で、指が引っ掛かる。
それを取って開くと、便箋に書いている字が、筆跡から裕介であるのが直ぐに分かった。
・正樹がトランペット以外に好きな物
食べ物:唐揚げとハンバーグ
漫画:ONE PIECEとルーキーズ
アーティスト:GReeeeN
芸能人:ダウンタウン(意外にお笑いが好き)
スポーツ:野球(ルーキーズの影響)
女性のタイプ:たぶん、はるちゃんみたいな人(笑)
・以上、これは僕から聞いたって、言っちゃダメだよ。
正樹は、手紙の内容から自分の事が書かれているのは分かったが、裕介が何の為に書いた物なのかは、全くもって読み取れない。
「これ昔に、お姉ちゃんが私の本だってこと言わないで、裕介さんに貸したみたいなんですけど、返してもらったら、これが挟まってたんです。でも私、これ読んじゃったから気まずくて、お姉ちゃんに渡せなかったんですよ。それに、大した内容でもなかったし。でも、後になって『ははぁ、さては……』って、思ったんですよね」
幸恵は口元をニヤニヤとさせながら話しているが、正樹には、その笑みを見せる理由が理解し難い。
「どういう意味?」
「分からないんですか?多分、お姉ちゃんは、前から先輩のことが気になっていたんですよ。裕介さんはそれを知っていたから、これを教えようとしたみたいですけど、残念なことに、読んだのが私だったんですね……まぁ、その時は小学生だったから、あんまり意識してなかったけど、好きなタイプがお姉ちゃんみたいな人って書いてあるの読んだら、何だか恥ずかしくなっちゃって、渡せなかったんです」
正樹は手紙を読んで、その内容には恥ずかしさもあるが、もし、幸恵の言うことが本当であり、今でも春美がその気持ちでいてくれたなら、こんなに嬉しいことはないと、思わず笑みを溢してしまう。
「あいつ、余計なことをしやがって……」
「だから、私は先輩にお姉ちゃんの支えになってあげて欲しいけど、本人は素直に喜べないですよね……私が同じ立場だったらって思うと、お姉ちゃんの気持ちが分かりますよ……」
正樹は、自分の気持ちを幸恵に話したりはしないが、たとえ特別な男として受け入れられないとしても、春美にとって悪影響を及ぼすような存在にならない限りは、傍にいると決めたことに変わりはなかった。
春美の家を出た正樹は、昼下がりの町並みを歩きながら、これから春美と、どうやって向き合って行くのかを考えていた。
今日は一方的に自分の想いを伝えただけだから、その気持ちが春美を不愉快なにさせていないのならば、どうにかして不安を取り除くことはできないのかと、頭を悩ませる。
普通の恋ならば、想いを伝えれば結果が分かることでも、抱えている悩みの多い春美が相手では、正樹も感情を曝け出せば良い訳でないのを理解していた。
スマートフォンを見ると、今日の日付が四月一日であるのを示している。
正樹はその日付から、今日がエイプリル・フールであったことに気が付いた。
それを考えると、さっき春美に言ったことも、嘘だと捉えられていないか……なんて事を考えていると、スマートフォンの画面に表示された通知が、裕介からのメッセージが届いたのを知らせた。
《ゆうすけ:今日はエイプリル・フールだね》
いつも裕介からのメッセージは、心の中を読まれているようであり、その不思議さには、これが春美から送られてい可能性の高いメッセージである事を忘れそうになる。
《マサキ:そうだね。でも、僕は今日、本当の事を言いました》
正樹は送ったメッセージについて、それが裕介に送ったのか、春美に伝えたのかなどの分別は無かった。
誰に送るメッセージだろうが、これはただ、自分が思っていることを文字に変えただけだと考えながら送信すると、既読になったメッセージには、長い間をあけることなく返信が来た。
《ゆうすけ:そうだよね、別にみんなが嘘を付く日に、本当のことを言ったっていいよね》
そのメッセージに対しては、正樹も思いつきの考えだけで返信をできなかった。
この文から読み取れるのは、メッセージの相手が、本当は裕介でないことを打ち明けられるとしか思い浮かばない。
これから送る言葉次第では、このやりとりに終わりを告げることを考えると、本当に裕介が消えてしまうように思えてくる。
けれど、メッセージを送り続けていることが、春美を苦しめているとするならば、早くこの嘘から解放させたいと思う気持ちは、寂しさを取り繕っている欲望を上回った。
《マサキ:あたりまえだろ!本当の事を言っちゃいけない日なんて、あるもんか!》
正樹は意を決して返信すると、また直ぐに既読となり、今度は立て続けにメッセージが届いた。
《ゆうすけ:そうだよね、じゃあ僕も、エイプリル・フールだけど、本当の事を言います》
《ゆうすけ:僕の楽譜入れの中に入っている『戦いの組曲』の楽譜、最後のページの裏を見て》
《ゆうすけ:そこに、僕が言いたかったことが書いてあるから。それを読んでくれたら、僕が正樹にメッセージを送る理由は無くなります》
《ゆうすけ:それは寂しいけど、もう嘘はつきたくないから……バイバイ》
別れを告げる言葉を最後にして、メッセージは送られて来なかった。
正樹は最後の文から目が離せないまま、顔を俯かせていると、ガラスのディスプレイには涙の粒が滴り落ちた。
この別れを、嘘との決別だと頭の中で分かっていても、メッセージから浮かぶ相手の姿は春美でなく、憂い帯びた顔を見せて手を振りながら、姿を霞ませて消えてゆく裕介だった。
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