第11話その2 宴、兵部卿宮の姉大宮への愚痴、そして思わせぶりな仲忠

 宮あこと家あこ以外の子供達については、十二日より民部卿方へ師を迎えて、舞を習わすこととなった。


 若御子は「採桑老さいそうろう」を。

 大殿の乙君は「万歳楽」。

 弁の君の御子は「扶桑楽ふそうらく」などを舞うことになっている。

 民部卿の太郎君は「太平楽」、二郎君は「おうじょう」を舞うことになっている。

 舞の師には、秀遠や兵衛ノひょうえのさくわん、遠忠といった評判の人々を迎えた。

 既に住まいの方では舞の師二人、楽人十人程が常に用意されている。その殆どが殿上人である。皆物を食べ、酒を呑み、その前で舞の師が立って舞う。

 御子達はそこで舞を習う。

 中務宮の御子の太郎君は「万歳楽」と「五常楽ごじょうらく」を。

 忠純の太郎君は「寿老ずろう」を。

 祐純の太郎君は「鳥」―――「迦陵頻伽かりょうびんが」を習っている。



 右大臣の方では食事を乗せる御台をどうするか決めていた。

 金銀細工師に鍛冶をさせ、つきや薫物を入れる香壺のことも命じていた。

 やがて陸奥守種実の元から、銭百貫が送られてきた。

 米は西の倉に三百石積まれていたものを降ろして使うこととする。ちなみに倉四つあるうちの三つが米で、一つには銭が多く積まれていたりする。 



 そんな忙しい中だが、御神楽は無事行われた。

 十三日朝から、寝殿の前に舞台の準備を始め、これ以上は無いという程に飾り付けた。

 夕方になると、才人達が大勢集まってきた。

 やがて神子もやってきたので、正頼と大宮は河原へと出向いた。

 一緒に四位から六位の男君達が合わせて八十人ばかりお供をする。黄金作りの車が二台、お供の女房達の車を五台率いて出掛ける。

 河原へ着くが早いが、神事を見よう見ようと彼らは皆、車を寄せ騒いだ。

 暗くなってから、そのまま皆左大将の屋敷へと向かう。

 その場にやってきたのは、多くの上達部や皇子達―――

 例えば右大臣忠雅、右大将兼雅、民部卿、左衛門督、平中納言、源宰相実忠など。

 それに親王では兵部卿宮、中務宮など多くその姿が見える。

 仲頼、行正、仲忠も無論その場に居た。彼らはいつもよりも立派な装いでやって来ていた。

 そんな彼らを見て正頼はつぶやく。


「まあ、来ない訳はないと思っていたんだよ」


 あげばりを打って、催馬楽や笛吹き、歌うたいを招き入れる。

 神子も下りて舞い始める。

 楽人達は音を出し始め、やがて神歌が始まる。

 吹抜屋台の母屋では、大宮を始めとして女君達がその様子を眺めていた。仕える女房達は総勢八十人、童や下仕がそれぞれ二十人ほど。

 南の廂には客人や子息達が集っていた。

 簀子の方には、仲頼、行正、仲忠が正頼の侍従であるかの様に陣取っている。

 やがて、楽人三十人で神歌を歌い出した。


 ―――榊葉の美しい光沢を賞でて尋ねて来ましたら、八十氏人が睦まじく神遊びをしていました―――

 ―――優婆塞うばそくが修行する山の椎の下は、床(常)ではないので何かと居心地が悪いことでしょう―――

 ―――やひらでを手に持って私は山へ深く入って榊葉の枝を折って来る―――

 ―――山に深く入って私が折ってきた榊葉は神前でいつまでも枯れないで欲しい―――


「素晴らしいことね」

「素敵だわ」


 女君達はほぉ、と三十人もの声が響きわたる様にため息をつく。


「一人で朗々と詩をうたいあげるというのも立派だけど、こういうのはまた格別よね」


 今宮は御簾の側にじりじりと近づきそうになる。ちご宮がそれを必死で制止する。


「お姉様」

「それでもいけません!」


 つまらない、と今宮は思う。ここ最近、この姉は婿君の方に居ることが多くなり、自分達の方で過ごす時間が少なくなってきた。


「仕方が無いでしょう」


 母大宮はきかん気の娘を言い諭すが、それはそれ、これはこれである。

 今宮だって、姉がいつまでも自分達と一緒に子供子供した生活を送っている訳にはいかないことは判っている。

 ただ判っていることと、それに納得して祝福して気持ちよく送り出せるか、は別問題である。

 何せ彼女のちょうどいい遊び相手と言えば、ちご宮が居なくなったら女一宮しかいないのだ。

 女一宮だったら、確かにずっと婿取りなどせず、この家で自分と一緒に居る可能性は高い。

 だが彼女は何と言っても姉妹ではない。姪で、なおかつ帝の「女一宮」である。

 小さな頃から一緒に暮らしているから、遠慮の無い口利きもできる。だが実際のところは自分と身分が違うのである。

 一宮自身は同じ歳の叔母というより、本当に姉妹の様に懐いてくれる。今宮の奔放なところも驚きながら付き合ってくれる。

 だがそれはやがて「女一宮だから」という理由で止められるだろう。その日がそう遠くないことを彼女は感じていた。 

 今宮がそんな、少女らしい物思いをしている時だった。


「あの、母上」


 宮あこ君が戸惑いがちに母に声をかける。


「どうしたのですか? あこよ」

「兵部卿宮さまが、母上にお会いしたいと……」

「あらまあ」


 御賀のことだろうか、それともいつもの愚痴だろうか?

 少し不安に思いながらも大宮は東の大殿に席を作らせて兵部卿宮に会う。


「どうしました? 母上のところにはあれから行かれましたか?」

「ええ、それは勿論。我らの母上も本当に最近はめっきりお気が弱られて、死ぬ前に一度孫の顔が見たいとおっしゃるのですがね。もっともそう言われる方程長生きするものでいすから、そうそう私も心配はしていないのですが」


 まあ、と大宮は弟の軽口に眉をひそめる。


「いくら何でもそれはあんまりですよ。ともかく今、御賀の支度は殿と私で設えておりますから、心配なさらぬ様。……で」


 ちら、と大宮は弟を見る。


「用はそれだけではないのでしょう?」

「それはもう!」


 ここぞとばかりに兵部卿宮は、姉を上目遣いで見る。


「夏頃にも、こうやって、御神楽の時にお話致しましたね。そういうことですが。神の御徳でしょうか」

「そうでしたね」


 できるだけ大宮は素っ気なく答える。


「まあ、今日の御神楽では、最近何やら忙しくて聞くことができなかった松方や時蔭の歌を聴けるかな、というのも楽しみだったんですがね。そうしたら女君達がいつもより近くでお聞きになっている。それでついつい」

「あて宮のことでしょう」

「ああ、そうはっきりと言わないで下さいな、姉上。今はもう、あて宮に今日私が来ているということだけでも知らせてくださるだけで嬉しいのですよ」

「でもね、あなたの普段が普段だからそうそう言えないのですよ」

「そうかもしれません。でも今日は格別です。実は先日、雪の宴で東宮さまの元に出向いた時ですが、御神楽で三条殿に行くということを申し上げたら、あの方はにっこりとお笑いになって、『大宮さまにお会いになったら、伝えてくれませんか』と」


 大宮はぎくりとする。


「何と」

「詳しくはおっしゃいません。ただ簡単に、『あちらに申し上げたことがありますが、ご存じでしょうか。お忘れにならないで下さい』と。姉上、私は何も申し上げませんでしたが、どんなことでしょう?」

「さあ、何のことでしょう」


 大宮はつとめて平静な声を装う。すると兵部卿宮は、つつ、と扇を顔の前にかざす。目だけが姉をじっと見つめている。

 無論彼は気付いていた。大宮が知っていて、口には出さないことを。そしてもう心の中であて宮をどうするかを決めているだろうかことを。

 もう終わったな、と彼は思った。

 だがそれでさっぱりきっぱりと全ての思いを終わりにする様だったら、彼も天下の色好みなどと言われたりしない。


「まあ今更、申し上げても甲斐は無いのですが、密かに思い続けていたことが、とうとう夢の様に消えてしまいましたよ。ええ、あて宮のことです、無論。姉上が私を初めからちゃんとあて宮の求婚者として、数のうちに入れて下さったら、こんなにあの方も冷淡な扱いをなさらなかったでしょうに。同じ母の腹から生まれたきょうだいだからと信じていたのですが。他の人よりずっと先に考えていただけると思ってましたが……」


 また例の愚痴だ、と大宮はうんざりする。

 弟は決して悪い者ではない。帝を含めたきょうだいの中でも、何事にも優れている。彼女自身、小さな頃は隔ても少なく遊んだ仲である。

 だが何と言っても今は「好き者」で有名な男だ。いくら様々なことに優れていても、そういう人を可愛い娘の婿にするのは彼女は嫌だった。

 そして何と言っても、この愚痴である。

 何かと言っては自分という伝を頼り、愚痴を漏らしていく男はやはり娘には困ると彼女は思うのだ。

 しかしそんな本音を彼に言ったら、それはまた愚痴で返されるのだろうと思うと。


「どうして甲斐が無いとなど思うのでしょう?」


 ほほほ、と何ごとも無いかの様に笑い声を聞かせる。


「あなたが仰る通り、私もあなたに、と考えたことが無い訳では無いのですが、その一方ではまた、ちょっとあの娘はあなたには似合わせないのではないかと思ったのです」


 その微妙な言い回しの中に、自分の評判を鋭く取ったのか、兵部卿宮は慌てて言い足す。


「ええ、お一人にだけ申し上げるというのも、外聞の悪いことですから」


 何が外聞だ、と大宮は思い、その言葉は無視する。


「あなたに差し上げられる様な娘は一人も居なかったから。そうね、一人はましな娘が生まれるかと待ってはいたのですけどね」


 これはもう何を言っても無駄だろう、と兵部卿宮は思った。この言葉が出てはとりつく島も無い。


「先日の東宮のお言葉に、もう私には全く望みが無くなった、生きていても仕方がないと思ったので、せめて死ぬ前に、とこちらへ参上したのですが、初めてこの様に強く狂おしく恋した自分の身がとても辛く悲しく思えてしまいますよ」


 いい加減にして欲しい、と彼女は思った。どうして男というのは懸想する時には死ぬの生きるのと、こんなことばかり言うのだろう、と。

 大宮は言葉だけでもあれこれと言い募りなだめ、へとへとになって大宮はやっと弟の前から立ち去ることができた。



 夜も更けゆくと共に、才人達の音楽も同じ調子に合わせて皆で演奏を始める。

 神歌を口にする頃には、皆の楽器の音も、声も大きく豊かに出てくる様になり、宴に興ずる人々の気持ちも次第に盛り上がってくる。

 そんな頃に、仲忠がいつもより立派な装束を身につけてやって来た。


「おや、こっちに居たのかね」


 目敏く見つけた正頼は声を掛ける。


「左大将どの」

「さあさあこちらへ。私は神のおかげかと思ったよ。そなたの姿を目にした時には」


 ふんわりと仲忠は笑って、拒むことなく正頼の前へと行く。


「さて、今日こそは琴の琴をお願いできないか」


 仲忠は黙ってうっすらと笑む。


「今日は神を祭るおごそかな日だ。そなたの手、神を祭る技を見せてくれたなら、きっとあの例の賭物もそなたのものになるのではないか」


 仲忠はやはり何も言わなかった。代わりに今度は婉然と笑う。

 ぎく、とその場に居た者は、男女問わず固まる。


「申し訳ございませんが」


 その隙に仲忠はすっと立ち上がり、その場から去ってしまう。


「まああれには、以前にもそう言って弾かせてしまったことがあったからな」


 しばらく呆気に取られていた正頼は、側に仕えていた者達にぼやく。

 数年前にも、同じことを言った。だが酒の上の戯れ言よ、と誰も本気にしなかった。―――まださほど宴慣れしていなかった仲忠以外は。

 仕方ないですよ、と男君達は笑う。 

 御簾の中の女君達は、彼の軽率ではないその行動にほぉっ、とため息をつくばかりである。

 やがて神子達も舞い終わり、才人達には細長を一襲、袴を一具づつ被ける。上達部や御子達は供人まで物を被けられた。

 その後はただもう、その場に居た楽に長じた者達がひたすら演奏を楽しんだ。

 仲忠は琴は弾かなかったが、笙の笛を。

 行正は横笛、仲頼は篳篥ひちりき、正頼は和琴、兼雅は琵琶、兵部卿宮は箏の琴を同じ調子に合わせて、様々な曲を合奏する。

 それが終わると「才名乗り」が始まった。

 今夜の主人である正頼が人長の役をする。


「仲頼の朝臣には何の才がござる?」


 すると地下の才男の役を当てられた仲頼は答える。


「山伏の才がございます」

「では山伏の才を見せておくれ」

「ああ、松脂まつやに臭い。少々失礼」


 そう言って彼はその場から離れる。

 次は行正だった。


「行正の朝臣には何の才がござる?」

筆結ふでゆいの才がございます」

「では見せておくれ」

「冬毛は扱いにくくてどうも」


 そんなやり取りがありながら、才男は次々に変わって行く。


「仲忠の朝臣には何の才がござる?」

「和歌の才がございます」

「では見せておくれ」

難波津なにわづにはございます。冬ごもりの頃ですので失礼」


 さらりとかわす姿が見事だったので、見物人の一人が仲忠に装束を一つ、楽しそうな声と共に渡した。

 仲忠はそれを受け取ると、ふんわりと頭から被ってその場から立ち去った。

 才男は正頼の息子達に渡った。


「仲純には何の才がある?」

「渡し守の才がございます」

「では見せておくれ」

「風の様に早いので見せられずに」


 そこへ涼がやってきたので、正頼はこれ幸いと彼にも声をかけた。


「あなたは何の才がございますか?」


 涼は答えた。


「……藁盗人の才がございます」

「では見せておくれ」


 さてどういう答えが返るだろう、と正頼はやや意地悪な気分で問いかけた。

 都暮らしが短い彼は、おそらく「才名乗り」でも、問いかけの人長以外の役をしたことは滅多にないだろう。

 するとそこにひょい、と兵部卿宮が顔を出して代わりに答えた。


「胡蝶吹く風は、あないりがたのやどりや」


 にっこりと兵部卿宮は笑う。

 先日の東宮とのやり取りを彼は知っていたので、正直、ここでは正頼より、年若き弟の涼に肩入れしたかった。

 確かに涼がああ言わなかったら、あて宮の話題には移らなかった。自分の失恋も決定的にはならなかった。

 だが正頼が既に東宮入内を決めていたことはその場の雰囲気から兵部卿宮にも感じられていた。だとしたら、涼は単にそのきっかけを作ったに過ぎない。

 それを根にもってちくちくと田舎者よと虐めるのは誉められたことではない。

 そもそも涼は自分よりずっとあて宮に関しては有利な立場だったはずだ。神泉苑で院が「あて宮を涼に」と言っていたのだから。

 それでも落胆する様子一つ見せない異母弟を、兵部卿宮は立派だ、と好ましく感じていたのだ。

 あにうえ、と声を出さずに口が動く。たまにはいいだろう、という様に兵部卿宮はぽんと肩を叩く。   



 その後はひたすら酒宴が続いた。

 沢山呼ばれていた歌妓が二十人ばかり、華やかな装束を着て、琴を弾く。

 それに合わせるものやら、ただ酒を呑み、世間話や猥談に興じる者やら、宴はいつまでも続くかと思われた。


 やがて宴もお開きとなる頃、仲忠は仲純に東の大殿にある自分の曹司へと誘われた。


「珍しいな、君がそんなに酔うなんて」

「兵部卿宮どのにずいぶん呑まされてしまいましたよ」

「ああ…… 彼なら、ねえ」

「それに御馳走が美味しかったから、ついつい食べ過ぎてしまって」

「それもまた珍しい。でも友達としては、世に名高い君のこんな姿を見られるというあたり、役得というところかな」


 その言葉はあっさり無視し、仲忠は衣服を緩める。


「で、まあ僕は今こうゆう有様ですので、今から言うこともすることも酔いの上ということで聞かなかったことにして下さいな。それこそ、神様だって許してくれるでしょ」

「君、今何か辛いことでもあるのかい?」

「うーん? 辛いことですか」


 そうですねえ、と彼は首を傾げる。


「そう、辛いこと。この間東宮さまのとこで、ずいぶんと悲しい気持ちがしたんですよね。やっぱりあて宮は東宮さまの元に行くことに決まってしまったんだって」


 その話を出すか、と仲純は高鳴る胸を押さえる。


「ああいつか、僕も恋い焦がれて死んでしまう。どうして今日まで生きていられたのかなあ……」


 くすくす、と笑いながら仲忠は鳥のさえずりの様につぶやく。


「何を言ってるんだ」


 自分の心境をそのまま語られている様に思えて、仲純は言葉を投げる。


「何かねえ」


 そう言うと、仲忠は両腕を大きく広げて、その場に倒れ込む。


「べたーっと地面にへばりついた牛になった様な気分なんですよお。何か動く気もしないというか」

「そんなこと、言っているんじゃないよ。君は帝の婿として認められたひとじゃないか」


 身体を起こす。あはははは、と仲忠は口を大きく開けて笑う。手をひらひらと振る。


「玉のうてなも何のその、心がそこに無ければ何にもならないと言いますよ。そうそう、僕は涼さんもうらやましい。名前のごとく涼しい顔で」

「彼だって、今度のことでは、角の折れた牛の様なものだろう」

「そうそう、へたった牛と、角の折れた牛ですか。だったら僕等、なかなかいい相方かもしれませんねえ」


 それはいいそれはいい、と独り言を言いながら仲忠はうんうんとうなづく。


「そうそう、彼もむく犬の様に、あてにならないことを待ってる身ですし」


 黙れ。

 仲純は言いたかった。

 兄弟の契りをしたこの青年が一言発すれば発する程、それは仲忠や涼のことではなく、自分のことの様に仲純の耳には聞こえる。

 馬鹿な自分をあざ笑っているのではないかと。


「馬鹿なことを言うんじゃないよ。君は今、これからを一番期待されている人だから、帝もうちの父上も、天人の様に大切な人だと考えているんだ。だからこそ、大切な大切な最初の内親王を、と…… そんな君が、繰り返し繰り返し何をぼやいているというんだ」

「判ってますよ勿論。だから酔いの上の話。神もお許しになるでしょ、と。でもね仲純さん」


 ぐい、と仲忠は仲純に顔を寄せる。

 赤みの残る顔、呼気には甘い香りが混じる。だが声はまぎれもなく平静なそれだった。


「どれだけ素晴らしいお話でも、僕は他の誰でもなくあて宮を、と思ったんだから、ここはどれだけ素晴らしいひとであったとしても、女一宮じゃあないんですよ」


 もっとも彼女に会ったことは無いのだけど、と仲忠はつぶやく。


「それに『そういう』代わりだったら、幾らでも居るでしょ」

「孫王の君とか?」

「よくご存じで」


 くっくっ、と仲忠は喉の奥で笑う。


「だったら尚更。あきらめるべき所はあきらめる。それしかないじゃないか」

「そう、それが道理。生きてくためにはそれしかない。でもあなた、それができますか?」


 仲純は胸を押さえる。顔を逸らす。


「は、確かに。何かいい薬は無いものかな」


 かろうじてそうつぶやく。それを聞いてか聞かずか、逸らされても間近なまま、仲忠もつぶやく。


「すぐそこに桃の木がある。熟してたわわに実った桃が目の前にあるのに、どうしてもそれを取ることができない――― そんな気持ちなんですよ」


 そう確かに。

 目の前にあて宮はいつも居たのに。そこに手を触れることはできない。

 兄である男はそのもどかしさが死ぬ程判る。判りすぎる。

 そのまま仲忠は仲純にもたれかかる。酒に酔った身体が熱い。

 やがて何処からか琴の琴の音がほのかに聞こえてきた。


「この暁に琴を弾いているのは誰かなあ…… 素敵な音だ。僕は今ここで死ぬけど、この音の中で死ぬのなら幸せかもしれない」

「あて宮だ。あの音は」

「そう。滅多に聴けないあの方の琴の音ですか。ああ何と美しい音。……それに」


 仲忠は言いかけて止める。


「でも君の耳にかなう程のものじゃあないだろう」

「そんなことはないですよ。世に一二と言われる名人の手かと思いました。でもそれだけじゃあない。何処か今風なところもあって華やかで。……響いて、叫んで……」


 叫んで? 

 奇妙な言葉を聞いた様な気がした。

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