怒りを手に (※虫注意)

 舞台の四方に立てられた、葉を一枚だけ付けた細い木の枝。一見頼りなげなこの枝を頂点として四角に石舞台を囲うように結界が張られているのだ、とかつてヤノは聞いたことがある。

 その結界に足を踏み入れると、薄い膜に阻まれるような抵抗を感じる。今回もまたそうだ。そこを強引に進めば、ほどなく消える。それから感じるのは、清涼な山のものよりもなお澄んだ空気。呼吸するだけで身の内が洗われるような気分になるのだが、今はそれに浸っている暇がない。

「タマリ様!」

 舞台の中央に座していた人の姿を見るなり、ニコが駆け出した。彼女こそニコが仕える者、長きに渡り祈祷と託占をもってカムラナの民を導く巫女タマリに他ならない

「よく来た!」

 ニコの声を聞きつけ、タマリは声を張り上げた。艶やかな黒髪を風に靡かせ、黒い瞳に落ち着きの色を湛えた今代の巫女タマリは、未だ齢十四の少女だった。しかし、さすが巫女というべきか、長い袖を右側のみを黒く染めた白い毛織りのドレスの裾を翻す姿には、若さに見合わぬ落ち着きと風格が垣間見える。

 タマリは真っ直ぐに立ち上がると、鋭い声をもって二人に短く指示した。

「準備はできている。急げ!」

 いつどのようにここへ来て準備とやらをしていたのか。問い質す隙もない。ヤノとニコはただタマリの指示に従い、互いに間隔を取って舞台の奥側に立ち、小銃を構えた。タマリを最前列に、三角形を描く位置取り。守るべき巫女が脅威に晒されて気が気ではないのだが、彼女の前に立つことを、他ならぬ巫女自身が許さなかった。

「なんだ、もう終わりか?」

 不可視の結界の向こうから、いなごの闇が侵入してきた。その先頭に立つ悪魔は、何処を見ているかわからぬ瞳のままにやりと笑んで、神域を犯していく。ヤノは銃を構えたまま、その光景をただ見ていた。銃を握る手に冷たい汗が流れるが、取り落とすことも引き金を引くこともないよう、恐怖の中で自らを御した。

 巫女は、瞑目して立ったままなにやらぶつぶつと唱えている。

 闇が、舞台の半分を覆った。

 悪魔が舞台の中央にたったそのとき、タマリはかっと目を見開き、左腕を掲げた。悪魔に突きつけた掌の先で、石舞台から突如鎖が出現し、悪魔の身体を絡めとる。

「今だっ!」

 タマリの号令に、ニコと二人銃弾を撃ち込んだ。銃声が四つ。山に反響して響き渡る。

 しかし、ヤノたちはさらに顔色を青くして銃を下ろした。撃ち込まれた四発の小銃の銃弾は、悪魔には届かなかった。神域の鎖に囚われた悪魔の前に、壁が立ちはだかったのだ。ちょうど身体を覆うだけの大きさの、蝗の壁。夥しい数の虫たちが、我が身を犠牲にして銃弾を絡め取ったらしい。

 役目を果たした蝗たちがばらばらと地面に落ちていく。悪魔を守る壁が上の方から崩れていった。

 虚ろな目でにやける悪魔の顔が見える。

「賢しいな。だが――」

 鎖から自由であった右腕が、すっとヤノたちに向かって伸ばされる。

「しょせん子供の浅知恵よ」

 突き付けられた悪魔の指に従って、蝗たちがヤノたちに襲い来る。その勢いはまるで激流。

「タマリ様っ!」

 蝗の激流のもっとも近くにいたタマリを庇うように、ニコが前に飛び出した。虫たちが襲う前に辿り着くと、ニコは呆然と立ち尽くすタマリの身体をヤノの方へと突き飛ばす。少しで遅れたヤノは、こちらに倒れてきたタマリを抱き止めたあと、戦友のほうを振り返った。

 ニコは、蝗の群れに呑まれていた。身体中に虫が集り、人の形を成している。真っ直ぐに向かっていたはずの蝗たちは、ある地点から皆方向を変え、ニコの身体へと向かっていった。

 あまりのおぞましさに、ヤノは動くことができなかった。助けに入ることも叶わず、巫女の顔を自らの身体に押しつけて〈片腕〉の惨状を見れぬようにするのが精一杯だった。

 悪魔の哄笑が、神域に満ちていく。

 ぎり、とヤノは奥歯を鳴らした。

 ――やがて。

 どう、と音を立てて、蝗の塊が横倒しになった。

「ニコ!」

 倒れたニコの身体から、波が引くように蝗たちが離れていく。まっさらな石舞台の中央に残されたのは、食い荒らされた真っ赤な肉塊だ。食い残したわりに血は舐め取られたようで、血溜まりは残っていなかった。

 襤褸ぼろ布を巻いた赤い塊に、頭の中が真っ白になる。

 同時に、ぱん、と弾ける音を聞いた。悪魔を拘束していた巫女の力が弱まり、鎖が消えてしまったのだ。

 それは、巫女が、己が力を分けた〈片腕〉を喪った証左に他ならない。

「ふん」

 解放された悪魔は、こきこき、と虫の肩関節を動かして自由を堪能する。

「さて」

 複眼がこちらを見据えた。ヤノはタマリをそっと座らせると立ち上がり、小銃を放り捨てて腰の剣を抜いた。決して長くない直刃を敵に向かって突きつける。

「次はお前かな?」

 にたり、と馬面が嗤った。

 ヤノは雄叫びをあげながら、悪魔の元へと突っ込んだ。それを迎え入れるように、悪魔の背後から蝗の闇が眼前に広がっていく。豪雨のように身体に叩き付ける虫たちに構わず、ただひたすら前へ。狙うは、司令塔――悪魔のみ。

 しかし、蝗の質量は凄まじかった。勢いに任せていた足は痛みに鈍くなり、ところ構わず飛び込む小さな影に視界は遮られる。

「く……っ」

 苦し紛れに剣を振り回すが、小さな標的には当たらない。当たったとしても僅か数匹で、大群を押し留めるにはほど足りない。

 次第にヤノは地面に膝をついていった。身を屈め、頭を庇い、ひたすら虫の蹂躙に堪える。

「無知なる哀れな子供たち」

 嘲り声が近くに聴こえた。

「我らに勝てるはずもなかろうに」

 そのねっとりとした声に、ヤノは気力を振り絞って腕を上げた。血に滑る柄を強く握りしめ、声のする方へと突き立てる。

 手応えはあった。だが、浅い。

 ほう、と感心する声。傷つけられてなお余裕に満ちた声は、ヤノの失敗を物語った。

「我にひと太刀加えたのは、褒めてやろう」

 剣が悪魔の身体から引き抜かれ、ヤノの手から奪われる。支えを失って地面についた手が、温かな泥濘に触れた。悪魔の血だ。されど致命傷には至らなかった。

 討てなかった悔しさと、死を享受するしかない絶望に、ヤノは右手を握りしめた。

「己の無力を嘆きながら、我が眷属に喰われるといい」

 視界がとうとう闇に呑まれた。


 ――ここで終わるか。


 誰かの声がする。耳慣れぬ、低い男の声。

 されど、身の内がざわついた。


 ――仲間を殺された憤りはその程度か。

   守るべき者を殺される屈辱に甘んじるのか。

   あれは理不尽にお前を喰うぞ。

   お前の全てを喰らい尽くすぞ。


 身体も、命も、家族も、友も、故郷も、全て。

 大切なものが数え上げられる度に、全身を流れる血が滾っていく。

「そんなこと……させるか……っ!」

 地面に拳を叩きつけ、身を起こす。頭をもたげ、未だ哄笑する悪魔を見据えた。

 闇の所為で、その姿を捉えることは叶わない。それがなお、ヤノの怒りを焚き付けた。

「悪魔などに、全てを奪われてたまるものか……っ!」

 弱る膝に力を入れ、蝗の嵐の中を立ち上がる。握る武器のないその右の掌を、見えぬ太陽を掴まんとばかりに天高く掲げた。


 ――我が怒り、振るってみせよ。


 掌にこびりついた赤い血が、天に吸い上げられているかのように、宙へと昇っていく。それははじめて球状に。やがて、左右に引き延ばされて、うねうねと練り上げられた。細長い棒となり、片側には刃が作られる。終に形取られたのは、銀色の光沢を持つ黒の槍。

 宙空に現れた槍を掴み取り、地に叩きつけんばかりに振り下ろす。

 軌道に沿って、嵐が割れた。槍の先にいたものは消し飛び、周囲にいたものは浮き上がる。

「なんだ!?」

 タマリの驚愕する声が聴こえた。

 闇に差しこんだ光に目を細めながら、槍をもう一度持ち上げて頭上で一回転させる。槍が差した先にいる虫たちは、穂先に触れたものも触れなかったものも皆消し飛んだ。

 逃れた十数匹を残して、血濡れたヤノは舞台に立つ。軽く足を開き、半身になって悪魔に相対する様は、満身創痍とは思えぬ気迫に満ちていた。

 悪魔の眼が大きく見開かれる。

「その槍は……っ!」

 これまで如何に可笑しかろうと、どこか虚ろだっが複眼が、ここで初めて光を宿した。

「魔槍ロンミニアド……!? 何故この地に――人間の手にそれがある!」

 先程までの人を弄ぶ愉悦の色すら消え失せて、戸惑った様子を見せる。その後、なにかに思い至ったか、ぎりぎりと歯を噛み締めて、肩を怒らせた。

「そうか、ホメル、あの嘘つきめ。我らは奴の言葉に惑わされたということか!」

 目に見えて分かるほどの怒りと憎しみをもって、悪魔はヤノを睨み付けた。

「愚かなる〝子ども達〟……! 永き時を経てなお、まだ我らを愚弄するとは……死をもって贖え!」

 だが。

「贖うのはお前だ」

 その憎悪に負けぬほどの気迫をもって、ヤノは悪魔に静かに言い放った。す、槍を後ろに引き、右足に重心を移して勢いよく地面を蹴る。弾丸のごとく勢いよく悪魔の懐へと飛び込むと、槍を前に突き出した。

 カァン、と槍が上に弾かれる。悪魔の蠍の尾が別の生き物のように動き、槍を弾いたのだ。

 ヤノは弾かれた勢いそのままに、石突きを振り上げ悪魔の顎を殴打する。仰け反った悪魔。今度は振り上げた槍の柄の中ほどを両手で持ち、振り下ろす。ぱっ、と身を捩った悪魔の左腕から血が弾けた。

 敵と距離を置こうとするヤノを追いかけて、蠍の尾が迫る。ヤノは突き出した槍をぐるりと回して尾を絡め取ったあと、尾をつけたまま今度は前に踏み出して悪魔の背に槍を突き刺した。

 ――ガアァ!

 翼をバタつかせて悪魔が悲鳴を上げる。尾がほどけ、地面を叩く。ヤノは悪魔の背を踏みつけて、槍を抜きざま宙を返った。

「おのれェっ!」

 こちらを振り向いた魔物が吠える。声に応えた蝗たちが一斉にヤノに飛び掛かるが、数百万から百に数を減らした虫けらたちが、今さら脅威になるはずもなく、槍一振りであっという間に塵となり消えてしまった。

「もう何をしようと無駄だ」

 眷属を失い狼狽える悪魔に告げる。言葉は冷静。だが、瞳の奥には容易には消せない炎が宿る。

「友を失った我が怒り、その身をもって知るが良い」

「ほざけっ!」

 ごう、と魔の者は再び吠えた。大気が震え、地が軋む。悪魔という存在の特別性が肌で強く感じられた。

 それでもヤノは怯まない。しかと槍を握りしめ、足を踏み出すと同時に槍を閃かせる。

 握ったことは幾度かあるが、ヤノの得物ではなかった。しかし、自らでもそれが信じられぬほど、魔王の槍はヤノの手の中で自在に動き、相手を追い詰める。

 そして悪魔は、遂にヤノの怒りに膝を折った。

「何故……モルド様の槍で、この私が……」

 無念の言葉を最後に、どう、と悪魔は舞台の上に倒れる。今になってようやくその真価を発揮した石舞台が僅かに白く輝き、悪魔の存在を厭うかのようにその身体を塵にした。

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