第61話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈六一〉



  「カスティーヨはアルにこう言ったそうだよ」。高野さんの話はつづいた。「アルがだれかに襲われてけがをした、というニュースを近所の人から聞いたとき、彼はひどくショックを受けた。自分が働いている会社が本当にそんな野蛮な行動に出ることはないのではないか、と胸のどこかで思っていたからだった。出ないように、と願っていたからだった。だから、ニュースを聞いた翌朝、〔倉庫〕でマルティネスと顔を合わせたときも、前夜の襲撃のことは自分の方からは話題にしなかった。

  「カスティーヨの方から話題にする必要はなかった。カスティーヨの姿を見つけるとマルティネスはすぐに、アルの動きをそれまで以上に注意深く監視するよう命じてきたんだ。問題の襲撃のことはまだ知らないふりをして、カスティーヨはアルを監視しなければならない理由をたずねた。マルティネスは良心の呵責などかけらも見せずに、計画どおりにアルを襲わせたのだ、と答え、だからアルがこちらのメッセージをちゃんと受け取ったかどうかを見たいのだ、とつけ加えた」

          ※

  「カスティーヨの話によると、トゥリーナ、[ナヴァロ・メタル]がアルを襲わせることにした経緯は、少し長い話になるけれども、こういうものだったそうだ。…〔倉庫〕の従業員をアルが買収しようとしている、という報告をカスティーヨから受けたあと、しばらく対策を考えていたマルティネスは、ほぼ一時間後には、状況は自分が抑制できる範囲を超えて悪化している、自分の裁量で何か次の手を打つ前に[ナヴァロ・メタル]の社長でもあるミスター・ナヴァロの指示を仰ぐのが利口だ、という結論に到達していた。…もちろん、そんな事故を起こさせてしまった、酸の不法使用のことを隠しつづけにくくしてしまったマルティネスにナヴァロ社長は激怒するに違いなかった。けれども、酸のことが外部に洩れていたことを社長が知るのは、たとえば、アルが社長に直接面会を求めて初めて、というよりは、マルティネスの口から直接、というのがましなはずだった。その方がいくらかでもマルティネスを良く見せそうだった。

  「マルティネスは、アシスタントのカスティーヨを連れてマカティの[ナヴァロ・メタル]に出向き、社長にそれまでに起こったことを報告した。マルティネスが覚悟していたように、社長は初め激怒した。〔空き地〕の管理を怠ったばかりか、事故が起こったことを知ってから何日間も報告してこなかったのは、ともに重大な義務違反だ、いや、そんなことよりも、問題の不法操業が当局に知れ、その結果、[東海]がこのヴェンチャーから撤退するようなことになれば、どうする、そうなれば、[貿易]が受けた損害をマルティネスに―一生かけても―弁償させる、などと語気鋭くどなった。

  「マルティネスは怯えきっていた。けれども、彼にとって幸いなことに、ナヴァロ社長の怒りはそれほど長くはつづかなかった。社長は突然、まるで独り言のように、こうつぶやいたんだ。〈待てよ〉

  「マルティネスは固唾を飲んで、社長の次の言葉を待っていた。社長は言った。〈この件は使えるかもしれないぞ〉。マルティネスは怪訝そうな表情で社長を見ていた。カスティーヨも同様だった。社長はつづけた。〈操業を始めてからもう一年が過ぎている。だろう?〉。マルティネスが応えた。〈そのとおりです〉。社長は言った。〈いくら[東海]でも、もう、前に言っていたほど簡単には撤退できないだろう?〉。マルティネスはうなずいた。社長はつづけた。〈[東海]は契約ずみの、つまりは、いずれ代金を払わなければならないスクラップメタルをロサンジェルスに大量に抱えているし、思えば、彼らの資本投資は[貿易]が行なったものの比ではない。彼らもいまさらあとには退けないんだ。この件を利用して、[東海]に酸の中和処理設備を、一年後などではなく、いますぐにも、つくらせることができるかもしれないな〉。マルティネスの顔に初めて笑みが浮かんだ」

          ※

  「ナヴァロ社長は自ら[東海]に国際電話をかけた。通訳を通してナヴァロ社長と話したのは、トゥリーナ、三年前と同一人物なのかどうかは僕には知りようがなかったけれども、副社長だったそうだ」。高野さんはそこで少し頬をゆがめて笑った。「彼らも、いまでは、トゥリーナ、どうやら、実用的な英語が話せる社員を抱えているようだね」

  わたしはうなずいた。

  高野さんは話をつづけた。「ルーベンの火傷と、それにつづくアルの執拗な調査のことを知った副社長は初め、ナヴァロ社長が予期していたとおりに、ちょっとしたパニック状態になった。…たしかに、この件はナヴァロ社長にとって、次に控えている交渉のいい道具になりそうだった。当初はそう見えていた。

  「ナヴァロ社長は、副社長に[東海]が取りたい対応策をたずねた。…半ば、酸の中和処理設備の設置を早めようという回答があるのを期待しながら。でも、副社長の答えは違った。彼の答えは、[東海]はこれまでフィリピンで法律上の問題に対処したことがないし、こういう性格の事件はフィリピンの会社が扱う方がいいだろう、というものだった。

  「ナヴァロ社長にはこの回答がおもしろくなかった。責任を押しつけられていると感じた。そこで、彼はあえて、初めに処理設備をつくっておけばこんな面倒なことにはなっていなかったのに、と言ってみた。けれども、[東海]の副社長は動じなかった。[東海]と[ナヴァロ貿易]が一年前に結んだ〔二年後に設置する〕という約束は守る、という以上のことは何も口にしなかった。

  「ナヴァロ社長は話を戻して、ちょっと皮肉な口調で、〔フィリピンの会社が扱う方が〕と言われても、自分はこれまで実業家としてどんな法律も犯したことがないので、このような件にはどう対応したらいいかが分からない、と応じた。

  「副社長はすぐには反応しなかった。ラインの向こうで、だれかと何かを話し合っているようだった。通訳を通して副社長がナヴァロ社長にこう指示してきたのは数分後だった。…[明和商事]のマカティ・オフィスに相談してみてくれ。この貿易会社なら、フィリピン国内で発生する、ビジネス上のどんな種類の問題も扱い慣れているはずだから、自分たちの役に立つアイディアを出してくれるかもしれない。

  「副社長はナヴァロ社長に、マカティ・オフィスで会うべき人物の名前を告げた。そして、たぶん、君がいま想像しているように、トゥリーナ、ナヴァロ社長がもらったのは、非鉄金属課長、吉田の名前だった」

          ※

  「ナヴァロ社長はまだ、酸の中和処理施設をくり上げて設置させるという目的は果たしてはいなかったけれども、〔倉庫〕での不法操業の隠蔽工作で[東海]に主導権を取らせたことには、差し当たり満足していた。…万が一にも事がうまく展開しなかった場合には、[東海]に押しつけておく責任が大きければ大きいほど、あとで[ナヴァロ貿易]の発言力が増す、と考えたからだった。

  「ナヴァロ社長はマルティネスに、電話をかけ吉田とのアポイントメントを取るように命じた。…言うまでもなく、トゥリーナ、吉田はもうそこにはいなかったんだけどね。

  「ナヴァロ社長は、[東海]の副社長が吉田の転勤を知らなかったことには驚かなかった。何しろ、トゥリーナ、僕らも知っているように、[東海]は吉田とは、つまりは、[明和]のマカティ・オフィスとは、すっかり関係を断っていたからね。…三年前にちょっと利用したあとは。

  「ナヴァロ社長とマルティネス、それに、サポーテでの事態の展開の詳細を一番知っているという理由で同行させられたカスティーヨの三人が翌日マカティ・オフィスで会ったのは、吉田の後任者、児玉さんだった。

  「ナヴァロ社長は、児玉さんにまず、三年前の[ナヴァロ・メタル]の創設の経緯を説明した。それから、[メタル]がいまでも[明和]のロサンジェルス・オフィスを通してスクラップメタルを輸入しているのだという事実を、熱を入れて告げた。…そういうことを知れば知るほど、喜んで〔役に立つアイディア〕を出してくれるだろうと思ったからだった。

  「児玉さんの反応は、ナヴァロ社長が予期していたものとは違った。児玉さんは、驚きも感心もせずに、こんなふうに言ったそうだ。〈いや、実は最近、ロサンジェルス・オフィスの同僚と電話で話す機会がありましてね。その際にたまたま、おたくとうちのあいだにそんな関係があることを知ったもので、近々こちらからおたくに電話をかけようと考えていたところでした。スクラップメタルのアメリカからフィリピンへの輸入とフィリピンから日本への輸出の代行業務はいま[ナヴァロ貿易]がすべてやっていらっしゃるわけですが、その一部をうちに譲っていただけないものかと思いましてね。いま説明していただいた[ナヴァロ・メタル]の創設経緯を考えますと、[明和]のマカティ・オフィスが外されているというのは、どうも〉」

          ※

  「ナヴァロ社長があとでカスティーヨたちに話したところでは…。ナヴァロ社長は児玉さんにそんな要求を突きつけられるとは予想していなかった。ナヴァロ社長はたちまち、[東海]と[明和]―二つの日本企業―のあいだで、窮地にあるフィリピン企業をうまく利用するための汚い話し合いがあったのではないか、と疑った。

  「ナヴァロ社長はこんなふうに考えたそうだ。…[東海]の副社長はナヴァロ社長に吉田と相談するよう告げたあと、自分も[明和]のマカティ・オフィスに電話をかけた。電話をかけて、初めて吉田の転勤を知った。代わりに応対に出た、吉田の後任者である児玉さんに副社長は、ナヴァロ社長が面会を求めてくる事情を―三年前にあったことを含めて―説明した。説明したあと、副社長は児玉さんに、ナヴァロ社長が困った事件を抱えているから、その対応策を一つ、二つ考え出してくれ、と頼んだ。児玉さんは、たぶん、そういう案を考えることについては了承したけれども、マカティ・オフィスがこの国際三角事業から外されていたことにはひどく不満だった。そんな不満が出ることは副社長には予測がついていた。副社長は、輸出入手数料について[ナヴァロ貿易]に譲歩させてはどうかと児玉さんに示唆した。…[ナヴァロ貿易]がその事業の一部を[明和]に譲っても[東海]の腹は少しも痛まなかったわけだから」

          ※

  「だけど、トゥリーナ、ナヴァロ社長の疑いは的が外れていたと思うよ。だって、児玉さんが突然、リヤドゥの吉田に電話をかけて[ナヴァロ・メタル]のことをたずねたのは、僕がサポーテに出かける前、ましてや、アルが買収を試み始める何日も前のことだっただろう?だから、アルの動きにどう対応するかを話すためにナヴァロ社長が[東海]に電話をかけた日の何日も前に、児玉さんはすでに確かに、[明和]と[ナヴァロ貿易]の関係や[ナヴァロ・メタル]のことは知っていたんだ。児玉さんはそのことを[東海]から聞いたわけではないんだ。児玉さんは現実に[ナヴァロ貿易]に電話をかけようとしていたのだと僕は思うよ。[東海]から何かを示唆されなくても、児玉さんには、[貿易]に譲歩を迫る理由があったからね。吉田に僕がいたように、児玉さんが[明和]のロサンジェルス・オフィスに友人を持っていたとしても、まったく不自然ではないし、ロサンジェルスからフィリピンに輸出されているスクラップメタルのこと、フィリピンでの輸出入代行業者が[明和]のマカティ・オフィスではないことを、その友人が知っていて、児玉さんに話したとしてもおかしいところはないだろう?

  「もしかしたら、トゥリーナ、児玉さんは、ナヴァロ社長が唐突にアポイントメントを求めてきたとき、リヤドゥの吉田が社長を説得して改めてあいさつに来させているのだ、スクラップメタルの輸出入の取り扱いを―少なくとも一部は―マカティ・オフィスに譲ると言いに来させているのだ、と思ったかもしれないよ。[ナヴァロ・メタル]のことでわざわざ吉田に電話をかけたかいがあったと…」

          ※

  「ナヴァロ社長は、自分の疑いがどんなものだったにしろ、冷静さを失うわけにはいかなかった。彼は児玉さんに、その国際スクラップメタル事業については、代行手数料のことがどうのこうのと言う前にすぐにも解決しなければならない大きな問題があるのだ、と告げ、児玉さんが口を挟む前に、その問題がどういうものであるかの説明を始めた。…酸の不法使用が引き起こした事件のことはすでに[東海]から聞いているはずだと信じていたけれども。

  「ところで、トゥリーナ、同行させられていたカスティーヨの目には、児玉さんはちょっと変わった人物に見えたそうだ。ナヴァロ社長の説明を聞き終えると児玉さんは、何より先に、すごく満足そうな表情を浮かべたからね。まるで、そんな微妙な問題について地元の企業が切実に自分のアイディアが求めているという事実が誇らしい、とでもいうかのように。

  「児玉さんはあまり長くは考えなかった。彼はまず、重々しい口調でこんなふうに言った。〈これまでの経験から、わたしはこう信じていますね。〔カネで解決できない問題はこの地球上にはない〕。手遅れになる前に、その男にいくらかカネを握らせたらどうですか〉

   「児玉さんのこの案にひどく失望したけれども、ナヴァロ社長は黙って耳を傾けていた。児玉さんはつづけた。〈一度事がおおやけになってしまったら、役人たちを相手にしなければならくなります。いや、役人たちに目をつぶっていてもらおうと彼らにカネを注ぎ込むのは避けた方がいいですからね。結局はそれが一番高くつきますから。特に、この国のような貧しい、というか、開発途上の国では、役人たちが欲深くて〉

  「ナヴァロ社長はとうとう口を開いた。〈ですから、わたしたちも、事がおおやけになる前に解決したいと考えているわけですが、さきほど話しましたように、問題のその男には、うちの従業員を買収しようというだけのカネがあるわけでして、こちらのカネをおとなしく受け取るかどうか…〉

  「児玉さんは少しもたじろがなかった。彼は―カスティーヨが言うには―恥ずかしげもなく簡単に意見を変えて、こんなふうに言った。〈いや、そんな手の込んだことをする高等な〔ゆすり屋〕が絡んでいるときは、話は別ですよ。そんな男にやすやすとカネを渡すのは、実のところ、愚の骨頂です。問題が悪化するだけです。しかも、この国のようなところでは、その男がカネをやすやすと手にしたということが世間に知れれば、その男の〔成功〕をまねて、自分も賠償金か何かをせしめようというので、どこかの裏庭のため池に自分の子供を故意に投げ込む者が出てくる惧れも否定できませんからね〉」

          ※

  高野さんの顔には、たぶん、その児玉という人物への嫌悪感が浮かんでいた。でも、あの人の声は冷静だった。「カスティーヨがアルに話したところでは、〔自分の子供をため池に投げ込もうという者は出ないにしても、ほかの、何らかの形で[ナヴァロ]からカネをせしめようという模倣者は出るかもしれない〕という惧れは、ナヴァロ社長自身もいくらかは抱いていたことだった。けれども、そういうことを外国人である児玉さんに侮蔑的に指摘されるのはおもしろいことではなかった。ナヴァロ社長は辛抱強くこうたずねた。〈それで?〉

  「児玉さんは社長が何をどう感じているかなどということに関心はなかった。彼は言った。〈そうですね、ある種の問題、特にこんな〔ゆすり屋〕が絡んでいるような問題は、カネでというより、〔力ずく〕でいく方が解決しやすいことがある、ということを、わたしの会社の、長いあいだ開発途上国で働いたことのある先輩に、かつて聞いたことがあるのですけどね〉。そのときの児玉さんの顔には、トゥリーナ、含み笑いが浮かんでいたそうだよ」

          ※

  「ナヴァロ社長は[明和]からすでに〔役に立つアイディア〕を聞き出していた。[ナヴァロ貿易]に戻ると、社長は二回目の電話を[東海]にかけ、児玉さんに何を仄めかされたかを告げた。副社長の反応は、通訳にかかる時間を除いて考えれば、まるでそういう〔仄めかし〕を予期していたかのように、すばやかった。〈いい考えかもしれませんね。…〔つて〕はありますか〉

  「ナヴァロ社長があとでカスティーヨたちに語ったところでは、社長はもう、自分が児玉さんを訪ねる前に[東海]と[明和]のあいだにどんな話し合いがあったとしても、そんなことはどうでもよかった。フィリピン企業なら当然そんな〔つて〕を持っているだろう、と言わんばかりの副社長の言い方にも立腹はしなかった。…アルの動きをとめ、口を封じるための〔力ずく〕対応策を主導して選択したのは、事実上、[東海]だった。ナヴァロ社長はあくまでも[東海]が示唆したとおりに動くだけだった。

  「将来[ナヴァロ貿易]が不利な条件を飲ませられることになるような口実を[東海]に与えなかったこと、事の責任を押しつけらる立場に自分が陥らなかったことに満足していたナヴァロ社長は、静かに答えた。〈あなたもご承知のように、うちは合法的に堅実に営業している会社ですから、当然そんな〔つて〕はありませんが、それが〔いい考え〕ということなら、当たってみますよ〉

  「ナヴァロ社長は、[東海]の副社長が次に口を開く前に電話を切ると、マルティネスとカスティーヨの顔を交互にしばらく見つめていた。社長と[東海]との会話がどういうふうに終わったのかは、二人にも分かっていた。…社長はもうためらうことなく、マニラのスラムのギャングか何かを探し出して彼らにアルを襲わせるよう、マルティネスに命じた」

  

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