その槍、ロンミニアド

「よくやった、ヤノ」

 勝利の感慨もなく、青空に霧散した悪魔の末路を見届けたヤノは、背後からの声に振り返った。

「だが、その槍は……」

 ヤノは、タマリの不審の目の先にある槍を少し持ち上げた。黒の刃が銀光を弾くが、魔物との打ち合いで削れた刃の先には、錆のような赤い粉が付いていた。

「ロンミニアド――魔王モルドの槍だと、彼奴は言っていました」

「ロンミニアド……」

 まさか、とタマリは瞠目する。

 魔王モルド。それは詩人ホメルの吟じたアステールの神話に登場する悪魔たちの長の一人である。

 かつて、神話の時代。この世界アステールは、西の果ての島に住む悪魔たちの侵略に幾度となく見舞われた。魔王モルドはその悪魔軍の長の一人で、人間やエルフなどの多くの種族から選ばれた五人の英雄を追い詰めたことでもよく知られている。

 ヤノが手にするこの槍が、その魔王が振るった槍ロンミニアドであるという。

 まさか、とも思ったが、それよりも気にかかることがもう一つ。

「それより、ニコは?」

 絶望的な気分で尋ねるが、やはりタマリは首を横に振った。信ずる人を喪ってなお保っていた気丈さが、陰っていく。

「ニコの死により神域は穢され、私は力の一部を失ってしまった。悪魔の拘束が取れたのもその所為だ。私が抑えると大見得きって見せたと言うのに、このザマだ」

 タマリは弱々しく首を横に振った後、ニコのほうへ視線を向けた。変わり果てたその姿に、痛ましそうに顔を顰めた後、項垂れる。

「……ニコには、済まぬことをした」

 ぽつり、と落とされた言葉にまた、ヤノの胸も痛んだ。ニコを守れなかったのはヤノもまた同じだ。己の無力さが苦しく、心の弱さが憎かった。

 仇を討って怒りの炎が鎮まった胸の穴に、峰からの冷たい風が染みていく。

 やがて顔を上げたタマリは、濡れた瞳でヤノの見て言った。

「ともかく戻ろう。……脅威は去ったと、村の皆に伝えねば」



 幸いにして、賢い馬たちは、悪魔の難を逃れていた。

 ヤノは、自身が乗ってきた馬にニコの遺体を、ニコが乗ってきた馬にはタマリを乗せ、二頭の馬を引いて村に戻った。ニコの警報に気付いていた村人たちは、戻ってきた二人の様子に何事かと心配そうに駆け寄った。タマリは群がる村人たちに事の顛末を伝え、ニコの弔いの準備をはじめるようにと指示した。

 怪我を負ったヤノは、家に待機しているように、とタマリに言われ、自宅に戻ってきていた。身を清め、傷の手当てを受け、服を変えた現在、調理場と一体になった居間の床に直に座り込み、冷たい石壁に背を預けながら、ぼんやりと向かいの壁に立て掛けた黒い槍を見つめていた。

 黒の中に銀の光沢を持った真っ直ぐな両刃の穂先。黒く塗装された柄に取り付けられ、余計な装飾は一切ない。穂先の下に嵌め込まれた血止め用の金輪もまた黒。他の色の混じりなど感じさせない、純粋な黒色である。

 薄暗い部屋の中では影に溶け込んでしまいそうな色合いであったが、刃の銀光が己の存在を主張する。鈍いその輝きを見ていると、何故だか胸がざわつくのだ。

 魔王の槍と言われたからか。

 それとも己の血から創られた所為か。

「大丈夫、兄さん」

 兄の汚れた上着を持って外に出た母を見送ると、弟のユトが気遣わしげに尋ねた。

 ユトもまたヤノと同じく若衆の一員であったが、がっしりと筋肉の厚みを感じさせる体格を持つ兄と比べると、彼はほっそりとしていた。力強さでは劣るが、その分身軽さと素早さ、器用さを備えている。自分とは違う方向性に成長していることもあって互いに張り合うことなく、素直に自慢できる可愛い弟だった。

「ああ」

 だが、元来ぶっきらぼうなところのあるヤノは、そんな弟に対しても反応は素っ気ない。物思いに耽っているとなればなおさらだった。

「……その槍、本当に魔王の槍なの?」

 思案顔の兄に気付き、ユトもまたヤノの視線の先に目を向ける。

 悪魔が伝えた槍の正体について、内容が内容なだけにタマリは村人には公表しなかった。なのにユトが知っているのは、疲労困憊で帰って来たヤノが譫言のように呟いた言葉を聴いていたからだ。

「悪魔が言うには、そうらしい」

「なんだって、そんなものが兄さんの手に……」

「わからん」

 苦々しげに顔を歪めて、頭を掻きむしる。悪魔の襲撃、ニコの死、魔王の槍。この三つの出来事ばかりが脳内で反芻された。信じられぬことばかりで、どれも現実味がない。けれど、恐怖感や絶望感ばかりはざらりとした感触のままヤノの中に残っている。まるで悪夢の中にいるようだった。

 洗濯を終えた母が戻り、父が仕事から戻り。ようやくヤノが気を取り戻した頃には日が暮れて。

 食事を終え、ニコの葬儀について家族と話していると、家の戸が控えめに叩かれた。

「ザザ」

 訪問者を出迎えたユトが、兄を振り返る。弟の視線を受けて腰を上げたヤノはザザに用向きを尋ねた。

 ザザは自宅待機の若衆の頭目と亡くなった〈巫女の片腕〉に代わり色々と役目を負い、忙しく立ち回ったらしい。ひどく疲れた顔をしていた。本来ならば自分でこなさなければいけない仕事も押し付けてしまったようで、申し訳ない気持ちになる。

「タマリ様がお呼びだ」

 それから、と僅かに首を傾げつつ付け加える。

「槍を持ってこい、と」

 ヤノは立て掛けた黒い槍に目を向けた。剥き出しのままの魔王の槍は、暖炉の火を反射して鈍い銀光を放っている。

 家族に声を掛け、槍を持ってザザと共に家を出る。整備されていない道を通り、石造りの家の間を抜けて、村の中央へ。

 巫女の家は、矩形で造られた周囲と異なり、この建物だけは円形で、屋根もまたドーム状だった。板戸を開けて中に入れば、入り口部分を除いて一段高くした木の床が見られた。ヤノたちは土足のまま床を上がり、玄関と室内を仕切るように天井から下げられた複雑な模様の垂れ幕を捲って奥へと入る。

 そこはがらんとした広間になっていた。左右の壁側には篝火が置かれ、あとは広間の真ん中に毛糸で編まれた細長い敷物があるきりで、それ以外に調度品と言えるようなものは何もない。ヤノたちの向かい側には、入り口と同じように垂れ幕が掛けられていて、おそらくその向こう側に巫女の居住区画があるのだろう。だが、垂れ幕に隠されている所為で生活の実態など感じられず、ヤノにはこの家は伽藍堂の印象しかない。

 さて、ヤノを呼びつけた巫女タマリは、その部屋の中央、敷物から下りたところにただ一人座っていた。足を折り畳み、畏まった格好だ。若く小柄な身体だが、背筋はぴしっと真っ直ぐに伸び、顎も持ち上げられて、相変わらず年齢に見合わぬ威厳を感じさせる。それもそのはず、巫女タマリは、見た目と実際の年齢が乖離しているのだ。――否、正確には、肉体と魂の年齢が異なるというべきだろう。巫女タマリは、このカムラナの集落において、何度となく転じて生まれる存在だからだ。

 先代の肉体が年老いて死した後しばらくして、村の女の腹に新しい命が宿る。女児が生まれたのならば、それがタマリだ。彼女は死する前までの記憶を有しているので、映し身などではありえない。紛れもなくタマリ当人だと、村の者も巫女本人もそう認識していた。

 村がなってからというもの三百年。その間、転生を繰り返して在り続ける巫女。村長を差し置いて、村の誰よりも敬意を集める人物でもあった。

「おぬしは外で待っておれ」

 ザザは一礼して外へ出ていった。

「夜分にすまぬな。雑事に手間取うてしもうた」

 タマリはヤノを招き寄せると、床にある細長い編み物の敷物に座るように勧めた。彼女の傍らに向けると、タマリの左側に丸い石が散らばっている。何やら占いを行っていたらしい。

 タマリは、ヤノの持つ槍もまた敷物の上に置くようにと言い渡す。ヤノは指示された通り巫女の前に槍を置き、それを挟むようにしてタマリの向かい側で胡座を掻いた。

「ふむ……」

 タマリは右手を出して、そっと指先で槍に触れた。その黒袖がヤノの目につく。巫女が色を分けた相手の喪失に胸が傷んだ。

 やがて、タマリは穂先を撫でていた指を引っ込める。そして、傍らの石の一つをおもむろに拾い上げ、転がした。新しい石の配置を目を細めて見やり、ふう、とため息を吐く。

「……どうやら本当に魔王の槍ロンミニアドであるようだな」

 腕を組み、唸る。筆で書いたような形のよい眉の根を中央に寄せた。

 同じように、ヤノもまた太い眉を寄せる。

「ですが、これは……」

 躊躇いがちに発したヤノの言葉に、巫女は頷いた。

「そう、不可解なことは二つある。一つ。東の果ての、我らがカムラナの神域にあったこと。二つ。お前の血と悪魔の血から現れたこと。……特に二つ目の説明がつかぬ」

 カムラナは、アステールの東端に位置する山脈の中にある。不踏の峰々を越えた遥かその先には、神の住まう土地があると伝えられていた。そして、悪魔は西の果ての島に住む。

 この事実から単純に考えるのであれば、悪魔に由来するものが神の住まう地に程近いこの山にあるとは思えない。

 更に不可解なのが〝血から槍が成る〟という現象。この世には魔法という神秘の御業はあるが、ヤノはその力を扱う術を心得ていない。心得あったとしても、血から武器を生成する魔法など聞いたこともない。

 だからこそ、悪魔との因果が感じられてならなかった。

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