黒槍のヤノ ~新アステール叙事詩・序曲~

森陰五十鈴

迫る闇 (※虫注意)

 空に向かって聳えるカムラナムタの峰から不穏な風が吹き下ろしてきたのを感じて、ヤノは空を見上げた。青い空の下、白い雲が低く速く流れて、雪を被った峰の向こうへと逃げていく。天候に問題はなさそうなのだが、それでも胸騒ぎは消えずに残っているものだから、ヤノはその黒く太い眉を顰めずにはいられなかった。

 めえめえ、と羊たちが鳴く。腰にまとわりつく毛むくじゃらの生き物の頭を撫でてやりながら暫し。自らの勘を信じることにしたヤノは、弟に羊たちを任せると、急ぎ斜面を下った。羊毛を織った黒コートの裾を翻し、鍛え上げられた肉体で、低い背の植物しか生えていない急斜面を力強く駆けていく。

 ヤノは、自らの住まう村――カムラナの〝若衆〟と呼ばれる徒党の頭目であった。カムラナにおいて若衆とは、生家の仕事をこなす傍らで魔物から村を守るために戦う若者たちの集団を指す。そして彼らを率いる頭目になるということは、次代の村の長になることに他ならない。村に異変が迫るとき、率先して村を守らねばならない責務が、ヤノにはあった。だからこそ、羊の世話を放り出し、こうして山を駆け下りている。

 山を下るにつれ、見えてくる下方の景色。麓のほうが黒い霧のようなものが斜面を這い上がっているのが見えた。霧というよりは闇のようでもある。光を呑み込むばかりの蠢く黒い影。不吉な気配ばかりがある。

 明らかに異常な事態に精悍な顔立ちに焦りを浮かべ、凹凸の激しい斜面を下ること数分。北と南、二つの傾斜がぶつかり合うところに、石を積み上げて造られた小さな村が見えてくる。ヤノの暮らすカムラナの村だ。低きに向かうにつれて幅を広げていく三角形状の集落の端を通り過ぎ、底辺のさらにその先に建つ矩形の物見台に飛び付くと、低く掠れた声で上に居る人物に呼び掛けた。

「ザザ!」

 声に応じて、上から誰かが顔を出した。南中の太陽が逆光となった所為でその顔は見えないが、降ってくる声は間違いなく当人のものだった。

「ヤノか!」

 ヤノは直ちに塔の中に入った。壁から生えた螺旋階段を跳び跳びに駆け上がり、すぐに屋上に辿り着く。そこでは、日に焼けて顔を赤くしたヤノと同じ二十になる若者がこちらを振り返っていた。鍛え上げられた身体つきを見ても判るように彼もまた若衆の一人。ヤノに次いで若者たちを纏めあげる実力者だ。

「やはり気づいたか」

 流石だな、とその若者――ザザはわずかに口角を上げ、すぐに厳しい視線を外に向けた。

「何が起きている」

 ヤノは息を整えながら壁際に寄る。ザザの隣に並び立つと、欄干に手を置き身を乗り出した。

「さて……な」

 ザザは西の斜面を指差した。黄褐色の手袋の指先が示すのは、ヤノが駆け下りながら見た蠢く闇は、明らかにこの村へと迫っていた。

「闇か、影か。いずれにしてもあのように地を這うように滞っているのは見たことがない」

 それから眉の上に手を翳し、目を凝らした。

「あの下に何かいるな」

「見て来よう」

 ヤノは宣言すると、息を整えて間もないというのに、壁に立て掛けてあった小銃ライフルの一つを取り、下へと向かう。

「万が一のときは頼む」

 相手が頷くのを確認し、ヤノは螺旋階段の中央に突き刺さったポールを掴んで滑り降りた。羊の革をなめした手袋が摩擦を殺し、あっという間に地上に辿り着く。石床への着地の反動とともに前へ。塔の外へと飛び出した。

 気を付けろ、とザザの声が続いた。

 入口から飛び出したヤノは、塔を囲う木組みの柵に留められた一頭の馬の手綱を取り、飛び乗った。手綱を引いて方角を示し、腹を蹴る。村の若衆とともに鍛えられた勇敢な馬は、眼下の脅威に尻込むことなく闇を目指して駆けていく。

 ヤノは馬を操りながら、闇の中に居るものを見極めようと、目を凝らした。

「ヤノ!」

 左後方からの呼び声に、ヤノは集中力を切らして背後を振り返る。自分と同じように馬に乗った男が駆けてきていた。ザザと同じく、自分と同じ年頃の男。紺色の上着の右の袖のみが白く染め残されているのが目を引いた。

 ニコ、とヤノはその男の名を呼んだ。

 ニコはヤノの馬に併せて並走する。

「〈巫女の片腕〉が出てくるほどの事態か」

 ニコはヤノたち若衆とは違い、村を導く巫女の護衛士だった。片袖のみ白く染め残された上着は、その証左に他ならない。白は巫女のみに許された色。その色を分け与えられるのは、巫女に仕える者だけだ。

 その中でも特に〝片腕〟とまで呼ばれるほどに巫女の信を得た細面の男は、その肩書きに求められる冷静さでヤノの問いに顎を引いた。

「だろう。俺はただ、『急ぎ行け』とだけ言われた」

 巫女の護衛を勤めるだけあって、ニコもまた相当に武芸の腕が立つ。大抵の魔物であれば、一人で狩ることはできるし、対人においても、村一番の実力を持つヤノやそれに次ぐザザと肩を並べるほどの、剣の腕を持つ。正体の解らぬ脅威を前にして、彼の存在が心強いのは確かであった。

「あれが何か判るか」

 世の神秘を知る巫女の護衛なら、あの闇の正体を判りはしないかと訊いてみたのだが、ヤノの期待に反しニコは首を横に振った。

「魔のものが関わるとしか思えんな」

魔物モンスター、か」

 馬を駆ったまま、ヤノは憂う。

「だとしたら、大物だぞ」

 いよいよ闇が迫り来る際まで来たところで、二人は馬を止めた。ヤノは馬の頭を斜面にたいして横に向けると、肩に背負った小銃を構え、腰を捻って銃身を闇へと向けた。その照準を向けるべき場所を探してしばし。

 闇に、そして闇の前に立つもの正体に、ヤノは表情を強張らせた。隣のニコの気配もまた、張り詰めたものに変わる。

「……魔物ではない」

 喉の奥からうめき声が漏れる。冷涼な気候なのにも関わらず額から汗が流れるのも感じる。蠢く闇を形作るのは、いなごの大群だ。世界中の虫が集まったのかと錯覚するほどの、何十万、何百万といった数が寄り固まっている。

 そして、蝗を率いる異形。馬面に填まった複眼。身体は人のようであるが、関節は節くれ立っていて虫のよう。蝙蝠こうもりの翼と蠍の尾を持つ者の、その正体は。

「悪魔だ……っ!」

 ヤノの呻きに呼応し、ニコが信号弾を撃ち上げた。発砲音とともに、銃口から火急を告げる灰色の煙が立ち上る。

 音か、煙か。気を引いたらしい。漫然と進んでいた悪魔は、ふとこちらに目を向けた。背に冷たいものを感じつつ、ヤノは叫ぶ。

「止まれ!」

 蝗を引き連れた悪魔アバドンに銃口を向けた。

「ほう、このような辺境にまで人間が」

 悪魔は牙のはみ出た口元を歪め、鉄に砂を擦りつけたような耳障りな声を出した。

「相変わらず、何処にでも湧く生き物であるよなぁ」

 どれ、ここらで少し減らしておくか。まるで花を摘むかのような気軽い物言いに戦慄するとともに、怒りと使命感がヤノの勇気を奮い起てた。

 この悪魔を村に行かせるわけにはいかない。

 ヤノは敵に向かって小銃を撃つと、着弾を確認せぬままただちに馬の鼻先を北に向けて走らせた。ニコが続き、さらにその後ろを闇を従えた悪魔が続く。

「策はあるのか!?」

 言葉を風に流されまいと、ニコが声を張り上げる。

「あるはずがない!」

 今ヤノの頭にあるのは、どうにかしてあの悪魔を村に近づけさせないようにすることだけだ。とりあえず北へ。人気のないところへ。村から離れたところであの悪魔を迎え撃ち――

 その先のことが浮かばない。

「なら、神域へ行け!」

 思わぬ言葉に、全速で走る馬の上に居るにも関わらず、ヤノは背後を振り返った。

「正気か!?」

 ニコの言う神域とは、村より離れた場所にある、カムラナの祭儀を行う特別な場所を指す。巫女が神々より託宣を賜り、邪なものを祓う力を得る場所として、巫女自身が管理し、清らかさを保つ聖なる場所だった。

 その場所に、悪魔を導くという。

巫女タマリ様の力で、奴の力を削ぐ!」

 ご指示だ、急げ、と言い、ニコはヤノの前へ出た。仕方なくヤノもその後を追う。

 神域は、霊峰の急な斜面の中腹に瘤のように突き出た大岩の上にあった。自然の産物とは思えぬほどに平らに磨かれた岩の舞台。日光を弾く表面は、なるほど確かに清らかさが感じられる。ヤノも年に一度に行われる祭事でこの場所を訪れたことがあった。その度にこの地の清らかさを尊く思っていたものだ。そのような場所に悪魔を踏み入れさせるのは、気分の良いものではない。

 しかし、他に妙案もなく、ただニコの言葉を信じて従うしかなかった。

 神域の中には、馬は入れない。大岩の手前でヤノたちは馬を下りて放した。人間であっても許可されなくば入れないのだが、今回は既に巫女の赦しがある。ニコが躊躇いなく岩の舞台に向かい、ヤノも彼に続いた。

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