第五章 八月その7

彼女の肩に手を置きながら、少し沈黙する。


僕の顔のすぐ横にリューリの顔がある。


わずかに、呼吸と体温を感じられる距離。


彼女の長い、長い髪がふわりと鼻先を掠める。


窓から差し込む夕陽が彼女の顔と髪を紅く染めている…はず。


はず、というのはこの距離で照れずに、彼女の顔を見る自信がないからだ。


カーリング練習のあと、シャワーを浴びたのだろう。石鹸の香りと制汗スプレーとほのかに汗の香りと。


間近で彼女の香りを嗅いだ僕は思わず、彼女を抱き締めそうになる。


その衝動を理性で必死に抑える。


一度抱き締めてしまったら。


その後僕はどうなるのだろう?


この感情が自分で整理出来ない内は…と思いとどまる。


第一、そんな横恋慕的な行動に何の意味があるのだろうか。


いや、意味がないどころか傍迷惑。


相手の気持ちを考えないで、自分の感情だけで行動してしまったら。


僕はそんな迷惑な男になりなくはない。


脈拍と連動するように僕の頭はフル回転し、そんなことを一瞬の内に導き出す。


そこまで考えて、僕は少し冷静さを取り戻す。


同時に自分の汗の香りがしていないか心配する。


『ふぅっ』


心の中で息を吐き出す。


剣道の試合で相手に悟られないように、自分の緊張を和らげる僕なりの儀式。


どれくらいこの体勢でいたのだろう?


名残惜しい気持ちを振り切り、リューリの横顔を見る。


チームメイトとして。


リューリは窓の外の夕陽をぼんやり眺めていた。


「ごめん。汗の臭いするかな?離れる」


「もう少し、このままでいい?」


「いいけど?」


「こっちは見ないで。そのまま聞いて」


「…わかった」


「私、ね。もう、女の子ではないの」


「…」


「女になった、ということ。わかるかしら」


僕は言葉に詰まって無言になる。


意味は、わかった。


たぶん。


何か言わないといけない。


「どうして、僕に話すの?」


「あなたには、いろいろ聞いてもらったから。言わないといけないと思って」


「話してくれて、ありがとう。ええと、彼氏との仲がよくてよかった」


僕の声が頭の上から聞こえる。


そんな、状態で。


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