第65話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜 

    〜フィリピン〜


     =一九八八年=


        四月 



       〈六五〉



  「ほら、ほら」。運転席の隣に座っていたリサが笑い混じりでティムに言った。「ちゃんと前を向いて。スピードを落としなさいよ。本当にむちゃな運転をするんだから、あなたは。路肩のトゥライシクルをはねそうだったのよ。気づかなかったでしょう?」

  「心配は要らないって、〔ママ〕。僕はもうホテルのベルボーイじゃなくて、いまじゃ経験豊かなプロのタクシー運転手なんだから」

  「それを言うんなら、ティム、わたしももう〔ママ〕じゃないってこと、頭に入れておいてくれる?カラオケの世界からは去年身を退いているんだから。それに、いったい、あなたの運転のどこが〔経験豊か〕なの?」

  リサは、富田雄三さん夫婦と並んで後部座席に座っていたわたしに視線を向けた。「きょうみたいな特別の日を迎える前に、トゥリーナ、この人とのタクシー・リース契約を解除して、もっとましな運転手を雇っておくべきだったわね。…初めてマニラの外に出る和子さんが、この田舎のきれいな景色を安心して愉しめるように」

  「〔ママ〕!」。ティムは不満を装って言った。「マニラで一番の運転手である僕が信用できないと言うの?」

  「だれが〔マニラで一番〕よ」。リサはてのひらでティムの肩を打った。「とにかく、十分注意して運転するの。分かった?」

  「分かりましたよ」。ティムは笑いつづけていた。

  富田さんは妻の和子さんに、リサとティムの英語での会話を通訳してやっていた。

  和子さんの顔にも笑みがあふれていた。

  リサが和子さんに言った。「ティムノ ウンテン ダメデショウ?」

  和子さんは首を横に振った。「トテモ オジョウズ デスヨ」

  「あ、まずい」。リサは大仰に肩をすくめてから富田さんに言った。「いまの、英語に通訳しないでください、富田さん。ティムが知ると、また得意になってむちゃをしてしまいますから」

  「わかったよ、リサ」。富田さんは晴れやかにほほ笑んだ。

  だれもがうきうきとしていた。…わたしに負けないぐらい幸せな気分になってくれていた。

          ※

  「ところで、富田さん」。笑いがとぎれたとき、リサが言った。「トゥリーナの家に着く前に、改めて、わたしの感謝の気持ちを伝えさせてください。富田さん、あなたがあのとき、あんなふうに思慮深くトゥリーナを応援してくださってなければ、本当に、この人にきょうみたいな幸福な日はやって来ていなかったと思います。この人の昔のボーイフレンド、というよりは、現実には、あの人の母親を説得して、ユキの養育費をこの人に払うようあなたがしてくださったおかげで、この人は、いまではリース用のタクシーを五台も持つことができる身にまでになっています。…自分が買った新しい家をきょう、こうして、みなさんに見ていただけるようにまでなりました。ありがとうございます」

  「いや、僕がしたことなんて…」。富田さんの態度は以前とおなじように控えめだった。

  ティムが肩越しに大声で言った。「ミスター富田、そのとき友人を一人失われたかもしれませんが、四年ほど経ったいま、ここフィリピンに良い友だちがたくさんできました。…そうでしょう?」

  「そうだね、ティム」。富田さんは明るく答えた。「みんな良い人たちで…。トゥリーナに招いてもらってきょうのすばらしいパーティーに出席できることを、僕も和子も、とても喜んでいるよ。だけどね、ティム、それにリサ、本当のことを言うと、僕はあのとき、最初は、あまりちゃんとした調停人じゃなかったんだよ。何しろ、あいつと僕には長いつきあいがあったからね。実際、トゥリーナのために何かするよう、和子に強く勧められていなければ…。和子があんなふうにすっきりと事の良否を僕に説いてくれていなかったら、僕はあいつを説得できていなかったかもしれなかったよ」

  リサが富田さんの話を和子さんのために通訳していた。

  「もちろん、僕も和子も、ユキちゃんのために彼にしてほしいとトゥリーナが真実願っていたのは、養育費を払うことなんかじゃないということは分かっていたんだけど」

  リサが言った。「富田さん、父親でいたくない父親が無理に父親でいるづけるよりは、あのお金の方がユキのためなっているに違いありません。…そう考えましょう」

  「そうだね、リサ」。富田さんは答えた。

          ※

  「あ、見て、富田さん」。リサは道路の左の水田の向こうを指差したいた。「ほら、あれがトゥリーナがきょう、みなさんに披露させていただく家なんですよ」

  「あの白い壁の家?」

  「ええ。…ブラウンのタイル屋根の」

  「きれいな家だね!」。富田さんはそう言うと、とうに目を輝かせていた和子さんにほほ笑みかけた。

  「まあ、トゥリーナ」。リサが言った。「あれを見てよ。ユキが道路わきまで出て、わたしたちを待っているみたい。テレサも出てきたわ。二人ともあんなにきれいに着飾って。…あなたのご両親とリカルドが二人を後ろから見ている。玄関の前ではクリスティーナ‐ロベルト夫婦がマヌエルと話している。あ、ジョセフももう来ているわ。…ほら、女優の奥さん、アイーダもいっしょよ。…すごいね、トゥリーナ。あなたの友だちがみんな…。そう、みんな集まってくれているわ」

  リサはわたしの方を振り返った。その目が涙でうるんでいた。

  「ええ」。わたしはつぶやいた。

  わたしの目を見つめながら、リサは座席の背もたれ越しにそっと手を伸ばしてきた。わたしは彼女の手を取った。…二人にはだれとだれの姿がそこに欠けているかが分かりすぎるほど分かっていた。

  「ほら」。ティムが言った。「ユキが僕たちに気づいたみたい。あ、テレサといっしょに手を振り始めた」

  

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小説 「夢をただよい」 @aeguchi

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