第63話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十二月 



       〈六三〉



  [さくら]の前でクリスティーナといっしょに乗り込んだタクシーがマニラ国際空港に向かい始めてから、時間はまだいくらも経っていなかった。

  「あなたの日本行きのことね、トゥリーナ」。運転手はカー・ラジオから流れ出ている大きな音の音楽に聞き入っているように見えていたのだけれども、わたしたちの会話を彼に聞かれたくなかったのだろう、クリスティーナはわたしの耳元でつぶやいた。「やっぱり、何としても、高野さんに知らせておくべきだっと、わたし、いまでも思うけどな。あの人がいないと、あなたもサビシイ デショウ?」

  「淋しくはないわ、クリスティーナ」。メルバはだれに見送られることもなく、一人きりで長くて辛い旅に出かけたのだ、と自分に言い聞かせながら、わたしは答えた。「あなたが空港までいっしょに来てくれるだけで、わたし、十分に幸せよ。ありがとう」

  「ほんと?」

  「ええ、本当よ。もし、わたしがそう見えないんだったら、それは、たぶん、気持ちの昂ぶりのせい。だって、二年もあいだが空いたあとの日本での仕事ですもの。…いろんなことが頭に浮かんできて」

  「もう遅すぎることだし」。クリスティーナはわたしの返事を無視して言った。「高野さんは自分の都合で長いあいだ[さくら]に顔を出さなかったわけだけど…。あの人、あなたが日本に行ってしまったことを知ると、驚くわよ。がっかりするわよ。…ひどく淋しがるわよ。メルバが突然いなくなったのも、そんなに前のことではないんだから」

  「あの人は、クリスティーナ、そんなには驚かないわ」。わたしはそう言いきった。…数日前のマカティでの〔デイト〕の際にふだんの何倍も陽気に振る舞うわたしを見て、あの人はそんなときがもうすぐやって来るのを予感してくれたはずだ、と思いながら。

  「そうかな」

  「リサが松江に、メルバが福岡に行ってしまったとき以来、あの人、わたしたちの日本行きがどんなに急に決まるものかを知っているのだから」

  「それでも、きっと、がっかりするよ、あの人」

  「女たちがマニラのカラオケの店で働くのはみんな、遅かれ早かれ、いずれ日本に行くためだってこと、あの人はよく分かっていたわ。…わたしもその例外ではないってことも」

          ※

  タクシーはロハス・ブルバードを南に向かって走っていた。

  レストラン[アリストクラット]の前を通り過ぎるところだった。クリスティーナはたずねた。「ということは、トゥリーナ、あなたが日本のどこで、どの店で働いているかも、あの人には知らせないつもりだってことね、いまでも?」

  「ええ」。タフト・アヴェニューのバス停でメルバが浮かべた困惑しきった表情を思い起こしながら、わたしは答えた。「だから、クリスティーナ、お願いしたとおり、あなたもそのことは知らない振りをしつづけてね。…ごめんなさい。難しい役を押しつけて」

  「そんな嘘なら、ほら仕事柄、けっこうつき慣れているから、いいんだけど、トゥリーナ、でも、どうして?いえ、あなたを困らせたくて言うんじゃないのよ。そうじゃなくて…。[さくら]で働く者ならみんな、高野さんがあなたのこと好きだってことに気がついていたわ。…あの人はあなたといっしょには一度も歌わなかったかもしれない。〔ママ〕リサといっしょのときと違って、あなたといっしょのときはあの人、あまり笑わなかったかもしれない。でも、あなたと話しているときのあの人はいつも、とても幸せそうだった」

  わたしは前方を見つめたまま、あいまいにほほ笑んでいた。

  クリスティーナはつづけた。「そして、トゥリーナ、あなたは気づいていなかったかもしれないけど、あの人のテーブルに着いているときのあなたは、いつも、ほかのどんなときにもまして、すごく優しい顔をしていた。…みんなが、あなたもあの人のことが好きなんだ、と思っていた」

          ※

  防波堤の外を小さなボートが数隻穏やかに帆走しているマニラ・ヨットクラブの港がヤシの並木の向こうに見えていた。

  「正直に言うと、クリスティーナ」。わたしは言った。「あの人といっしょのときのわたしは、たしかに、みょうに優しい気持ちでいることができたわ。…おかしいわね。でも、それだけ。

  「だって、わたしには、あの人がいつかは、メルバやわたしのような女が要らない場所に身を落ち着ける―落ち着かなければならない―人だってことが分かっていたから。…それに、クリスティーナ、あの人自身も、自分は現実のわたしではなく、自分が見たいわたしをわたしの中に見ているんだってことに、ちゃんと気がついていたはずよ。あの人にとって、この国は、そうね、初めは夢の中の〔おとぎの島〕だったかもしれない。メルバとわたしはあの人の〔プリンセス〕だったかもしれない。でも、クリスティーナ、あの人は〔おとぎの島〕の中でだからメルバとわたしが〔プリンセス〕に見えるのだってことが分かるようになっていたわ。

  「高野さんにとって、メルバとわたしは、クリスティーナ、ほら、あなたの〔赤いメルセデスに乗っている、裕福なビジネスマンの息子〕や〔有名なギタリスト〕みたいなものだったと思う。その人たちは、あなたの〔おとぎの島〕日本で、あなたにいく晩かいい夢を見させてくれたかもしれない。でも、それ以上の人たちだったかしら?

  「高野さんも、メルバとわたしを相手にいくらかは心が満たされる夢を見たかもしれない。でも、やっぱり、それだけのこと。…クリスティーナ、あの人がこの国で体験しているおとぎ話はもうすぐ終わろうとしているところなの。あの人にとってはハッピーエンドにはならないかもしれないけれど、その話が終わってしまえば、あの人はちゃんと夢から覚めて、自分自身の現実世界に戻っていくわ。…日本かカリフォルニアにあるはずの。

  「わたしね、クリスティーナ、わたしが日本のどこで働いているかなんて、あの人には知る必要のないことだと思っている。…メルバの居場所もそう。あの人は幻の〔プリンセス〕なんか要らないところで暮らさなければならないの」

          ※

  「トゥリーナ、あなた、結婚しているんだね」。クリスティーナはぽつりと言った。

  予期していなかった言葉だったのに、わたしは落ち着いて答えることができた。「ええ」

  「でも、それ、幸せな結婚じゃないみたい」

  「そうね」。わたしは素直だった。

  「子供は?」

  「娘が二人。ブラカンの両親にあずけているの」

  たずねられれば、それぞれの娘の父親のことについてだって、わたしは淡々と答えていたかもしれない。

  クリスティーナは言った。「いろんな人生があるんだね、この世の中には」

  「本当に」

  「ねえ、トゥリーナ」。クリスティーナは座席の背もたれから背を離し、わたしの顔を覗き込むような姿勢で言った。「正直に答えて。あなたには高野さんがあなたの〔プリンス〕に見えたことはなかった?」

  その瞬間、かつては共に優しく知的に見えたセサールと克久の顔がわたしの頭をさっとよぎった。わたしは答えた。「いいえ。あの人がそんなふうに見えたことはなかったわ」

  「あなたに出会うこと、あなたを幸せにすることを運命づけられて北の島からふらりやって来た〔プリンス〕にあの人が見えたことなかった?」

  「なかったわ」

  「そんな夢を見たことはなかった?」

  「そうね、クリスティーナ、数年前のわたしだったら、もしかしたらそんな夢も…。でも、いまのわたしは、人生は夢を追っているだけでは生きていけないってことが分かる女になっているみたいよ」

  「そうか」。クリスティーナは姿勢をもとに戻した。「やっぱり、あなたも苦労してきたんだ」

 

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