行けたら行く殺人事件

口一 二三四

行けたら行く殺人事件

 目覚めはいつもと変わらなかった。

 昨夜寝るまでのことを振り返りながら半身を起こし、伸びの一つでもして頭を覚醒させる。

 別に行きたくもない会社の飲み会を終わらせた後のことはよく覚えている。

 飲み屋から帰るまでに寄ったコンビニでゴミ袋とマスク。それから朝に食べようと思ってサラダを買った。

 記憶が確かなら今ごろ冷蔵庫の中で冷えている。

 朝食はそれと、食パンがあったからオーブンで焼いて済ますとしよう。

 家に到着して社会に擬態した服を脱ぎ捨てまずシャワーを浴びた。

 洗濯カゴに入れるのも億劫で、その痕跡が丁度視線の先にある廊下に散らかっている。

 シャツや下着は洗濯機に入れるとして、消臭剤とか使い自分でやりくりしてきたスーツはいい加減クリーニングに出さなくてはならない。

 飲み屋で付いたシミも蓄積された汗の臭いも落としてもらわないと。

 行くとしたら今日? いや、今日はそんな他に気を割く心境じゃない。

 週休二日で明日も休みだし、スーツの替えも確か二着クローゼットに眠っている。そんな急いで行くほどでもないだろう。

 なら今日は何も起こらなければ日中フリー。

 夜に控える用事まではあんまり乗り気にならないけど。気晴らしと身辺整理の意味も込めて家のあれこれを片付けてしまおう。

 方針が決まったところで布団から足を出し床に下ろす。

 机の上に置いていたスマホに手を伸ばし、画面に映ったメッセージアプリの未読報告をタッチする。

 暗証番号を打ち込み出てきたのは、最近知り合った女性とのやり取り。


『今日ですね』


 たったそれだけ。

 それで何のことか察した。


『そうですね』


 同じくらい短い言葉で返す。

 相手の一行に含まれた意味に対して、随分と簡素で場違いだなと思いながら。

 仕方ないとスマホを閉じる。

 それが、同じスマホカバーを使っていた彼女の姿と重なった。



【三十路手前。ジムインストラクター。生真面目】


 連絡をしてきた相手は確かそんなプロフィールを持っていた。

 職種に恥じないプロポーションとストイックな生活。

 キリっとした目元は男性よりも女性が好みそうで、実際彼女目当てに来ている女性客もいるのだと、少し仲良くなってから本人が話してくれた。

 この凛とした佇まいのせいで今まで男性に見向きもされてなかった、とも。

 働いている場所は駅前のフィットネスジム。

 人通りと通いやすさからそこそこ繁盛しているように見えた。

 あまり笑う方ではないけれど時折見せる笑顔が可愛らしく、こんな人を放っておくなんて周りの男共本当に見る目ないな、と。

 思うのは女性目線だからであって、男性目線だと。

 この誰に対しても真摯であろうとする姿勢は親しみやすい反面、少しばかり窮屈に感じるのかなと考えてしまった。


 だから、近づいてきたのだろう。

 異性慣れしてない挙動を感じ取って、どうしようもない男が。

 言葉巧みにガードを外し、押しに弱い女であると認識され、散々遊ばれた挙句に。

 浮気という形で捨てられた。

 本当は憤っているだろうに、それを表には出さず最後まで自分の落ち度を語る生真面目さは。謙虚や美徳を通り越して痛々しく映った。



 スマホを机に置き直して立ち上がり、パジャマのままで洗面台へと向かう。

 途中廊下に散らかった衣類を拾い、洗濯機の横に置いているカゴへ投げ込む。

 寝惚け気味だった視界はすっかり開けて、顔を洗ってから歯ブラシを手に取る。

 化粧っ気の無い顔は随分昔から見慣れた自分で、けれど平日の自分と比べるとどこか他人じみていた。

 それが、初対面の際自分の不幸を語る彼女の姿と重なった。



【二十代後半。実家暮らし。家事手伝い】


 親のスネを齧り生活していると苦笑していた彼女のキッカケは婚活アプリ。

 大学を卒業し就職したものの、仕事が合わず辞めた彼女にとってそれは一つの希望だった。

 安定した収入の誰かと結婚して家庭を持つ。実家を出て主婦に徹する未来。

 社会の辛さに触れ、二度とあそこに戻りたくないと話していた彼女の心情に、考えに。そこで未だ足掻いている社会人としてどうかと思ったけど、嗚咽噛み殺して生きている人間なら誰もが共感を覚える甘さでもあった。

 実家にいれば嫌でも過ぎる日々。家の中で完結する生活と年老いていく自分、両親。

 共にキャンパスライフを謳歌した友人達がSNSに流す華々しい日々。

 抜け出したかった。そんな下降気味の状況から。

 当の本人じゃないから完全に理解できたわけじゃないけど、就活中に嫌というほど味わった疎外感を死ぬまで引きずるようなものかなと想像して補った。


 だから、近づいてきたのだろう。

 切羽詰まった余裕の無さを感じ取って、下らない男が。

 電子上で行われるやり取りで安心させ、実際にデートして安堵させ、結婚という言葉で依存させてから。

 音信不通という形で捨てられた。

 私達を集めた女に促され、傾けられたジョウロみたいに恨み辛みを吐露し続けるヒステリックさは。ちょっと悲劇のヒロインに浸ってるように映った。



 顔も口の中もサッパリして、鏡を見ながら申し訳程度に髪型を整えた。

 予め洗濯機の上に置いていた部屋着に着替えて居間へと戻ろうとする。

 1Kの間取りは窮屈さはあれ一人暮らしをするには丁度よかった。

 脱いだパジャマを廊下に出る前にカゴに入れる。

 昨日着ていた洋服の上に被さる猫柄がなんとも正反対でミスマッチさを覚えた。

 それが、待ち合わせ場所で見た彼女の姿と重なった。



【三十代前半。眼鏡。弁護士】


 第一印象は服に着られてる人。化粧で仮面を施してる人。

 なんというか、お金がかかった身なりをしていた。

 ブランド物の服。新作の服。大人びて見えると話題の髪型に新機種のスマートフォン。

 どこをどう見ても流行の最先端を取り入れたお洒落は、だからこそ本人の地味さを浮き彫りにしていた。

 職業を聞く限り常に見栄を張らないと舐められるのかなと思ったけど。

 それを踏まえた上でもちぐはぐだった。

 きっと元は自信の無い人なんだろう。

 どこで出しても胸を張れる職種。どこから攻めても隙のない知識。

 それらは全て自分を武装して自身を守るために必要だったと話していた。

 衣服類もその一部であると。


 だから、近づいてきたのだろう。

 飾られた虚勢の輝きに釣られ、狡賢い男が。

 自信の無さに付け入り、コンプレックスを刺激し、自分にはこの人が必要なんだと思わせた上で。

 地味さを理由に捨てられた。

 自分の尊厳を踏みにじられたまま今まで過ごし、ボソボソと意気消沈気味に語る見た目と中身のギャップは。心身共に相当傷ついているように映った。



 スイッチを入れた洗濯機がガコンガコンと回る。

 食卓兼用の机にはトーストと冷えたサラダ。カバーで閉じたままのスマホ。

 新着メッセージは無い。

 代わりに光るのはケトルの点滅。赤いライトが消えて水がお湯になったことを知らせる。

 スープ皿にはコーンポタージュ。マグカップにはカフェオレ。

 それぞれに適量のお湯を流し込み粉末を溶かす。

 混ぜる用のスプーンは一本だけ。

 人に出すモノならいざ知らず。

 自分が味わうモノにこのくらいのズボラ、いつものことだった。



 壁掛け時計が正午を過ぎる。

 少しだけ開けたカーテンの隙間。

 アパート二階の高さから覗く空の色合い。

 表の通りよりは近いけど、それでもこの手は空に届かない。

 そこに微かな斑がかかる。白に灰が被さったような浮遊物。

 雨雲だろうか。そういえば夕方から雨が降ると。


『――現在は晴れていますが、ここから天気は下り坂になって』


 今テレビでも言っている。

 カーテンに透かされた洗濯物が踊る。晴れてる内にと外の風に晒してるけど、早めに取り込んだ方がいいだろう。

 テレビ前の机から立ち上がり窓辺に近付く。チラッと覗いて雲行きを確認。

 まだ大丈夫だろうと座椅子に戻る。

 スマホが揺れた。

 バイブレーションが天板を叩き室内に響く。画面には誰かの名前。

 通話ボタンをタッチしようとして、フッと途絶え音沙汰が無くなる。

 不在着信に連なるのはよく知ってる名前。

 それが、私を見て驚いていた彼女の姿と重なった。



【二十五歳。大手企業。大学の同級生】


 予期せぬ場所で顔を合わせた友人に彼女は若干驚いたものの、次の瞬間には「……そっか」と大学当時から変わらぬ笑みを覗かせてくれた。

 そこに彼女生粋の優しさと、自分がキッカケと作ったという後悔と、あんな男だから仕方ないかという諦めが混じったモノを感じたのは、恐らく。

 他の五人よりも長い年月を彼女と過ごしてきたからだろう。

 知ってはいたけど、流石にこれには。罪悪感を覚えた。

 就活で悪戦苦闘していた周りを他所に大手企業に就職が決まった彼女はまさに順風満帆だった。

 控え目な性格ではあるけど物事をキッチリとこなす彼女は同級生の中で一番輝いてて、私みたいなクズ女と友達でいてくれてる寛容さと慈悲深さを持ち合わせていた。


 だから、近づいてきたのだろう。

 慈愛ある良心に集ろうと、ハエみたいな男が。

 優しさをいいように扱い、慈悲深さにとことん甘え、放っておけないような関係性を築き。

 穏やかさを理由に捨てられた。

 大学当時から知ってる身として、個人に対して愚痴や悪態を口にする彼女の憤慨は。見慣れてなくて新鮮に映った。



 雲行きが怪しくなる。

 外から入る日光がぼやけ始め、空を揺蕩う雲がカーテンに翳りを落とす。

 さっきまで踊っていた洗濯物の影がそれと一体化し見えなくなる。

 時計を見れば午後三時を回ったところ。

 天気予報の通りなら天気はこれから下り坂。

 ところにより大雨が降るらしく、私の住んでる場所はそのところによりに含まれている。

 座椅子から立ち上がる。長時間座ってたためか、もつれて前によろめく。

 おっとっと。その場に倒れる前に、突き出していた腕が窓辺を捉えた。

 カーテン越しに伝わるガラスの冷たさ。

 それが、冷ややかな印象を持つ彼女の姿と重なった。



【三十路。堅物。警察関係】


 何度か会ったけど、職について詳しいことは何も話してくれなかった。

 ただ纏っている雰囲気というか、こっちを品定めするような視線が。他の人達とは違う印象を受けた。

 服装も着飾ったようなものではなく、いつもシンプルなレディーススーツ。

 それしかないのかと聞いてみたらこれしかないと返ってきたのが、彼女とまともに交わした会話だったと記憶している。

 一見すれば油断も隙も無いような自立した女性。

 そんな偶像を抱いていたからこそ、彼女が私達と同じ境遇であることが意外だったし。

 街で偶然見かけた際、警察官の服を着ていたことにも驚かされた。


 だから、近づいてきたのだろう。

 もしも何かあった時使えると踏んだ、性悪な男が。

 硬い硬いガードを崩し、堅物さを包み込む軽さで、どこか憎めないような雰囲気を徹底して。

 頑固さを理由に捨てられた。

 根気強くアプローチしてきた相手の浅ましさと、それを健気と許した己の浅はかさを蔑む言葉は。男よりも自分を責めているように映った。



 強い雨が窓を打ちつける。

 昼間まで晴れていた空は、それを幻にするかのように暗く、重く。分厚い雨雲で覆い隠す。

 夕方か。既に夜か。

 閉め切ったカーテンの向こうは伺えないが、点けっぱなしにしていたテレビから聞こえるニュースが今は十八時過ぎだと教えてくれた。

 女性アナウンサーの声が右から入って左に抜ける。

 ベッドに仰向けで見上げた天井は染み一つなく綺麗で。

 だからこそ目線は定まることがなかった。

 頭に内容が入ってこない。別のことでそれどころじゃない。

 いよいよか。いよいよだよね。

 机に置いたスマホに着信が入る。すぐに切れる音と振動。

 電話じゃない。メッセージだ。夕方過ぎからずっと鳴っている。

 確認する気にはなれない。しないといけないのはわかってるけど。

 また着信が入る。今度は長い。きっと電話だ。

 居留守を使おうとして諦める。複雑な感情が胸に渦巻く。

 手を伸ばしてスマホを取り、体勢を変えず通話ボタンを押。

 ……す前に切れた。

 すぐにメッセージアプリの通知が浮かぶ。


『今日行けるの?』


 簡素に一言。

 朝にも見たような文面。けれど今回は発信者も個人宛でもない。

 グループ宛てに送られたそれに、まるで示し合わせたみたいに発信者以外全員分の既読がつく。

 中には律儀に返事を返す人もちらほら。

 それをぼんやり眺めながら、みんな気になってるんだなと変な仲間意識が芽生える。

 ポンポンと追加される返事に自分も続こうと指を添えて、すぐに離した。

 浮かんだ言葉が他の人達と同じなら、別に改めて送らなくていいだろう。

 そういう連帯感は、正直、苦手だ。


『クズ男被害者の会』


 七人のグループからなるそれは参加者が全てが女性。

 全員が同じ時期に同じ男と付き合い酷い振られ方をされたことで共通している。

 今の通知は発起人の女性から。

 誰よりも早くクズ男と付き合い、誰よりも長く騙され続けた人。

 それが、世間一般の面倒な女の姿と重なった。



【自称三十代後半。医療事務勤務。仕切り屋】


 女から連絡があったのは丁度一年前。

 冬というには温かく、春と呼ぶにはまだ肌寒い季節。

 スマホにかかってきた見知らぬ電話番号に始めはイタズラかと思った。

 けど実際出てみて通話口から聞こえてきたのは、よく知る男への憎悪とお仲間探しの案内。

 耳を傾けた話には信憑性と断れそうにない威圧と、その男と付き合った女性しか知らない心当たりがあった。

 待ち合わせとして指定された場所に行けば、私を含み同じように呼ばれた女性達が六人。

 その場をセッティングした張本人を入れれば七人の騙された鴨が揃っていた。

 よくもこれだけ調べて人数集めたものだと、それぞれの顔を見て思った。

 それは多分、他の人達も同じだっただろう。

 似たり寄ったりの表情を浮かべながら社交辞令的会釈を繰り返していたのが印象深い。

 みんながみんな一人の男に騙されていたわけだけど、共通点なんてそれと性別くらい。

 連帯感も、共感も、仲良しこよしもする気も無くて。

 願わくば一生出会わず過ごしていたかっただろうに。

 一人の女の呼び出しで、同じ境遇である私達は集められた。

 どうしてこんなことに、と。

 話してる私達の様子を見て、女は開口一番とんでもないことを提案した。


 ――みんなであの男を殺しませんか?


 冗談かと苦笑い合う面々を沈黙の笑顔で引き攣らせるさまは、今思い出しても悪寒が走る。

 漂わせる本気具合。聞いたからには抜け出せない雰囲気。

 強制的に共犯者へ引き込むようなやり方は、正直。

 虫唾が走って気に食わなかった。

 けどまぁ、その後話し始めた彼との出会いから如何にフラれ如何に憎んだかの過程は聞いてて酷いなと思ったし、何人かは共感して自らの体験と憎しみを暴露していた。

 元々の性格か、経験から培ったモノか。

 どちらにせよ人の感情を引き出し引き込む術に長けた女だった。

 ヘイトスピーチが上手いとも言える。

 自分の目的なら手段として人を使う。

 親切丁寧感情的に自分の気持ちを前面に出せば同情同調を誘い味方にできる。


 だから、近づいてきたのだろう。

 程度の差はあれ人を物として見る人種だと、同じような男が。

 単純な出会いを経て、燃えるような日々を過ごし、そのまま降下していく熱に火を入れないまま。

 飽きたを理由に捨てられた。

 周りを煽りながら、人の話を聞きながら、けれど絶対に自分の話から逸らさせない口ぶりが。男よりも酷く醜く映った。



 返信をどうするか迷ってる内にスマホの画面が暗くなる。

 側面のボタンを押して再度メッセージアプリを開くと、先程の確認は既に流れてこれからの段取りと事後の手筈の話になっていた。

 順序立てて長々と表示されてるメッセージ。

 ざっくり言えば『集合』『拉致』『殺害』『証拠抹消』『解散』。

 ここに至るまで何度も何度も打ち合わせして嫌という程頭に入れたのに、まだ更に入れろというのかとため息がもれる。

 まぁ、自分でリーダー名乗ってるんだからこれくらいはするか。

 発案者は彼女で巻き込まれはしたが、計画自体はみんなで立てた物だ。

 やる気があるない関わらず。全員が殺したい程度の恨みが大なり小なりあったし、感情的な衝動のわりに隠し通せる段取りが案外まともだったこともあって決行に至った。


 ――今日私達は一人の男を殺す。


 標的は私達を騙して搾取してた元カレ。

 手順は今でも交流のある一人が男を呼び出しそのまま拉致。

 連れて行った先で始末した後、人里離れた山に埋めに行く。

 幸か不幸か。

 犯行を成功させるための素材はそれぞれが持ち合わせていて、それが事を起こす起爆剤になっていた。

 彼への連絡はグループの中でまだ繋がりのある私。

 拉致する用の車はレンタルを模索する前に一人ワゴン車を持ってるジムインストラクターの女性がいた。

 犯行現場予定と埋める予定の人里離れた場所は実家暮らしの女性が知っていた。

 他にも弁護士や警察官と、隠蔽に強そうな職種が二人。

 そこに私と彼が出会うキッカケを作った、周りに同情して引くに引けなくなった女友達。

 男を眠らせる睡眠剤を用意してきた発起人の女。

 随分長い間連絡を取り合い、実際の対面も繰り返して、ようやくここまで漕ぎつけた。

 今さら後には引けない。

 仕切り屋の女は貯金の八割を男に貢いだ。

 ジムトレーナーの女性は男にいいように使われ純情を弄ばれた。

 実家暮らしの女性はずっと結婚すると騙されていた。

 警察官の女性はスピード違反を見逃しバレればタダじゃすまない。

 弁護士の女性は酔った勢いで個人情報を漏らし悪用された。

 女友達はお金をつぎ込み過ぎて夜の仕事を始めた。

 自業自得と言えばそれまでだけど、みんなあの男に出会わなければそんな目に合うことは無かった。

 凶行に走りたくなるほどのクズ男への怒りと憎しみは渦巻いて、もう誰も。

 立ち止まることなんてできなかった。


 時刻を告げるアラームが鳴る。

 気だるい体を起こして支度をする。

 迷いはある。正直昨日の飲み会より行きたくない。

 けど、行こう。

 デートで着飾る姿じゃなく。汚れてもいい恰好で。

 外は大雨。汚れも、音も。洗い流してくれる。

 頭にあるのは周りに同調する狡猾さと、私個人の問題に対してどう始末をつけるか。

 それから……あの仕切り屋女への警戒。

 ただそれだけしかなかった。





 廊下に脱ぎ捨てた服を見ないフリして、床にカバン。

 机へ鍵とスマホを置いてリモコンを弄る。


『――次のニュースです。今日午前7時頃、○○県○○市の山中で身元不明の男女の遺体が発見されました。発見したのは近隣に住む男性で、調べによると遺体は死後数週間は経過しており、男性の方は全身に無数の刺し傷があったことから怨恨による犯行と考えられ』


 仕事が終わり、部屋に帰って点けたテレビ。

 いの一番に流れてきたニュースの声と映像を確認して、あぁ。

 思ってた以上に見つかるの早かったなと声がもれる。



【二十五歳。社畜。犯人】


 優しさと厳しさ。いつもの不甲斐なさとたまにな甲斐性で飼い慣らされ、自分一人では良いか悪いかの判断が出来ないところまで沈められて、奴隷みたいに、ペットみたいに。扱われたまま、捨てられ。

 終わったことだと無理矢理割り切って、閉じていた蓋を同じ境遇の女に開けられた女性達。

 それぞれにそれぞれしか持ち合わせない、共感はできても共有できない憎悪があって、みんながみんな、彼を恨んでいた。


 ――私だけを除いては。


『クズ男被害者の会』の中で唯一、私は全てを知っていた。

 他の人には「繋がりはある」としか言ってないだけで、彼が死体になるまでそういう関係は続いていた。

 彼が複数の人と付き合ってることも、私含む全員に対して本気じゃないことも。

 全部、全部。私は彼から聞いていた。

 そもそもの出会いが友達からの彼氏自慢で、その後すぐに告白された時点でお察しだ。

 付き合ってると私が知っているにも関わらず彼は私に告白してきた。

 内緒にするから。絶対バレないから。なんて、ありきたりなセリフを並べて。

 多分、同じ臭いでも嗅ぎ取ったのだろう。

 返事はちょっと迷った末のイエスを口にした。今にして思えば、そんな彼だからこそオッケーしたところがある。


 ――昔からそうだった。


 家族にしても友達にしても恋人にしても。

 私はどうも、私自身に対して向けられる一途な愛というモノが苦手だった。

 全くダメというわけではない。

 感覚的な話になるけど、片手間というか、表面上というか、上澄みというか、なんというか。

 とりあえずで与えられる少しの愛情が丁度良くて、一人が一人だけに注ぐような愛憎が重く苦しく感じてしまうのだ。

 良く言えば自分には勿体ない。悪く言えば息が出来ない。

 コーヒーに入れる砂糖のようなモノ。

 微糖好きなお口に、それ以上は甘すぎる。

 過剰な糖度は吐き気を催す。

 ハッキリした原因はわからない。

 ただ物心ついた頃、自分の上に姉がいるはずだったと知ったこと。

 長女ではなく次女として育てられるはずだったことを知って以来、そう思うようになったんだと勝手に納得している。

 私が生涯に受ける愛は誰かが受け取るべきだった愛で、その対象がもうこの世にいないから私が受け取っているだけ。

 姉妹がいたはずの一人っ子としてチヤホヤされて、存在を認められ。

 文字通り溺愛に溺れるのを、どうしても受け入れることができなかった。

 そんな面倒臭い女だから彼の存在が丁度良かった。

 サバサバした性格。いい具合に七等分された愛情。いや、私や他が知らないだけでもっとたくさん分けられていたのかも知れない。

 ともかくそんな軽さが、自分には恋愛を楽しめる程よい甘さだった。

 他の人達には申し訳ないけど、『自分しか見てない彼氏』より『自分以外に目移りする彼氏』だからこそ付き合った自分にとって。

 クズではあったけど酷くはなかった。


 ……何より。

 真意はどうあれ私という人間の恋愛観を真摯に聞いて。受け入れてくれたことが、ちょっとだけ。嬉しくて。

 自分の思っていることはみんなが感じてると誤認してるような仕切り屋女より、素直で綺麗に見えていた。

 今まで人に話しても理解されず話せなくなっていたことを口にできたのは、気持ち的にも楽になれた。

 だから、今さらだけど。寸前まで迷った。


 彼がどれだけの人間を不幸にしたか知っている。

 彼が他の女性をどういう風に扱っていたのか知っている。

 彼が自分自身の楽しみのために周りをどう思っていたか知っている。


 同じくらい。


 私がどれだけの不幸を見て見ぬフリしたか知っている。

 私が他の女性の話をどういう風に聞いていたか知っている。

 私が自分自身の気軽さのために周りをどう利用していたか知っている。


 それ以上に。


 隠すことも取り繕うこともやめて。

 綺麗な部分も汚い部分も曝け出して共有した彼との時間を知っている。

 クズ男に負けず劣らず。

 自分がクズ女であることを知っている。


 そんな自分が彼を殺すことに加担?

 笑い話もいいところだ。断ればいいだけの話。

 でもそれは出来なかった。

 私はもう計画を知ってしまっていたし、彼女達にはそれをする権利があると感じてしまったから。

 何度も言う。彼はクソ男だ。

 クソで、クズで、最低で、酷くて、生きる価値の無い。

 私好みの微糖をくれる、心地よい愛を与えてくれる男。

 居なくなって欲しいとは思わない。居なくなって惜しいとも思わない。

 相手の愛が七分の一なら、それ以上なら。

 こっちの愛も所詮その程度だ。

 名残すら微少。細やかな、道端のタンポポが次の日枯れてるような。

 寂しさがあるくらい。


 ――それに、だ。


 他のみんなが憎悪だけで殺す中、私だけが。

 愛情を以て殺したならば。

 それはそれで、死ぬ間際に巡る走馬灯にでもなるだろう。

 メルヘンには程遠い。美談にしては血生臭い。

 愛の歌として納めるには、不純極まる。

 私だけの恋物語。



 ――だから密かに警戒していた。


 私達を呼び付けた女のことを。

 そもそも初めましてから違和感があった。行動自体に不信感があった。

 殺人計画を考えるほど感情的になれる女が、それほど憎悪に囚われた人間が。

『自分からすれば浮気相手』である私達にそんな容易く協力を頼むのかと。

 連絡があるまで直接の関わりが無かったのに、なぜ。

『元カレと繋がりのある女性の連絡先を知れた』のだろうと。

 嫌な予感は当たるもので、その真実は決行当日に解った。


 ――あの女は『私達を含めて』彼に憎悪していた。


 自分以外を見ている彼を。自分以外で彼を見る私達を。

 どうしてもどうしても許せなかったのだろう。


『愛は一人につき一人にだけ注いで欲しい』


 何度目かの集まりの時そう口走ったのを覚えている。

 私とは真逆の人種だ。

 そんな女だからこそ、突き止めたのだろう。

 彼のスマホを見たかなんかして、私達の連絡先を。

 同時期に頻繁にやり取りを行い、最も彼と親密であった女性達の正体を。

 彼を拉致して犯行現場に向かう際。

 休憩しててと運転席に座ったあの女は、これから気絶させ後部に乗せた彼に行うことを想像するみんなを和ませるように。家で淹れてきたと水筒に入ったカモミールティーを振舞った。

 緊張していたのと、ここに至るまでにあの女へ少しばかり気を許していたのもあってみんな紙コップに入れて口にした。

 恐らくそれに、睡眠薬でも入れていたのだろう。

 車に揺られ一人、一人寝入る中。

 飲まずこっそり足下に捨てて寝たフリをしてた私は確かに見た。

 寝ているのをバックミラーで確認してほくそ笑む女の顔を。

 今でも関係が続いていることを知っているであろう口振りで「アンタだけは……アンタだけは……」と呟く唇を。


 結局、犯行現場に着いても起きていたのは私だけ。

 他の五人は寝息を立てたまま起きることはなかった。

 寝静まる中。車の後部から彼を下ろし、雨の中壊れたオモチャみたいに人を滅多刺しにしてる姿はなんとも狂気的で、隙だらけで。


 ――あの日雨が降っててよかった。


 降ってなければ、足下の水溜まりでカモミールティーを飲んでいないことを勘付かれていただろう。

 降っていなければ、死体を更に殺そうとしている背中へ近づく足音を消せなかっただろう。

 降っていなければ、死体を埋めるため持ってきていたスコップで殴ろうとしたのがバレていただろう。


 ゴッ、っと。

 鈍い音は確かな手応えと共に豪雨に流され、濡れた地面には死体が二つ転がっていた。

 街灯も無い、雨雲に遮られた真っ暗な夜だったからわからなかったけど。

 多分辺りは血の赤で染まっていただろう。

 レインコートについた返り血は瞬く間に、雨に洗われ地に落ちていただろう。

 その後は事前に決めた手順通り。

 復讐と自衛が終わってから起きてきた五人にあの女にハメられ殺されるところだったと話した。

 私がみんなの命を救ったんだと主張し、死体一つ分入る穴を協力して二倍掘り、埋めた。

 雨で消えるだろう無数の足跡も、念には念をで出来る限り隠蔽に努めた。

 故人二人を含む関わった人間全てのスマホのデータを消し、生き残った私達は帰路へとついた。


 ……それが顛末。

 重苦しいワゴン車の中。

 「このことはみんなの秘密」と口にした時の静かな頷きを私は忘れない。

 そこにあった、人を殺さずに済んだ安堵感。

 誘拐と死体遺棄に加担した罪悪感。

 殺されていたかも知れない恐怖。

 人に話せばどうなるか解らない怯えを、私は忘れない。

 自分は関係ない。その場にいたけど巻き込まれただけ。自分も被害者。

 そんな気持ちがひしひしと伝わってくる様子は、真っ当で歪に見えた。

 同時に、そういう『私は悪くない』って気持ちがある限り大丈夫だろうと思った。



 服をパジャマに着替えて座椅子に座る。

 脱ぎ散らかした衣類はカゴに入れて、明日の朝洗濯機を回すと決める。

 テレビでは引き続き自分が犯人の事件が流れている。


 レポーターは言う。


『相当憎んでいたんでしょうね』


 コメンテーターは言う。


『酷いことする人もいたもんだ』


 専門家は言う。


『恐らくこんな人が犯人だろう』


 それに答えるように。


「……全部ハズレ」


 テレビに話しかけるおば様に倣って一人呟く。

 憎んでいたのはあの女で私じゃない。

 酷いのはクズ男で私じゃない。

 見立てる犯人像は私じゃない。

 事情も理由も知らない奴らが、勝手気ままに話してる。

 見当違いをひけらかす。

 それでいい。それで。

 真実なんて当人達にしか解らないモノ。

 第三者が加害者と言っても、少なくとも。

 共犯者である五人はクズ男の被害者であり。

 あの女によって死体になっていたかも知れない生還者。

 悪いのは私。全部私。豪雨の夜の殺人鬼。

 知ってて付き合って、知ってて黙って、知ってて殺した、クズ女である私。

 解ってる。そんなこと。いずれ天罰が下るだろう。


『――この事件に関して現在警察は情報を集めており』


 けどそれは、今のところ……。



 ――もし、あの場にいた誰かが。


 分散された罪悪感の居心地に。

 決して軽くない重さに気付き。


 良心の呵責に耐え切れなくなって。

 自分一人では抱え切れなくなって。

 自らが罪を被るのも厭わぬ勇気を。

 あの場の全員道連れにする覚悟を。

 振り絞ることが、できたのならば。


 自首しに行くだろう。

 行けたら行くだろう。


 行けたらの、話だけど。



『――それでは次のニュースです』

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