第五章 八月その37

その後はショーコさんが完全に酔っぱらいとなり、お開きとなった。


「シノブさ~ん。もっと飲みましょ~。シノブさん家に行きたい~」


介護施設で見掛けるショーコさんの面影はもはや、ない。


「…帰らなくていいの?」


「だってぇ。アイツと顔会わせたくないもの。もぅあんな家、出てってやるんだから~」


母に肩を貸してもらいながらなんとか歩くショーコさん。


…先ほど聞いていた話では子供もなく、二度も浮気されて離婚も考えているという。


「じゃあしばらく我が家にいなさいな。わへい、リューリさん、送るわね」


僕達は再び母の車に乗り込む。


そして、僕の家(父の実家)に到着する。


母は母で、父とは別居中で、つまりは僕とも別居中。


ここは僕の家だが、母の家ではないのだった。


「リューリさんは…どうする?」


母がわざわざリューリに訪ねる。


もちろん、リューリの帰る家はここではない。


当たり前に考えれば、リューリはこのあと自宅まで送ってもらい、帰宅する。


それが自然。


でも敢えて母がどうするか聞いた。


車を降りようとしていた僕だったが、母の言葉で車内を振り返る。


リューリは、彼女は、普段絶対に見せないような表情をしていた。


普段の彼女は、しなやかな豹のようだった。


しかし今の彼女は、まるで捨てられた仔猫。


…彼女の母親が何時くらいに帰宅するか、僕は知らないが…。


今の状態でとても一人には出来ない。


「僕の家でコーヒーでも飲んでいったら?その、少し落ち着いてから帰りなよ」


「リューリさんが良ければそうしなさい?」


「…分かりました。家にはまだ誰もいないから…」


母に促されて、リューリも車を降りる。


「襲うなよ~」


助手席から酔っぱらいのショーコさんの声。


「しませんよ。第一、彼女は生理中です」


「そっか、そりゃ残念」


からからと笑う声。


「リューリさんのお母さんには私から連絡しておくから。こちらに迎えに来てもらうわね」


「…ありがとうございます」


「わへい。リューリさんの力になってあげてね」


「分かってるよ」


「でもね、母さん本当にあなたを誇らしく思うわ。良い男の子になったわね」


「…」


実の母に面と向かって誉められ、赤面してしまう。


「アディダス!」


「それ言うならアディオスでしょ」


ショーコさんが手をひらひらさせ、車は去って行った。


僕とリューリが家の前に取り残される。


嵐が去ったあとのように静かになった。


「入ろうか。どぞ」


「…お邪魔、します」


僕が風除室の鍵を開け、二人で中に入る。


「ただいま、海鼠なまこ


水槽の海鼠に挨拶をすると、リューリが冷ややかな目で見てくる。


海鼠それにいつもただいま言ってるの?」


「もちろん。ほら、海鼠も答えてくれている」


「…微動だにしないわ」


…少しいつもの調子になってきたかな。


「そこの洗面で…」


「手を洗わせてもらうわね」


リューリは、さすがに我が家に慣れてきたみたいだった。


中はさすがに暑い。


僕は天井のファンと扇風機を回す。


「カフェインレスでカフェオレ入れるから。アイスがいいかな?」


「ホットでいいわ」


「おけ。お腹空いてない?」


「…実は空いてるの。ほとんど何も食べられなくて」


「僕も。何か作ろうか」


「お願いできるかしら」


「御安いご用で」


そして僕は朝の洗い物とコーヒーの準備をする。


豆を挽き、電気ケトルでお湯を沸かす。


「海鼠は良いわね。何も悩み無さそうで」


「海鼠には海鼠の悩みがあるのさ」


「例えば?」


「最近ウニが大量発生して困ってるとか。身体が白いヤツはモテていいな、とか」


「嘘」


「嘘かもしれないし、本当かもしれない」


僕がからかう。


少し沈黙。


僕が洗い物をしたり、お湯が沸く音だけが響く。


ふ、と。


リューリが水槽の前から動く気配がする。


トイレかな?


リューリがこちらに歩いて来たようだ。


「トイレ?トイレなら廊下の突き当たり…」


僕は洗い物をしながら彼女に声を掛ける。


ふわり。


彼女の香りがしたかと思うと。


背中に柔らかい感触。


そして僕の胸に彼女の腕が絡み付く。


後ろから彼女が抱き付いてきたのだと、僕は一拍おいて理解する。




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