第62話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈六二〉



  「アルがオレンジジュースを飲んでいるあいだ、トゥリーナ」。高野さんは静かに話をつづけた。「僕は、数隻の貨物船が沖合にみょうにのどかに浮かんでいるマニラ湾をぼんやりと眺めていた。…〈[東海]の副社長と児玉さん…。この日本人たちはいったい何なんだろう〉と考えながら。だって、彼らの頭には、サポーテでの不法操業に対する反省も、ルーベンに負わせた火傷に対する良心の呵責も、アルを襲撃させることに対する罪悪感も、何もないようだったからね。

  「アルは彼の話に戻った。…カスティーヨは、ナヴァロ社長の命令を受けたマルティネスが〔マニラのどや街のギャングか何か〕を探し出す役を自分に押しつけてこないようにと祈っていた。カスティーヨは、そんな件で〔ギャングか何か〕と交渉する器量や、彼らにだれかを襲わせる度胸など自分にはないことがよく分かっていたし、そもそも、そういう〔力ずく〕の対応には嫌悪感さえ抱いていたからだった。

  「彼にとってありがたかったことに、今度はマルティネスが自分で積極的に動いた。あちこちに何本もの電話をかけて必要な情報をあつめ、最後には自分一人でその〔ギャングか何か〕に会いに出かけていった。…そうすることで、〔倉庫〕での重大な失策を補おうとでもしているかのように。

  「それでも、カスティーヨはまだ、マルティネスの試みが失敗するよう、アルに対する襲撃が現実にならないよう、願っていた。[東海]に―[東海]に薦められて会った児玉さんに―示唆されたことを口実にして[ナヴァロ・メタル]がそんな汚い手を使うことにならないように、と祈っていた。

  「けれども、アルは襲撃された。…マルティネスはカスティーヨに〔アルがこちらのメッセージをちゃんと受け取ったかどうか〕を見極めるよう命じた。

  「カスティーヨは動かなかった。…襲撃されたあと、僕に、次の行動はしばらく待とうと言ってきたアルがもうその翌日には、自分を尾行したり見張ったりしている者はいないようだ、と言ってきた背景には、カスティーヨがマルティネスの命令を無視した、という事実があったんだね。

  「カスティーヨの目には、この件に絡んでいる人物がみな異常に見えていた。保身、責任回避、利己、虚栄…。彼は事態の展開にうんざりしていた。疲れていた。…アルが訪ねたのは、そんなふうに疲れているカスティーヨだった」

          ※

  「アルは僕に言った。〈話の中で、[貿易]のチャヴェスとかいう男を除けば、自分一人を良心的な人間に描き出したカスティーヨは、ヒロシ、結局は、あのカネを受け取ったよ。…もともと、そうするつもりのカネだったのだし、それに見合うだけの、もしかすると、それ以上の情報が聞き出せたわけだから、そのことについてあれこれ言うつもりはないよ。けれども、とにかくルーベンは、こんな連中の、何と言うんだろうか…。卑しい欲?野心?ゆがんだ心?そんなものの犠牲になったんだね〉。アルはつづけた。〈〔自分も賠償金か何かをせしめようというので、どこかの裏庭のため池に自分の子供を故意に投げ込む者が出てくる〕だって?そんなことが真顔で言えるのは、ヒロシ、いったいどういう種類の人間なんだろうね〉

  「僕は、トゥリーナ、返事ができなかった。…もし、三年前に吉田と僕が[東海]の要請を拒んでいれば、彼らを助けていなければ、という思いにまた捉えられていて。いや、トゥリーナ、正直に言うと、僕も、現実には、〔社内の人間が書いた紹介・推薦状を持って訪ねてきた人物を無視したりひどく冷淡に扱ったりするのは[明和]内の慣行に反していたし、[東海]がその後何をどう実現していくかを予測するのも不可能なことだったのだから、ルーベンの火傷を―事がここまで醜悪に展開するのを―未然に防ぐことは、やはり、僕たちにはできなかったのかもしれない、と考えてもいいんじゃないか〕と思ったこともあるんだよ。だけど、[明和]が―児玉さんが―そこまでそんなふうに関係していたことを知ったあとでは…。一度[明和]で働いたことがある人間としては…」

  「高野さん」。わたしは言った。つぶやきに近かったかもしれない。「その児玉という人に代わってあなたが何かを償う必要はないと思います」

  唇の端にかすかに笑みを浮かべただけで、あの人は何も言わなかった。

          ※

  「アルはこう言ったよ」。高野さんはつづけた。「〈いや、僕もいまでは、もちろん、[ナヴァロ・メタル]にはルーベンの火傷の償いをしてもらわなければならない、と思っているんだよ。操業がたとえ合法的に行なわれていたにしろ、あんな事故が起こるのを防ぐために必要な注意を連中が怠っていたことは明らかだからね。ましてや、それが不法だったとなれば、甥っ子には、当然、治療費を払うよう連中に求める権利があるはずだよ。それに、ルーベンは一生、傷跡を背負って不自由に生きていかなければならないだろうから、そのことについても連中に補償を求めるべきだと思っているよ。だけどヒロシ、僕は〔ゆすり屋〕なんかではない。ましてや、甥っ子が負った火傷をいいことにしてだれからかカネをせしめようとしている人間なんかではない。実際、僕は、初めは、いったい何が原因でルーベンがあんなにひどい火傷を負ったのかが知りたかっただけだったんだ。甥っ子が〔倉庫〕の中で火傷をしたのなら、事故の再発を防ぐために、その原因となったものを取り除いてくれ、と頼みたいだけだったんだ。〔倉庫〕の連中がパニックに陥って僕との面会を拒むなんて、僕は考えてもいなかったよ。…カスティーヨから話を聞いたあとのいま、僕は思うんだけど、ヒロシ、あの連中は、僕らとは違う人間なんだね。僕らとは違う世界に住む人間なんだね。だから、あんな恐ろしいことが平気で言えるし、僕を襲わせることもできたんだね〉

  「僕は、トゥリーナ、アルの言う〔僕ら〕には僕も入っているのだろうかと考えていたよ。ひどく居心地の悪い思いでね。だって、僕はほんの少し前まで〔あの連中〕の世界に住んでいた、いや、まだ住んでいるのかもしれない、そういう人間だったからね」

          ※

  わたしはあのとき、ただちに、〈あなたが住んでいるは、高野さん、もちろん、〔あの連中の世界〕ではありません〉と応じておくべきだったかもしない。そう応じて、もう一度だけ、高野さんがまだ感じているはずの自責の念をうすめる努力を何かしておくべきだったかもしれない。

  でも、わたしは何も言わなかった。…言えなかった。唐突に浮かんできた疑問に、頭がすっかり捉えられていたからだった。〈アルベルトがこの人に告げた話をすべて真実として受け取っていいのだろうか〉

          ※

  いや、エヴェリンが間違いなく彼女の貝殻購入システムを築き上げていたらしいように、どうやら、アルベルトも、高野さんと合意した初めの計画どおりに買収を実行して、必要な、あるいは、それ以上の情報を入手していたようだった。エヴェリンに小林という人物を騙す意図がなかったらしいように、アルベルトにも、高野さんからお金を騙し取ろうというような、よこしまな考えはなかったようだった。わたしが抱いていた危惧は現実になってはいなかったようだった。

  高野さんがアルベルトに渡したお金が原因となって、あの人の心が粉々に砕かれてしまうようなことが起こっていなかったことに、わたしは安堵していた。

  けれども…。

  わたしは新たな不安に捉えられていた。

  アルベルトの―アルベルトがカスティーヨから聞いたという―話には、まるで映画のストーリーか何かででもあるかのように、あまりにも都合よく、三つのタイプのビジネスマンたちが登場していた。…悪人、善人、半悪人。

  〔悪人〕は、アルベルトの執拗な動きを〔力ずく〕でとめようという方向へ事の流れをもっていった[東海]の副社長と[明和]マカティ・オフィスの児玉という人物。〔善人〕は、自分の意思と良心に反して仕方なく[ナヴァロ・メタル]の命令に従っていたカスティーヨ。〔半悪人〕は、[東海]の倫理を欠いたビジネスの進め方に、それを嫌いながらも、強いて歩調を合わせたミスター・ナヴァロとその追従者マルティネス。

  対照は明らかだった。…そして、そんな構図を高野さんに伝えたのは〔正義の人〕アルベルトだった。

          ※

  わたしはこう考えていた。

  仮に、カスティーヨがどこかで事実を曲げて話をしていたとすれば、その意図は、アルベルトの怒りの向きを、フィリピン企業である[ナヴァロ・メタル]と[ナヴァロ貿易]から、日本企業である[東海メタル・リサイクリング]と[明和商事]に移させるところにあった、と説明できそうだった。…その意図どおりに事が進めば、[ナヴァロ]の立場を理解したアルベルトは〔フィリピン企業〕が受ける不利益を考慮して、ルーベンが遭遇した事故のこと―〔倉庫〕内での不法操業のこと―を当局に訴え出るようなことはしないかもしれなかった。そうはせずに、その目的が何であれ、二つの〔日本企業〕と直接話そうとするかもしれなかった。そうなれば、[ナヴァロ]に降りかかってくる火の粉を巧みに避けたカスティーヨは、アルベルトが受けた印象―〔サポーテの小さな金物店の経営者〕―からはほど遠く、買収のお金を受け取りながら、同時に自分の会社に忠実でありつづけることもできる、経験を積んだ老獪な〔マカティのビジネスマン〕ということになるのだった。

  一方、歪曲していたのがアルベルトだったとすれば、この話は、〔日本企業〕を悪く描き出すことで、買収用資金の提供という形ですで明白にこの件に関わっていた―良心的な日本人―高野さんをさらに密接にアルベルトの側につける効果があるに違いなかった。日本人である高野さんがアルベルトの側に深くつけばつくほど、〔日本企業〕に対するアルベルトの抗議と賠償要求交渉はやりやすくなるはずだった。…賠償金を出させるとなると、〔フィリピン企業〕よりも資金力があるに違いない〔日本企業〕を相手にする方が得だ、という考えは、たぶん、アルベルトだけではなく、だれにもでも容易に思いつけることだった。

          ※

  わたしはアルベルトという人物がまた分からなくなりかかっていた。

  高野さんはアルベルトから聞いた話をまったく疑っていなかった。…思えば、小林という日本人とエヴェリン・ノラスコによる貝殻用ボタン事業のことで、ガブリエル・グスマンとローランド・ノラスコという二人のフィリピン人から聞いた話をすべて信じていたのとおなじように。

  いや、わたしは、エヴェリンの貝殻買いつけシステムは、やはり、小林という人物からお金をだまし取るための〔わな〕だったのではないか、と疑っているわけではなかった。高野さんをじょうずに利用するためにアルベルトは自分に都合よく話を創造したのだ、と決めつけてもいなかった。

  けれども、わたしの頭の中にはいくつかの疑問が浮かびつづけていた。〈話に出てきた日本人、小林、[東海]の副社長、[明和]の児玉という人たちは、本当にそこまで〔悪人〕だったのだろうか〉〈ガブリエルやローランドが抱いていた自信はともかく、エヴェリンが整えたという貝殻買いつけシステムは、本当に、ボタン用貝殻の事業に詳しいだれの目にも、十分整ったもの―追加投資に値するもの―だったのだろうか〉〈賠償金ほしさのあまり、酸で汚染されたため池に自分の子供を投げ込む者が出かねない、と言ったのは本当に児玉という人物だったのだろうか。…ナヴァロ社長自らではなく〉〈アルベルトは本当に買収金を全部カスティーヨに渡したのだろうか〉  答えは見つからなかった。見つけようがなかった。

  わたしに分かっていたのは、高野さんはそんな疑問を抱いたことは一度もなかったろうし、これから抱くこともないだろう、ということだった。

          ※

  高野さんは言った。「トゥリーナ、アルの話はほとんど終わりかかっていた。僕は彼に、これからどうするつもりかをたずねた。彼はこんなふうに答えたよ。〈何よりも先に連中には、僕の甥っ子に心底から謝ってもらわなければね。…何としても。連中の途方もないビジネス上の野心や欲の犠牲に、ルーベンは黙ってなっているべきではないはずだよ。それに僕自身も、〔ゆすり屋〕と呼ばれているのだから、それを正さなければ気がすまない。そんな根も葉もない誹謗と恥辱におとなしく耐えているなんて、僕にはできないよ。本当の人間の尊厳とはどんなものかを、ルーベンと二人で連中に教えてやるつもりだよ。…何らかの形で〉

  「アルの胸の中では、トゥリーナ、事態は、児玉さんの信条とは逆に、カネでも〔力ずく〕解決できないところに来ているようだった。争点は、ルーベンとアルの〔尊厳〕をどう回復するか、アルが感じている〔恥辱〕を彼らにどうぬぐわせるか、などという問題に変わっていたんだ。〔名誉心〕の問題に昇華していたんだ」

          ※

  〈そのアルベルトという人の話、カスティーヨという〔倉庫〕のアシスタント・マネジャーがアルベルトにしたという話は、本当にすべて信用できるものなのですか〉とは、結局、わたしは高野さんにたずねなかった。…ましてや〈アルベルトが求めているものは―お金ではなく―〔名誉心〕の回復だと本当に言いきれるのですか〉とは。

  高野さんには、そんな質問に答える心の準備などできていないはずだった。そんな質問はあの人の頭を混乱させ、あの人がいまを生きるための心の拠りどころにしている何かを微塵に砕いてしまうに違いなかった。

  わたしにそんなことができるはずはなかった。

          ※

  あの人がこれから何をしようとしていようと、わたしにはもう、それとめることなどできはしないのだ、と分かっていたのに、わたしはあえてあの人にたずねた。「高野さん、あなた自身はこれからどうされるんですか」

  「現実には、トゥリーナ」。あの人は答えた。「必要な情報をアルが手にしたあとのいまでは、僕にできることはもう、あまりないんじゃないかな。でも、もし彼が直接[明和]か[東海]と接触したくなったときには、僕もまだいくらかの助けになるかもしれない。アルが彼らに謝罪させるのを助けることができるかもしれない。

  「実を言うと、トゥリーナ、これはあとで聞いた話なんだけど」。あの人の顔にかすかな笑みが浮かんだ。「アルは、僕を訪ねてきた朝、僕のホテルに来る前に、[明和]のマカティ・オフィスが入居しているビルに立ち入ろうとして失敗していたんだって。…僕と話す前に、そのオフィスがどんな構えのものなのかを見ておくのも悪くない、と思って、フェリックスを連れて、まずはマカティに行ったんだそうだ。ところが、そのビルの前まで行ったら、アル自身が言うには〔すっかり足がすくんでしまって〕一歩も前に進めなくなってしまったらしい。彼はこうこぼしたよ。〈だって、ヒロシ、連中の世界ときたら、着ている服、その着こなし、話し方、いや、何から何まで、とにかく、サポーテのコーン畑とは大違いだったからね〉。アルは冗談めかせてこうつけ足した。〈ビルの玄関のガードマンたちも含めて、辺りの人間たちがみな僕のことを、田舎の水田からそのまま現代的な大都会の街路に迷い出てきたカラバウ(水牛)ででもあるかのように、変な目つきで見るんだよ〉

  「僕は彼にこう言ったよ。〈都会の街路であれどこであれ、打撲傷で腫れあがった、半分がガーゼでおおわれた顔の男に周囲の人間が変な視線を送るのは当然だ、とはそのとき思わなかったのですか〉。アルは〈それもそうだな〉と言うと、どっと笑い出してしまった。

  「だから、トゥリーナ、アルにはまだ僕の助けが要るかもしれない」。高野さんはまた、周囲のビル群の上に広がる青空を見上げた。「アルの目に一度は〔[東海]の役員の一人かもしれない〕と見えた僕の助けがね」

  あの人の胸は定まっていた。あの人は、アルベルトが望むなら、どこまでも彼と行動を共にするつもりだった。そうすることで、ルーベンと彼に償いをしていくつもりだった。…〔あの連中〕に代わって。

          ※

  わたしの頭になぜか、数週間前の、マラーテの教会前の広場での高野さんとメルバ、その二人を見ているわたし自身の姿が浮かんでいた。…黒い雲が切れ目なく内陸に向かって流れつづけていた。風がわたしの髪をなびかせていた。

  わたしは改めて思った。…高野さんも、やはり、あの人自身のシカタガナイ人生を生きているのだ。メルバがそうだったように。わたしがそうであるように。メルバがあの子の人生を精一杯、懸命に生きたあとある日、わたしの前から姿を消してしまったように、高野さんもあの人の人生を自分に忠実に生きてきたあと、もうすぐどこかに行ってしまおうとしているのだ。たぶん、それがわたしたちの、わたしたちが受け入れなければならないシカタガナイ出会いだったのだ。

          ※

  「ねえ、高野さん」。できるだけ陽気な声をつくって、わたしは言った。「ちょっと歩きましょう」

  「それはいい考えだ、トゥリーナ」。あの人の顔に大きな笑みが浮いていた。「何しろ、僕は喉がからからだからね」

  「そうでしょうね。ずいぶん長い話でしたから」

  「それに、タバコをたくさん吸ってしまったし…」

  高野さんの足もとには十数本の吸い殻があった。あの人は身をかがめ、その吸い殻を一本ずつ拾い上げると、それを、ベンチの上にたたんで置いてあった新聞紙の上に集め始めた。「カリフォルニアでは、タバコはやめていたんだけど、離婚してからまた…」

  集めた吸い殻を近くの屑箱に捨てて戻ってくる高野さんに、わたしは大仰に言った。「なんて〔いい子〕なんでしょう、高野さん、あなたは!」

  あの人は軽く肩をすくめた。…痛々しいほど無垢にはにかみながら。

  わたしは言った。「でも、吸い殻なんて、ここに」。わたしはそれがあった地面を指差しながらつづけた。「この国の、この地面に、あのまま放っておいてもよかったんですよ。この国の人間ならだれもがそうしているように」

  「この国の人間なら…」。あの人はつぶやいた。…ほとんど自分自身に向かって。

  「ええ」。わたしは言った。「でも、ティヤック ナ (もちろん)、そこが、高野さん、あなたの良いところ!」

  「そうかな」。あの人は首を傾げた。

  「そうですよ」。わたしの顔には、たぶん、偽りのない、大きな笑みが浮かんでいたはずだ。

  「さあ、歩きましょう」

  わたしはさっと高野さんの腕を取り、その腕を自分の腕でしっかりと抱いた。

  あの人は驚かなかった。

  わたしたちは歩き始めた。マカティ・アヴェニューに出ると、通りすがりの何人かが―わたしたち二人がどんな関係にあるのかを想像しながらだったのだろう―好奇心にあふれた目つきでわたしたちを見やった。

  わたしは気にしなかった。

  高野さんとそうして腕を組んで歩くのはそれが最初で最後だということがわたしには分かっていた。…あの人もおなじように感じているはずだった。

  わたしは言った。「そうですね、高野さん。話し疲れたあなたに、わたし、マンゴジュースを一杯おごってあげます」

  「え、ほんと?それはありがたいな」。あの人の声にはもうどんな曇りもなかった。

  「でも、それは、わたしたちのきょうのデイトの始まり。[さくら]の開店まで、まだ何時間かはいっしょに過ごせるでしょう?ですから、そうですね…。ディナーは、高野さん、あなたのおごり。いいでしょう?」

  あの人は大きくうなずいた。

  「きょうは、わたし、チャイニーズ・フードが食べたいな。コマーシャル・センターの中の[ジェイド・ガーデン]はどうかしら」

  「いいよ。君が好きなレストランならどこだって…」

  「知っています、高野さん?」。わたしの声は、自分がそうであるようにと思っていた以上に明るかった。「あそこはマカティで、ということは、たぶんフィリピンで、一番値段の高いチャイニーズ・レストランだって言われているんですよ」

  「いま言っただろう、トゥリーナ?」。あの人は笑った。「君が好きなレストランならどこだってって?どんな覚悟もできているよ」

  「それで安心。じゃあ、何はともあれ、マンゴジュースから始めましょう」

  わたしはますます強くあの人の腕を抱えた。

          ※

  人生二度目の、心晴れる日が少ないはずの仕事にもうすぐ就こうと決心した夜にメルバがドクター奥野のグループを相手に大はしゃぎしたわけが、あのときのわたしには、以前のどんなときにもましてはっきりと理解できていた。

  

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