第35話 償い

 2年前、障害者だけで結成されたバンドのコンテスト『ゴールドミュージックEXPO』が開催された。主催はNPO法人『ハッピーアップル』で、これが記念すべき第1回大会。都内にあるキャパ300のコンサートホールで開かれた大会の審査委員長を務めたのが作曲家・柳生隆星やぎゅうりゅうせいだった。


 開演の40分前に会場入りした柳生は、開演時間が近づき、呼びに来たスタッフについて控え室を後にした。スカイブルーのジャケットに白のパンツ、胸にはリボンの胸章を付けていた。審査委員長等の役職を任されることの多い柳生は、タキシードを着ることもあるが、この日はアットホームな大会とのことで、カジュアルな服装を選んだ。顔や頭髪は年を隠せないが、体形は若い頃とさほど変わらずスリムだった。


 開館5年のホールのまだ壁の白色が新しい通路を歩くと、そこかしこから出番に向けた音合わせが聴こえた。開演間近で控えめなボリュームでも出場者たちの熱意が伝わる心地いい雑音。

 自販機の前を通りすぎ、角を曲がろうとしたところで、柳生の足が止まった。通路の先にいた少女に視線が吸い込まれたからだ。鼓膜も振動を止めたように、楽器の音も聴こえなくなった。柳生に気づき、少女も身体を硬直させたのがわかった。


 こちらにお願いします。先導のスタッフの声で我に返って足を進め、少女の姿は見えなくなった。ホール内に入り、指定された審査委員長の席に着く。手渡された出場者の一覧に形ばかりの視線を落とした。


 さっきの少女。林檎のイラストが入った揃いのTシャツを着ていたから主催団体のスタッフかアルバイトか。出場者の世話係か誘導係だろうが、どこかで会った気がする。どこだったろう。遠い土地の気もするし、自宅の一室にも思える。ずっと昔のようで、ほんの数日前かもしれない。言葉を交わしたか、偶々居合わせただけか。


 懐かしい匂いを嗅いだ時のような、手を伸ばしても計れない郷愁。美月と同い年ぐらいだから、まだ高校生・・・。


 柳生ははっとして立ち上がった。腕時計を見る。開演まで3分、とっさに控え室までの経路を引き返す。メトロノームのような足音が耳に届いた。


 さっきの場所に少女は佇んでいた。柳生に気づくとまた身体を硬直させた。強張らせた顔の、その大きな目に面影がある。手を伸ばせば頬に触れる距離まで歩み寄って名前を尋ねると、少女は一度噛んでから唇を開いた。


「宮田朱里です」 


 初めて会う自分の娘だった。


 クラブで知り合ったホステスとの間に出来た子で、妻との間の美月と同い年。生まれたことは聞いた、名前も聞いたが、会うことは妻への裏切りを重ねるようで、思い止まった。実子と同い年の隠し子。マスコミに嗅ぎ付けられれば、スキャンダラスに報じられ騒ぎになる。ひた隠しにしたまま永い時間が過ぎてしまった。


 その娘が目の前にいた。目に焼き付けようとしたものの、すぐにぼやけて見えなくなった。理不尽な生理反応を指先で拭って、また一つ自分の過ちに気づいた。いままでの不義理を詫びるのが先だ。それが父親として最初に果たすべき責務に違いなかった。


 口を開きかけたところで、開演を告げるベルが鳴った。慌てて連れ戻しに来たスタッフに見付かって、柳生は手を引かれた。ホール内へと進めた足を止めて最後に振り返ると、初めて見る笑顔がそこにあった。



 動揺で揺らいでしまうほど、柳生の耳はやわではなく、審査委員長の役目を整然とこなした。ジョークを交えての寸評は、かつて出演していた人気オーディション番組で繰り広げられた光景で、出場者たちもその気になって楽しげに耳を傾けた。優勝したバンドのメンバー一人一人にメダルをかけ、記念写真に収まって大会は幕を閉じた。


 柳生はスケジュールの都合で、終演後すぐに会場を後にしなければならなかったが、もう一度、一目でいいから会いたくて、次の現場へ向かうまでの僅かな時間で探してみたものの、ステージ裏は出演者の退館作業に音響機材の撤収作業も重なってごった返し、宮田朱里を見付けることはできなかった。


 出発時刻になり、やむなく会場を後にした柳生は移動の車中で、後部座席にもたれながられながら想いを巡らせていた。

 初めて会った実の娘・朱里は、紛うことなく成長していた。しかしそれを喜ぶ資格が自分にあるだろうか。

 美月にはいい暮らしをさせてきた。経済面に限らず、恵まれた環境だっただろう。柳生隆星の娘で嫌な思いもしただろうが、恩恵も大いに受けたはずだ。愛情も惜しみなく注いできたし、美月もそれに応えてくれた。

 しかし朱里には、何もしていない。養育費は十分に送っていたから貧しい思いはしていないはずだが、それで役目を果たした気になっていた自分が卑しく思えた。父親面する資格などあるはずがなかった。


 ふと横を見ると、車窓に自分の顔が反射していた。女の子は父親に似るといわれる通り、美月は自分に似ていると幼い頃からよく言われた。嬉しいものだったが、朱里の目元には母親の面影が色濃く表れていた。


 宮田朱里の母・順子は福岡から上京し、銀座でクラブホステスをしていた。歌手を目指していた。それで店の常連だった柳生隆星に近づいてきた。すでに結婚していたが、柳生もまだ若く、レッスンをつけてやると誘って深い仲になった。宮田順子は高級店にあっても評判の美貌だったし、歌唱力も備わっていた。いいきっかけがあれば歌手デビューの見込みもあったかもしれない。


 しかしある時、妊娠が分かった。堕ろすものと思ったが、順子は産むと言い張った。柳生隆星の子供を産むと。妻が妊娠していることを知った上での当てつけだったのかもしれない。中絶するよう懇願したが、拒絶された。それで二人は別れた。以降一度も会っていない。宮田順子は歌手の夢を捨て、一人で出産した。


 宮田と逢瀬を重ねたのは仕事部屋として借りていたマンションの一室だった。都心に建つマンションの最上階で、窓外に広がる夜景をバックに柳生がピアノを弾き、隣で宮田が歌った。赤いガウンをまとった宮田のハスキーな歌声が、映画の回想シーンのように瞼に浮かんだ。


 朱里はどんな歌声をしているのだろう。目元は似ているものの順子の妖艶さとはちがう幼さを残した顔立ち。朱里に相応しいのは、明るいポップな曲。ドレスではなく、かわいらしい衣装を着て・・・。


 宮田朱里が歌う姿を想像した柳生の頭にメロディーが降りてきた。メロディーだけではなく、衣装も振り付けも。まるで目の前で、宮田朱里が歌っているようだった。瞬く間に曲が出来上がった。涸れかけていた作曲家の血が沸き立つのを感じた。

 父としてだけでなく、柳生隆星としてしてやれることがある。それは償いなのか。自分にも分らなかった。

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