第64話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十二月 



       〈六四〉



  国際コンヴェンション・センターで大きな会議でも開かれていたのか、タクシーはロハス・ブルヴァードとヴィト・クルス通りの交差点で軽い交通渋滞に巻き込まれていた。

  「ねえ、トゥリーナ」。短い沈黙のあと、クリスティーナは言った。「わたしね、自分の乗っているタクシーがマニラ国際空港に近づくといつも…。どう言ったらいいのかな、これ。…気持ちがみょうに落ち着かなくなり始めるのよ」

  「〔落ち着かなく〕?」

  「ええ。…おかしいね。きょうはわたしが日本に行くのじゃないのに」

  「どうしてかしら」

  「いえ、分かっているのよ、わたし。…それはね、トゥリーナ、ずいぶん前―わたしがマニラでカラオケシンガーとして働きだす前―に、田舎のおばあちゃんにくり返し聞かせられた話のせいなの。

  「そういうのって、たぶん、フィリピン中のあちこちにある、トゥリーナ、あなたも一度ぐらいはどこかで耳にしたことがある類の話なんでしょうけど、わたしにとっては間違いなく、特別な話。…タクシーが空港に近づくと必ず思い出してしまうほどには特別な話。

  「第二次世界大戦の最中に、わたしが生まれ育ったパナイ島ではね、トゥリーナ、おばあちゃんが言うには、島を占領していた日本軍が住民たちにずいぶんひどいことをしたんだって。住民たちのあいだに反抗の動きがあるという理由で―反抗の気配があるというだけの理由で―住民たちを、老若男女に関係なく、殺したり、若い女をレイプしたり。

  「おばあちゃんの姉二人と兄一人、それに、まだ幼かった姪―そのときまだ五歳にしかなっていなかったわたしの伯母―一人も、やっぱり殺されたんだって。おばあちゃんは、トゥリーナ、自分の姉たち、兄、姪が、ほかの、何の罪もないフィリピン人たちといっしょに生き埋めにされるところを見たんだって。見させられたんだって。…生き埋めだよ。

  「わたし、タクシーが空港に近づくと、いつもその話を思い出してしまうの。思い出して、気持ちが落ち着かなくなるの。わたしがカラオケシンガーとして働くようになってから、おばあちゃんがその話を二度としなくなったわけは、トゥリーナ、あなたにも想像できるよね」

  わたしは無言でうなずいた。

          ※

  「でも、きょうは少し違うみたい」。クリスティーナはつづけた。「落ち着かない感じがあることには変わりないけど、前のときとはどこかが違う。…きっと、あのせいだと思うよ」

  「〔あのせい〕?」

  「わたしね、トゥリーナ、いまの話は、日本でだってマニラでだって、わたしの日本人のお客さんには、だれにもしたことがないのよ。お酒を飲んで陽気に歌っているお客さんたち―フィリピンとフィリピン人のことをどう見ているか分からない日本人たち―にそんな話はできないもんね。

  「でも、高野さんだけは例外。わたし、あの人には話してしまった。…わたしの話を聞いてあの人が目に浮かべた涙のことは、わたし、生涯忘れないよ。

  「あなたが[さくら]に戻ってくる少し前のことだったわ。そんな話をすることでわたし、自分のこと、自分の仕事のことをあの人に理解してもらいたかったのかもしれないね。ほら、この前、ロベルトのことを、トゥリーナ、あなたに話したように、この人なら理解してくれるんじゃないか、と思って。

  「でも、あの人があんなふうに涙を浮かべるなんて、浮かべてくれるなんて、わたし、思ってもいなかった。あの人、ずいぶん悲しそうだったよ。まるで、わたしの伯母たちを殺したのが自分ででもあったかのように、すごく苦しそうな表情だったよ」

          ※

  高野さんはいまでもそういう人だ、とはわたしは言わなかった。

  わたしと出会う前、どころか、たぶん、メルバと出会う前から、あの人はそういう人だったのだ、ということをいま、クリスティーナ、あなたの話から知って、あの人が、たとえば、サポーテでの出来事になぜあんなふうに関わっていくのかが、これまでよりもいっそう深く理解できるようになった気がする、とも言わなかった。

          ※

  わたしが最後に会ったときの高野さんは、アルベルトを手助けすることで、〔あの連中〕に代わって、ルーベンとアルベルトに償いをしようとしていた。わたしはそう受け取っていた。それに間違いはなかったはずだった。  でも、一方で、高野さんは自分を〔典型的な日本人〕と表現していた人だった。そうである自分を真の〔自分自身〕に戻そうと戦い、もがきつづけている人だった。

  わたしはこう思い始めていた。…あの人が〔代わって〕いたのは、単に〔あの連中〕だけではなく、日本人全体だったのかもしれない。あの人は、クリスティーナの伯母たちを生き埋めにした日本軍に代わって、エヴェリンを精神錯乱にまで追い込んだ小林という貝殻ボタン製造業者に代わって、ルーベンにひどい火傷を負わせアルベルトを襲わせた〔あの連中〕に代わって、さらには、たぶん、メルバから夢を奪ってしまったあの人自身に代わって、そんな日本人全体に代わって、過去の過ちを、ルーベンとアルベルト、いや、フィリピン人全体に、償おうとしているのかもしれない。

          ※

  わたしは静かに目を閉じていた。

  クリスティーナはつづけた。「だから、わたし、慌てて〈でも高野さん、それは大昔の話。ワカイニホンジン カンケイナイヨ〕とつけ加えたけど、遅かった。あの人、顔を曇らせたまま、こう言ったわ。〈もし、そのあと、フィリピンの人たちを傷つけるようなことを日本人が何もしていないのだったら、若い世代には関係ないことだと言えるかもしれないけれども…〉  「だから、わたし、こう言ったの。〈わたしは、高野さん、フィリピンでは絶対に稼げない額のお金を稼ぎ出す機会が日本にある限りは、そんな過去は気にしないよ〉

  「その言葉はあの人をいっそう悲しませたみたいだった。わたしは、あの人に少しでも気を晴らしてもらうつもりで、パナイのお年寄りのあいだで広く信じられている話をしてみたわ。〈おばあちゃんはこうも言っていたよ。〔フィリピン人に直接手を下したのは―本当に残虐だったのは―日本人の兵隊たちじゃなくて、実はコーリアンだった〕って〉

  「それも逆効果だったわ。あの人の目にたまっていた涙が頬にこぼれ始めたの。あの人はこう言ったわ。〈そこにコーリアンがいたとしたら、クリスティーナ、その人たちは日本軍の手で強制的に母国から連れ出され、日本軍の軍事行動を手伝わせられていた人たちだよ。その人たちには、自らの意思で何かをする、ましてや、住民をレイプしたり殺したりする自由はなかったはずだよ。仮に、直接手を下したのがコーリアンだっとしたら、それは、日本軍にそうしろと命じられたからだったに違いないんだ。日本軍の命令は絶対で、その人たちはそれに従うしかなかったんだ。従わなければ、命令違反という理由でその人たちが処刑されていただろうからね>

  「あのとき、高野さんの涙を見てから、わたしの中で何かが変わったんだと思うよ」

  クリスティーナは唐突に黙り込んでしまった。

          ※

  わたしは目を開いた。タクシーはバクララン教会の前を通り過ぎたところだった。

  「あんたたち、カラオケのシンガーだろう?」。運転手が話しかけてきた。カー・ラジオの音楽は消されていた。

  「そうよ」。クリスティーナが答えた。「分かるの?」

  「そりゃ、分かるよ。あんたたち、二人とも美人だし、化粧がうまいし、着ている服が違うし、第一、大きな荷物を持って空港に向かっているんだからね。日本に行くの、二人とも?」

  「この人はそうだけど」。またクリスティーナが答えた。「わたしは違うよ」

  リアヴュー・ミラーをわたしの方に合わせながら、運転手は言った。「だったら、あんた、日本では…」。声に変な笑いが混じっていた。「ちょっと気をつけて暮らすことだね。おかしな日本人があんたを襲ってくるかもしれないから。…報復しようというんで」

  「何よ、それ!」。クリスティーナは鋭い声で言った。「日本ではどうかいいことだけがありますようにと念じながらこれから飛行機乗ろうとしている人間に向かって、そんな縁起の悪いこと言わないで!」

  「そりゃあ悪いことを言ってしまったね」。運転手はわびて見せた。「もちろん、そんなつもりはなかったんだよ」

  「そんなつもりがあったんだったら、絶対に許さないところだったわ」。クリスティーナは言った。「でも、〔報復〕というのはどういうこと?」

  「いや、ラジオのニュースが何時間か前からずっと、日本人だと思われる男が一人、昨夜マカティで射殺されたって報道しているんだけど…。そのことを、あんたたち、知らなかったんだね?」

  クリスティーナは言った。「知らなかったわ。でも、その話と〔報復〕とにどんな関係があるのよ」

  「だから、それは悪い冗談。謝るよ。ただ、その男が射殺されたのがマカティの[パレス]というカラオケの店の前だったらしいし、射殺したのがその店のガードマンだということだから、ほら、その男の身内か何かがフィリピン人のカラオケ関係者を恨んで、報復しようと考えて、日本でシンガーを襲うかもしれない、なんてばか話をすれば、空港まで、互いに退屈しないですむかな、と考えたもんだからね。…あんたたち、急に黙り込んでしまっていたから」

  「本当に〔悪い冗談〕だわ。それに、わたしたち、退屈なんかしていなかったわよ」。クリスティーナは運転手にそう言うと、顔をわたしに向けた。「でも、大変だ、トゥリーナ」

  わたしの視線は宙をさまよっていた。マカティという地名が途方もなく悪い兆しに聞こえていた。

          ※

  「まさか、あんたたち」。運転手はリアヴュー・ミラーをクリスティーナに合わせた。「その[パレス]のシンガーじゃないんだろうね?」

  「そうじゃないけど」。クリスティーナが答えた。「そんな話は他人事に聞こえないじゃない。わたしたちのお客さんでもあった人かもしれないし…。で、その射殺された人って、〔日本人だと思われる〕とさっき言ったけど、それだけ?」

  「ニュースは〈警察は〔状況を考えれば、射殺されたのは日本人に違いない〕と見ている〉としか伝えていないからね。その男は、自分の身元が知れるようなものは何も身につけていなかったんだって」

  「その人と[パレス]とのあいだで、もめごとか何かあったの?」

  「そういうことじゃなかったみたいだよ。ニュース・リポーターが当事者たちへのインタビューを混ぜて伝えている話は、まとめれば、こんなふうだからね。

  「きのうの夜中、十二時に近いころ、[パレス]の日本人男性客の一人が店から出てきて、店からほんのちょっと離れた場所に待たせていた自分の自動車の後部座席に乗り込もうとしていたとき、どこからともなく、フィリピン人らしい男が飛び出してきて、いきなりその客に向かって、英語で何やらどなりかけ始めた。店のガードマンは、目の前のうす暗がりの中で何が起こっているかがすぐには分からなかったけども、まさかの場合に備えて、拳銃を抜いて様子を見ていた。飛び出してきた男は、車の中に入ろうとする日本人客の腕をつかんで引き戻し、さらに何かを叫んでいた。客が危ないと感じたガードマンはその男に拳銃を向け、〈やめろ〉と命じた。男はガードマンに顔を向けると、彼にはタガログ語で〈僕はこの日本人と話がしたいだけなのだ〉と―リポーターの言葉どおりに言うと―〔まるで、ガードマンの慈悲を乞うかのような口調で〕言った」

  「痛いよ!」。クリスティーナの声は叫びに近かった。

  それほど強く彼女の手を握りしめていることに、わたしは気づいていなかったのだった。わたしは握りを緩め、つぶやいた。「ごめんなさい」

  「それはいいんだけど、トゥリーナ、どうかしたの?」

  わたしは嘘をついた。「…何でもない」

  「そう?」。クリスティーナはそう言うと、また運転手の話に耳を傾けた。

          ※

  運転手はつづけた。「だから、ガードマンは、いったんは、タガログ語をしゃべったフィリピン人の男は強盗か何かの目的でその日本人客に近づいたのではないようだ、と思った。二人の英語での言い争いはまだつづいていた。ガードマンはどう事態に対応したものかを思案していた。そのとき、それまで車の中から二人とガードマンの動きを見ていたらしい運転手がドアを開き、二人が言い争いをしているのとは反対側に姿を見せた。フィリピン人の男は運転手にもタガログ語で〈僕はこの日本人と話がしたいだけなのだ〉と伝えた。運転手は瞬間ためらったようだったけれども、注意深く、ゆっくりと車の反対側に向かって足を進めだした。その動きを見てパニックに陥ったのか、フィリピン人の男は急に客のバロン・タガログの襟首をつかむと、また何かを叫びながら、客の上体を左右に揺すりだした。ガードマンは数歩二人に近づき、男にもう一度〈やめろ〉と言った。

  「そのときだった。通りの向こう側の暗がりから、突然、別の男が一人、無言で、言い争っている二人の方に向かって走り出てきた。ガードマンは、走り出てきた男はフィリピン人の男の仲間だ直感した。理由は何であれ、フィリピン人の男といっしょになってその日本人客に暴行を働くつもりだ、と判断しないわけにはいかなかった。客が日本語で何か叫んだ。ガードマンは、今度は、走り出てきた男に拳銃を向けて〈とまれ〉と言った。男はとまらず、つかみ合い状態になっていた二人の方に向かいつづけた。ガードマンはもう迷ってはいられなかった。彼は拳銃の引き金を引いた。一回目は命中しなかったけども、二回目は男の脚に当たったようだった。男はほとんど宙に浮くような状態でよろめいた。ガードマンは三発目の弾を放った。男の胸に当たったようだった。男が地面に転がるのを確かめるとガードマンは、争っていた二人に視線を戻した。フィリピン人の男はすでに辺りの暗闇の中に消え去っていた。路上には銃弾を受けた男が血を流しながら横たわっていた…。

  「襲われた客にも、ガードマンにも、死んだ男がだれであるかは分からなかったそうだよ。運転手も[パレス]の従業員たちも、だれも、その男を見たことがなかったって。逃げたフィリピン人の顔をちゃんと見た者もいなかったらしいね。襲われた客は、そのフィリピン人の手から逃れるのに追われて、顔を見る間がなかったし、ガードマンの位置からは二人が争っていた場所は遠かったんだね。運転手が見たのは、男の後ろ姿だけだったそうだ。

  「襲われた日本人客は警察に、どういうわけで自分が襲われたのかはまったく見当がつかない、それに、自分は英語がそれほど流暢ではないし、フィリピン人の男の英語には強い訛りがあったから、何を言われているのかも分からなかった、と言っているらしいよ。一方、二人のやりとりが聞こえていたガードマンは、英語が得意ではないから、やりとりの内容までは聞き取れなかった、ということだ。運転手は、気が動転してしまって、自分の雇い主を守らなければと考えたところまでは覚えているけれども、ほかのことは、いったい何がどう起こったのかまったく覚えていない、と申し立てているそうだ」

          ※

  「その日本人のお客さんの名前は報道されているの?」。クリスティーナはタクシー運転手にそうたずねてから、わたしに向かってささやいた。「うちのお客さんでもあった人だと、いやだね」

  体が小さく震えだしていた。

  その客がだれだったか、逃げたフィリピン人がだれだったかは、簡単に言い当てることができるような気がしていた。店のガードマンに拳銃で撃たれてマカティの路上に血まみれとなって倒れた男性がだれなのかも、わたしにはもう分かっているのかもしれなかった。

  運転手はクリスティーナに答えた。「ああ。ニュース・リポーターは客の名前を告げていたと思うよ。だけど、いまは思い出せないな。…ラジオを聴いていれば、そのうちに分かるはずだよ」。運転手は自分の腕時計にちらりと視線をやった。「あと十五分ほどで、またニュースの時間になるからね。その客がマカティにある、何とかという日本の貿易会社の社員だということなら覚えているんだけどね。…何という名の会社だったかな」

  体はまだかすかに震えていた。

  「ねえ、思い出してよ」。クリスティーナは運転手に催促した。

  「あれは、たしか、タガログ語にある単語に似た音で…。そう、〔メイ〕(持つ、持っている)何とかだったと思うよ。ああ、たぶん、[〔メイワ〕]だったんじゃないかな」

  「[メイワ]…」。そうつぶやいてから、クリスティーナはわたしに顔を向けた。「そんな会社に勤めている人は、トゥリーナ、うちのお客さんの中にはいないみたい。え?待ってよ。まさか。でも、偶然かな。ねえ、トゥリーナ、[明和商事]というんじゃなかった?ほら、高野さんが以前に働いていたという会社?」

  わたしは無言でうなずいた。

  「でも、関係ないよね、トゥリーナ」。クリスティーナは視線を元に戻すと、強いて笑顔をつくりながら言った。「あの人、何か月も前に、まだ日本にいたときに、その会社を辞めているんだもんね。その、襲われたお客さんというのは、高野さんの知人だったかもしれないけれど、当然、高野さん自身じゃないよね。…あ、まだ胸がどきどきしている。そんなわけはないのに、一瞬、頭がこんがらがってしまって、わたし、心臓が破裂しそうだったよ。…襲われたの、あの人だったんじゃないかと思って。…ばかみたい。…でも、トゥリーナ、射殺されたのも日本人だとすると、その人、いったいどういう人だったんだろうね」

  わたしは無言でまっすぐ前を見据えていた。

  マニラ国際空港の建物がもうすぐそこに迫っていた。

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