第五章 八月その36

「ショーコさん…」


リューリが言葉に詰まる。


確か名字は“布施”…だったと思う。


思い出してみれば同僚に“ショーコ”と呼ばれていた。


「ごめん。お待たせ」


「あの…私」


「とりあえずここを出て食事に行きましょう」


リューリの言葉を制して母が言う。


…確かにここで話す内容ではない。


母の車に四人で乗り込み、しばらく走る。


運転は母、助手席にショーコさん。


僕とリューリは後ろの席。


店に着くまでの間、僕は彼女の手を握っていた。


十五分程走っただろうか?


母の車は温泉施設などもある、山の中のショッピングモールに到着する。


僕もたまにコーヒーの豆を買いに来る場所だった。


時刻は六時を過ぎ、外もだいぶ涼しくなっているはずなのだが、僕はすでに嫌な汗をかいていた。


「ここのパスタ、美味しいんだから」


母が言いながら店の中に入り、僕らも続く。


母が店員に何かを話す。


店員が二人用のテーブルを少し近付け四人席にしてくれる。


テーブルは人が通れるくらい隙間があり、僕とリューリ、母とショーコさんがそれぞれ向かい合って座る。


座ってから母の気遣いに驚かされる。


僕の隣にはショーコさんが、リューリの横には母が座る位置となる。


だがこの距離感であれば隣は気にならない。


「何にする?私、奢っちゃうわ」


「いいんですか?給料前だから甘えちゃいますよ?私」


「いいの、いいの。あ、ショーコさん、アルコールどうぞ?明日休みでしょう?ここ、ワインに合うパスタっていうのもあるのよ」


「嬉しい!頂きます!」


母とショーコさんがハイテンションで話している。


僕とリューリはジンジャーエールを、母はノンアルコールのカクテルを頼み、ショーコさんはスパークリングワインを注文する。


そして、母とショーコさんがパスタを注文する。


だが、僕もリューリも食欲はなく、ピザを一枚注文し、シェアすることにした。


「それじゃ、お疲れ様」


母の掛け声でグラスを合わせる。


ショーコさんがスパークリングワインをぐいっと飲み干す。


「美味しいー!」


「すごい飲みっぷりもう一杯いく?」


「いいですか!?」


ショーコさんが追加でスパークリングワインを注文する。


僕とリューリは呆気にとられている。


だが、意を決してリューリが口を開く。


「あの、ショーコさん、私…ごめんなさい」


「リューリちゃん。もう、いいのよ」


ショーコさんが優しく言う。


「その話はもう終わっているのよ」


母もショーコさんに同意する。


「リューリさんのお母さんとショーコさんでも話はしているわ。だから今日はあなたのケアをしたいの。それとショーコさんも、ね」


母がにっこりと微笑む。


僕とリューリは何が何やら分からずポカンとしている。


今日はリューリと僕とでショーコさんに謝るというつもりだった。


それで事前に母に相談をしていたのだった。


ショーコさんからすれば、リューリは旦那のリョージさんと不倫をした憎い相手…のはずだった。


しかも、リューリのお父さんはショーコさんに介護施設でお世話になっているのだ。


仕事に私情は持ち込まないとしても、ショーコさんの心情は複雑なはず。


だからどんな罵声を浴びせられるか。


そんな覚悟をリューリも、僕もしていた。


母は事前にリューリのお母さんと連絡を取り、そして、ショーコさんにも事情を話していたのだろう。


どうやら、リューリのお母さんともすでに話はついているようだった。


我が母ながら、恐ろしい程の手際の良さだった。


「謝罪が必要なのは、私」


ショーコさんが言う。


「わへいクン、その額の傷。うちの旦那に突き飛ばされたんでしょう?ごめんね。本当に」


「いえ、僕こそ、リョージさんの手首に小手を、カーリングブラシで…」


「わへいクンは止めようとしただけ。それに…」


ショーコさんはすでに酔いが回っているのだろうか?


目が赤くなっていた。


「リューリちゃん。本当にごめんなさい。…あなたを、傷付けてしまって。…その、初めてだったんでしょう?男性との経験」


僕はものすごい居づらさを感じた。


何か理由を付けて席を立ちたい衝動に駆られるが、何とか踏み留まる。


「…え、と、はい」


リューリが答えショーコさんが大きなため息をつく。


「女の子にとって一生消えない傷を作ってしまったのよ。本当にごめんなさい」


「それは…私も…合意だったので…」


…居づらい。


僕は懸命に何かを飲んで食べているが味が全く分からなかった。


「高校生に手を出すなんて。昨夜指輪投げつけてやったんですよ」


ショーコさんがいよいよ出来上がってきているようだった。


…目が座っている。


そう言えばショーコさんの左手薬指には指輪がない。


「二度目なんですよ!?二度目!」


「以前にもあったの!?」


「そうですよぅ。土下座して許してくれっていうから。許したらこれだわ」


ショーコさんの言葉に僕とリューリは驚いてお互いの顔を見る。


つまり、リョージさんは以前にも不倫をしたということで、今回は二度目ということで…。


何故だか自然とため息が出た。


「だからね。リューリちゃんが気にすることはないの。それよりもあなたを傷付けてしまったことが問題。その、アイツきちんと避妊してた?」


すでにショーコさんは“旦那”という言葉すら使わない。


…逃げたい。


女性三人でこの会話。


男である自分がとても悪い存在に感じてきてしまう。


「はい。それはしてました」


「生理来てる?」


「はい。今ちょうど、来てます」


「なら、最悪の事態はないわね」


ショーコさんも母もほっと息をつく。


本当に最悪の事態まで考えていたのだろう。


僕はなんとなくフォークを持った自分の手を見ている。


…他にどこを見れば良いというだろうか。


「言いずらかったら言わなくて良いけど。身体に影響出てない?」


リューリが考え込む。


「…身体が…火照るというか…疼くと言うか…」


僕の顔はもう間違いなく真っ赤になっているだろう。


「そうね。間違えないで欲しいのは、それはアイツへの想いでは絶対にないのよ。それだけは分かって。決してアイツに戻ってはいけない」


ショーコさんが身を乗り出して言う。


「その、自分で慰めるしか、ないのだけれど」


…僕の頭は爆発寸前だった。


とてもリューリの顔は見られない。


「アイツが残していった刻印に負けないでね。その、辛かったら話してね。わへいクンのお母さんでも、自分のお母さんでも、私にでも良いから。あなたの将来に傷を残さないことが何より大事」


ショーコさんが真剣な眼差しで言う。


「…ありがとう、ございます…」


リューリは俯いてしまった。


「わへい」


「ひゃい!?」


いきなり母に呼ばれて僕は慌てて、変な返事をしてしまう。


「今回は、よくリューリさんを助けてあげられたわね」


「…僕は…何もしてないよ」


母が首を振る。


「あなたのしたことは立派よ」


「そうですよ!わへいクンはアイツと違って良い男よ」


ショーコさんがうりうりと僕の首をヘッドロックで固める。


…酔ってるなこの人。


「あなた位の年齢の男の子に、セックスするなって言うのは難しいだろうけど。相手の事もよく考えてしてね」


「そうですよ。結局最後に傷付くのは女の子なんですよね」


ショーコさんがヘッドロックしたまま僕の頭を揺する。


…胸が、当たるんですが。


あ、リューリが恐ろしい目で見てる。


慌ててショーコさんのヘッドロックを振り解く。




後から思い出したとき、今日のこの日は僕の女性観に大きな影響を残した、と思う。


この時、僕の感じていた男であることの罪悪感。


その正体は段々僕の中で理解できる言葉になっていった。


リューリはいま、生理になっている。


それがどれだけ大変か僕には分からない。


そして、僕は生理にはならない。


僕は母から産まれた。


母は命懸けで僕を産んでくれた。


いつかリューリも子供を産むかもしれない。


…命懸けで。


その時、僕はきっと命懸けではない。




ああ、男は女性に対して借り、もしくは負い目を感じながら生きていくのだな、と。


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