女装ショタは海へ祈った
夏山茂樹
男教師は女装ショタを救えるか?
幸せとは探したり求めたりするものではなく、ある日ふとその存在に気づくものである。決して神様という存在には祈ってならない。心の依代ができるとそれに依存してしまうからだ。それがまやかしだと気づいたとき、自分の足で立って歩くことができるか分からないからだ。
数年前、私はそんな思想を持ってキリスト教系の小学校に赴任した。その小学校はある程度栄えた港町に立つ山の中にあり、小学校を運営する児童養護施設の敷地内に入っていた。
キリスト教の信者が、明治時代から昭和時代の間に自身の思想を布教する意図で作ったキリスト教の学校は日本中に存在するが、私が赴任した小学校は平成になってから作られたものだった。
まだまだ新そうな校舎の前で、新学期に入る前に施設を見学することになっていた私は職員室の中で打ち合わせをしていた。
「これが君の受け持つクラスの出席表です」
ご立派な革製のケースに包まれた出席表は、以前私が通勤していた小学校のそれよりも随分と薄い。
「かなり薄い出席表ですね。児童が少ないのは伺っていましたが、私が想像していたものよりも薄い」
私がそう言うと、教頭は眉を潜めて作り笑いで答えた。
「この小学校はかなり特殊で、児童の細かい情報や出欠については専用のアプリで保存しています。そのアプリはもちろん公にしていないので後でダウンロード方法を教えますね」
「そうなんですね。それは失礼しました」
私は、自分の横に立って小学校での教師が使う小学校専用のアプリやタブレットの使い方を教えている教頭から色々なことを教わった。
教師間のコミュニケーションに使われるアプリや成績表作成アプリなど、インターネットやコンピュータの進化によりかなり簡略化された教師の仕事を学んだが、一番重要なのは教え子に関することだった。
「相沢咲、小野寺圭人、楓紗子、木村ゆき、梔子伝(くちなし つたえ)、桜野琳音……りんね?」
「ああ、桜野くんね。この子はレッテだから児童のケアの中でもかなり気を使わないといけません。その前の伝ちゃんもレッテなんですが、みんな彼女の場面緘黙のことは知ってますから大丈夫です」
「伝ちゃんも場面緘黙……。公の前では言葉を発せないということですよね? その子もちゃんとフォローしてあげないといけないのでは……」
「まあそうなんですけど、施設の子供たちの前ではちゃんと会話してますし、クラス内の同級生とも会話はできています。それよりも桜野くんの方が問題ありなんですよ」
すると教頭が私に深刻そうな顔をして桜野琳音という児童の問題点について話し始めた。
「桜野くんも伝ちゃんと同じ施設の子で、今は親のいない子供なんですが……。数年前、大阪で起きた事件のことを柚木先生は覚えていますでしょうか? レッテの父親が夜の公園で殺され、幼かった息子も重傷を負った事件なんですけどね……」
「ああ、覚えていますよ。あの時はかなりマスコミがうるさかった記憶がありますね。その事件がどうしたのですか?」
「苗字は違うのですが、実は重傷を負った息子というのが桜野くんでして……。『桜野』というのも担当した医師が付けた苗字なんですよ」
「えっ、確か父親の苗字は分かっているはずですよね。確か光場(ひかりば)さんだったような……」
「これは公にされていないことなんですが、本当の光場は事件当時既になくなっていて、身元が不明なんですよ。それなのに警察は父親の身元を探す気配さえない。琳音という名前は警察が本人から聞いて判明した。それと、彼についてはそれ以外にもありますよね」
「すみません。私はマスコミと警察が苦手で、そういう話は避けているので」
「……では、新学期に本人を見るといいですよ」
教頭が私を睨みつけてニタリと笑う。癖の強い笑い方に苦笑いしながらも、私はその日はオリエンテーションを終えた。
さて翌日の朝、教室に入ると十一人の児童が私をじっと見つめていた。二十四の瞳ならぬ二十二の瞳が私に集中する。その様に私は内心ヒヤヒヤしていたが、みんなお行儀よく黙って私が話すのを待っていた。
沈黙の中、私は教壇に立ち出席を取る。
「相沢咲」
「はい」
「小野寺圭人」
「はい」
数名の名を呼ぶだけなのに伝と琳音のところに入る時、私は緊張のあまり思わず噛んでしまった。
「くちなち……梔子伝」
「はい……」
確かに小さくだが、少女の幼い声が聞こえた。私が噛んだというのに、クラスの児童たちはみんな私に呼ばれるのを待っている。その良い子らしさが逆に沈黙の圧となって私の心に重くのしかかる。
「桜野琳音」
「はい。ねえ先生、名前は何ていうの?」
琳音のボーイソプラノが生意気に私をなじってくる。内心イラッとして、私は声のする方を見つめた。するとそこには女子児童の着るワンピース型のセーラー服を着た子供が座っていた。黒く長い髪、虚ろに光る右側の猫目、新雪のように白い肌。どこか垢抜けた、大人らしい美しさを持った少女の姿をして、私の方をニヤリと笑っている。
「君が桜野琳音か?」
私は琳音が男だというのを教頭から聞いていたから、思わず混乱して何も言葉にできないでいた。ちょうどそこを突くように、琳音が大きな声で嘲笑を含んだ笑いをもって私に聞いてくる。
「名前と外見で女だと思ったの? 残念、男でしたー!」
すると今まで黙っていたクラスの児童たちがどっと笑い出し、場面緘黙の伝さえも声を出さずに笑っていた。
「どうして女の子の格好をしてるんだ? もしかしてトランスジェンダーなのか?」
「教頭から聞いてないんだ。あのハゲ頭もバカだなあ。レッテの中には男子に女装させて育てる集団もあるの。たまたまおれがそれだっただけ!」
爛々と輝く大きな猫目が勝ち誇ったような顔をして私を見つめる。その顔に見覚えがあったのだが、私はそれよりも怒りの方が勝ってしまった。
「琳音、それが教師にすることか?」
「今までの先生たち、みんなおれの洗礼を受けて逃げてったんですよ。先生はいつまでここに居られるかな? あ、あと名前名乗ってくださいよ」
「私は柚木藍。藍色と書いて『らん』だ。これから一年間、みんなよろしくな」
「らん……コ○ンの角ある姉ちゃんなの? 空手できるぅ?」
「琳音……てめえ……」
その時、心臓がドクンと大きな音を立てた。その音が聞こえ、耳鳴りがキーンと鳴り出す。教え子たちの嘲笑が騒音に聞こえ、尚更体は重くなる。
そして私は教壇の上で意識を失い、そのまま倒れた。
「…………」
夢を見ていた。琳音をさらに幼くしたような子供が私に抱きついて泣いている。私とその子供がいたのは厚いカーテンで光を閉じた暗い部屋で、陽の光一筋通ることさえ許さない。
「藍兄ちゃん、なんで外に出ちゃいけないの?」
「……それは……、お外は危険だからだよ。太陽の下を歩けばお前の皮膚は溶けるし、お前をさらって殺そうとする大人もいる」
「パッパもそう言ってぼくを怒るんだ。藍兄ちゃんは味方だと思ってたのに……ひどいよ……」
ひだの多いワンピースを着た子供はひたすら泣きじゃくって外へ出ようと必死だ。私はその必死さに胸打たれたのか。とうとう折れて言った。
「じゃあ外に出ようか。レインコートを羽織って、日傘を持つんだぞ?」
「うん……」
それから子供は泣き止んで、私に微笑みかけた。まだ歯が抜けない乳歯を見せて子供は笑った。ぽとり。子供の瞳に溜めていた涙が左眼から一筋の線となってこぼれ落ちた。
「……こんな子もいたな」
私が呟くと、何故か自然と瞳が開けて、うっすらと視界が開ていく。気がつくと私は保健室の薬の匂いを嗅いで、白い天井に安堵して寝返りを打った。
「先生……、目を覚ましましたか? おれですよ、おれ」
するとそこには、琳音が座っていた。さっきとは違って心配そうな顔をして、私の手を握りしめている。
「琳音……?」
「覚えてますか? むかし、あなたにお世話になった琳音です。一緒に太陽の下を歩きましたよね。カーテンを閉め切った部屋で、『外を歩きたい』とよく泣いてた、りんねです」
さっきの生意気な態度とは打って変わって琳音の態度があまりにもしおらしくなったものだから、私は呆気にとられて何も言葉にできない。
確かに大学時代、学費を稼ぐためにレッテのベビーシッターをしたことはあったが。その家主が光場という、例の事件の被害者だった。妻を亡くし、男で一人で残された息子を育てる翻訳家だった。
翻訳家というものはかなり忙しい仕事で一日が二十四時間では足りないと感じる人もいるようだ。
私はよく彼が仕事をするたび、その息子の世話をしていた。その頃は「○○がしたい」とよく言葉を吐く子供だったが、できないと悟ると諦める子だった。
それがこんな生意気な態度を取るクソガキに成長するとは。時というのは残酷なものだ。
「りんね……懐かしいなあ。あんなに泣き虫だったのに、たくましく成長したな」
さっきまでの怒りは吹き飛んで、懐かしさやあの頃の可愛らしさを思い出した愛しさで私は琳音に微笑む。
「さっきはごめんなさい。先生が倒れたあと、教頭が言ってたんだ。『お前のベビーシッターだった奴だ』って。それで……懐かしくなって……」
琳音が私の手を撫でながら遠い眼であの頃のことを語り出す。出席を取った時の幼さとは違う幼さで、優しく語りかけてきた。
「兄ちゃん……、先生がまさかここに来るなんて思いませんでした。神様がおれたちを引き合わせてくれたんでしょうか」
「そうならいいな。そういえばお前、その左眼はどうした? 怪我でもしたのか?」
「実は……左眼は事件の時に無くなってしまって……」
琳音の浮世離れした瞳から涙が一筋、夢に見たときのようにこぼれ落ちた。琳音のように女装して強姦や痴漢などといったヘイトクライムや差別から身を守ろうとしても、結局レッテを憎む人々は今でも多いのだ。
吸血鬼病をいつから『レッテ』と言うようになったのだろう。元々はスウェーデン語で『正しい』という意味の形容詞である言葉だったのに、いつの間にか琳音やその父親のような人々をそう呼ぶようになった。
レッテと呼ばれても差別は続き、病の症状から来るレッテによる殺人も起こり続けている。レッテの女性は子供を産むと亡くなるケースが多く、父親に捨てられて赤ん坊のうちに死ぬかこの小学校を運営する施設のように、集団で生活して成長するケースが圧倒的だという。
そういった子供たちが多いから、彼らの過去を尋ねてはいけない。ベビーシッターをしていたころに学んだことを今更思い出して私は恥ずかしくなった。
「琳音、ごめんな」
「いえ、いいんですよ。ただ、昔みたいに兄ちゃんと一緒にいられたらおれは……、おれはそれでいいんだ……」
琳音が声を出さないように泣いている。肩を震わせ、私の手を握っていない方の手で自身の右眼を拭う。この子は自分の父親が何者かを知ることができない。自分がどこから来たのかも、それを示すものもない。
私がもし琳音だったらどんなに世間を憎んでいただろうか。この子は健気に現実を受け入れて、自分の悲しみや不幸を生意気という子供らしさでひた隠しにしていたのだ。
それを受け入れられずに去った教師の方が多いというのだから、この子がどれだけ過去や気持ちを隠したかったか分かってしまう。
「琳音」
私は体を起こして琳音を抱きしめた。母を知らない人生、カーテンで仕切られた暗い部屋で過ごした幼少期、事件で父と左眼を失い、山の施設で世間から隔離されるように暮らしている。
その十年間にわずかにだが自分も関わっていた。その事実を受け入れながら、私は琳音の体をしっかり抱きとめてやった。
「琳音、お前は頑張ってるよ。もう無理しないでいい。せめて私の前だけでは、素直でいてほしい」
「うん……」
それでも保健室内にいるであろう誰かに悟られないように泣く琳音に、私はどこか寂しさを感じた。
「お前のしたいこと、一緒にしよう」
「うん」
「よし、じゃあ何がしたい?」
「……言っていいの?」
「ああ」
「海が見たい。山の下にある海岸でいいから、そこで遊んでみたい」
「そうか。じゃあ今度の土曜日になったら、一緒に行こうな」
「うん。でもなんかこれじゃ、昔のおれみたい」
琳音の顔は見えない。だが、琳音は私の背中に指を立ててトントンと叩き、ツーと背中を撫でている。まるでモールス信号のようだ。いや、しっかりとモールス信号の暗号をしていた。
「『ありがとう』か。別にいいんだぞ。私が自分からやっているんだから」
「…………」
それからはモールス信号の指運動もしなくなり、琳音は私の腕の中で泣いていた。夕陽が遮光シート越しに見えている。琳音には夕陽をバックに、後光がさしていた。
それから、私は施設に琳音を海岸へ連れていくための許可を求めたが、昼は日光を遮ることが難しいこと、地元や観光客問わず利用者の多い観光地であるため、人がいなくなった夜であればいいと条件付きとなった。
海に行くのが夜になったことを琳音に告げると、彼は一瞬がっかりした様子だったがそれでもすぐ微笑んで私にこう言った。
「ありがとうございます。海、楽しみです! 貝殻拾って、砂浜歩いて、あとは何しようかな」
どこか楽しそうにしている琳音を見て、私は「可愛い」と思わず口にしてしまった。それでも琳音は笑って聞き返すだけだった。
「おれのどこが可愛いんですか? 兄ちゃんったらもう、可愛い人なんだから!」
「どんな意味だ?」
「内緒です」
琳音は人差し指を自身の柔らかい唇にあてると、首を傾げて「えへっ」と軽く笑った。切り揃えた前髪の下にある大きな猫目は、虚ろに輝いて歪な光を瞳の中で作っていた。
それから土曜日になって、私は夕刻に琳音を迎えに行った。駅から出ているバスで山を登って、施設へ向かっていく。琳音と会えるのが楽しみで、その時は胸が高鳴っていた。久しぶりにベビーシッターをしていた子供と教師と教え子という関係ではあるが、私的に会うことができるのだ。
それは施設の人々も知っている。私は施設の人に挨拶して、私服の琳音と会った。普段は下ろしている髪をポニーテールに結んで、ノースリーブの水色ワンピースの上に白いカーディガンを羽織ったその姿は本当に可愛らしくて、思わず抱きしめてしまいそうになった。
「兄ちゃん、どうかな? 変?」
恥ずかしそうにポーズをとっている琳音に、私は親指を立てて言ってやった。
「可愛い。女の子よりもずっと可愛い」
「そうかな、ありがと」
えへへとかすかに笑う琳音は十歳にしてはかなり背が高く、中学生と言っても通りそうな程だった。
施設から出るバスに乗るころには、すでに日も暮れて夜となっていた。乗客は私と琳音のふたりだけ。それ以外には誰もいない。そんな寂しさに異質なものを感じながらも、私の肩に体を預けて嬉しそうにしている琳音を私はちらちら見てしまっていた。
ポニーテールからチラチラ見える琳音のうなじの下を見ると、ケロイド状に数字らしき何かが浮かんでいる。バスの電灯で見えるそれは、かすかに白みがかかっていたが明らかにケロイド状のものだった。
私は琳音にうなじの下にあるそれについて聞こうとしたのだが、彼の暗い過去を暴くのと同じような気がして結局やめた。
バスが山を降りると、海が開けて見えてきた。私たちは海岸に一番近い停留所で降りると海岸へ駆けていった。
おそらく海岸で遊ぶのは初めてなのだろう。琳音が海岸へ向かって一直線に走っていく。私はそれを追いかけようとするのだが、二十六歳という歳が積み重なったせいか。それとも夜だったからか。元気いっぱいな琳音を追いかけようとしてもなかなか追い付かず、とうとうへたり切って砂浜に尻餅をついてしまった。
それを見て、琳音がぷっと吹き出して笑い出す。
「あはは、兄ちゃんも歳を取ったなあ。いや、おれに体力がついたのか?」
「笑うな。俺はまだ二十代なんだぞ。歳を取るというのは三十を過ぎてからを言うんだ。覚えとけ」
「はーいっ」
元気よく手をあげて、砂浜を歩く琳音はどこか成長した少女のように見えた。彼女ではないが、どこか恋人とのデートを楽しむような気分で、私はすっかり心が舞い上がっていた。
「兄ちゃん、見てみて! 砂浜に靴が沈んでいくの! 超ヤバい!」
「そうか。いっぱい楽しめよ」
「うん!」
琳音は鬱屈した十年間を晴らすかのように砂浜を歩いては色々なものを見つけていく。
琳音に近づいては遠ざかっていく海の引き潮でシーグラスを見つけて、彼は月にそれをかざして興味ありげに感想を言った。
「なにこれ、超キレイ! 帰ったら伝にあげようっと」
「見ろよ琳音。貝殻も綺麗だぞ」
私が貝殻を琳音に見せると、彼はそれも満月の金色に輝く光にかざしてじっと見つめた。まるでビーカーを見上げて研究結果を観察する研究者のような顔をして、琳音はいかにも楽しそうだった。
「わあ……。海ってこんなに綺麗なものがあるんだ。兄ちゃん、今夜は連れてきてくれてありがとう」
琳音が私の肩に自身の体を預けて、どこか眠たそうな眼をして私にこう問うた。
「兄ちゃん、おれのうなじを見てたでしょ」
その言葉に私は一瞬ギクッと体を固くして否定しようとしたが、あのケロイド状の何かが頭に浮かんで、とうとう否定できなかった。
「あ……、まあ……、あ、ああ……」
「実はおれ、死ぬつもりで海に来たんだけど、兄ちゃんがあんなにうなじをジロジロ見るから。なんかどうでもよくなってさ……」
「そ、そうなのか……」
「肩にケロイドが浮かんでるのを見たんでしょ? 今なら言ってもいいかな。多分時効だろうし」
「なんなんだ? あのケロイドっぽいのは」
「んー、事件の後で病院の施設に預けられたんだけどさ、そこでメス使って皮膚を切り取られちゃったんだ。なんで数字なのかはわからないけど、痛かったな。麻酔なんて使わなかったから」
「うわっ、酷いな。警察に通報するレベルじゃないか、それ」
琳音が私の腕に抱きつく。その体は震えていて、誰かに支えてもらえないと立てないのではと思えるほどだった。
「色々言われたよ。『お前の親父はろくでなし』だの『売女の息子』だの言われた。あの頃は意味がわからなかったけど、いま思い出したら酷い意味だって分かったんだ。それから先輩からも、『血縁の罪はお前の罪』とか言われて殴られたり、食事をもらえない時もあったな」
もうこれ以上、私は琳音が苦しむのを見ていられなくなった。私が倒れたあの日、彼が私の手を握って私の無事を祈ってくれたように、私も琳音の手を握って言った。
「今でもいい。警察に行こう。今の施設も前の施設でお前がどんなことをされたか、何で知らないんだ……?」
「もういいよ。その施設、警察がちゃんとやっつけてくれたから。でも今でも思い出すたびに怖くて、そのたびに怖くて、体が震えて、体温が低くなるのを感じて、痛いのを思い出して、寝たいのに眠れなくて。施設には何も癒してくれるものはないし、誰にも『辛い』って、『怖い』って言うことができなかったから。楽しいって思える日もないから生きてる意味が見つけられなくてさ、死にたくなったんだ。海だったら誰にも見つからずに死ねる。そう思ったんだけど、兄ちゃんといると楽しいから、なんかどうでもよくなっちゃった」
「そうか……」
「…………」
「色々話してくれてありがとうな。お前が生きてることが俺は嬉しいぞ」
「そう言ってくれるのは兄ちゃんだけだよ。おれこそありがとう」
「悲しくなったら俺に言ってくれよ。寂しくなっても我慢するなよ」
「うん……」
それから私と琳音は静かに引いては近づいていく潮を、琳音にとって広い世界へ繋がっていく入り江を眺め続けていた。潮が引いていく音を聞き、夜の闇に光る月光を時々見ながら海を眺める。
その静かな世界にいたからか、気がつくと琳音は眠っていた。立って眠るとは、本当に器用なやつだ。そう思いながら私は琳音の体を抱き上げる。彼の体は歳の割に大人に近いのに、体の割に軽くて驚かされた。
琳音がこの世へ別れを告げようとした海へ別れを告げて、私は琳音をバス停まで運んだ。
「琳音、起きろ。バス停に着いたぞ」
「ん……。あっ、兄ちゃん……ありがと……」
眠たそうにした瞳で、琳音は私の首に腕を回すとそのまま唇にキスをしてきた。一瞬訳がわからず、私は呆然としていたが琳音が微笑んで言った。
「海へ連れてってくれたお礼だよ」
海から潮の香りがする。満月はバス停を照らし、私たちは最終バスを待っている。ふたりだけの世界で、私はひとりの少年に翻弄されたのだった。
女装ショタは海へ祈った 夏山茂樹 @minakolan
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