第33話 熱帯夜

 とっくに日は落ちているのに屋上は蒸し暑かった。松澤はつっ立ったまま、摘まんだ胸元をあおって風を送っていた。ダンスレッスン後の身体は熱を帯びたままで、汗ばんだTシャツが肌にベタついた。


 夜に塗られた顔は何も語らなかった。言いたいことは積もっているのに、何から切り出していいのか分からず、誰かが話し始めるのを待っていた。壁に止まったセミの鳴き声ばかりが耳についた。


「CDデビュー、するんだよね?」

 沈黙に耐えかねたように津久田が切り出した。地べたに座った津久田は、誰を見上げるでもなく、顔は正面を向いたままだった。


「らしいね」

 松澤の他人事のような台詞は、闇に吸い込まれた。


「全然うれしくないなぁ。何でやろ」

 体育座りをして曲げた膝に顎をのせた角川。セミの鳴き声は不思議と会話を邪魔しなかった。


「結成してからずっと目標にしてきたのにね」

 小田は高い身長を伸ばして、遠くを見つめていた。高層ビルのような夜景はそこにはなく、ただ暗がりが広がっているだけだった。

 黙って俯いている中村の白いTシャツが闇の中にぼんやり浮かんでいた。


「このままCDデビューしてなんになんの?っていうか、うちら本当にホシトソラなの?」

 松澤の問い掛けには誰も答えない。


 鳴き声が止み、セミは羽音を残してどこかへ飛んでいった。生温い風が、心にさざ波を立てて通りすぎる。


「6人でスタートして」と話し始めた松澤を遮るように「黙ってたんだけど」と小田が切り出した。「わたし見たんだよね」


「何を?」

 話しを遮られた松澤が眉をひそめて小田に質す。


「あの子と社長が二人でいるの」

 あの子とは、この場にいない宮田朱里に他ならない。小田に向けられた視線が険しくなった。


「どういうこと?」


「この前、日曜日なのにイベントない日あったでしょ。社長が『たまには日曜日にゆっくりするのもいい』ってレッスンもなくて。せっかくだから大学の友だちと買い物に行ったの、渋谷に。そうしたら駅前で二人でタクシーに乗ってた」


「二人っきりで?」


「二人っきりで」

 小田が頷いた。


「見間違いじゃなくて?」


「最初にあの子がいるのに気づいて。QFRONTの前のところで。そうしたらあとから社長が来て、一緒にタクシーに乗った。待ち合わせてたみたい。間違いなく本人だった。二人とも。それで、すごく親しそうだった」


「それがオーディションなしで入ってきて、センターに選ばれた理由?」


「わかんないけど」


「渋谷で待ち合わせって・・・。何がレコード会社の意向だよ。うちらのこと私物化してるだけかよ。ふざけんなよエロジジイ」

 松澤の過激な言い草も誰も咎めない。


「全然そういう子に見えんけど。わからんもんやね」


「そういうところが気に入ったんじゃないの?」

 津久田の言葉は妙な説得力を帯びていた。 


「これからもずっとこういう感じなんかな」


「あの子がセンターで、うちらはバックダンサーみたいな扱い?」松澤は自嘲して鼻で笑った。


「この1年なんやったんやろ。最初の6人が良かったなぁ」そう言って角川は体育座りした両膝の隙間に顔を埋めた。


「本当毎日楽しかった。あの頃に戻りたい」どんな時もメンバーを励まし続けてきた小田には似つかわしくないつぶやきが、4人の心を揺さぶった。


「自分からオーディション受けといて言うのもなんだけどさ、正直最初はアイドルなんてって馬鹿にしてた。だけど実際やってみると、すごくやりがいあって、辛いこともあったけど、でも本当に楽しくて、毎日が充実してて、オタクも意外と優しい人多くて、CDデビューも一緒に喜んでくれると思って・・・」

 松澤は言葉を詰まらせて後ろを向いた。背中が震えていた。


「わたし、ホシトソラ大好きだった。本当に大好きだった」

 押し黙ったままだった中村が口を開いた。淡々と、それでいて想いが凝縮された告白だった。

 

「わたしだって大好きだった。誰にも負けないぐらい大好きだった」

 津久田は中村を見上げてそう言って、下を向いた。


「『だった』ばっかりだね。でもわたしも大好きだった」小田の言葉は尻つぼみに力を失くしていった。


「もうやめない?なにもかも嫌になった。本当もういい。もう嫌だ。終わりにしよう、もうやめよう」

 津久田は下を向いたまま何度も左右に首を振った。


「全っ然星見えへん」忽然と立ち上がり、角川が天を仰いだ。夏の夜空は濁っていて、星の光を透さなかった。

「6等星どこやろ」角川は夜空を見上げたまま、闇の中を徘徊した。

「どこ?6等星どこ?」失くし物を探すように、一度開けた引き出しを何度も開けるように、狭いビルの屋上を幾度も廻った。


「危ない。落っこっちゃう」

 慌てて駆け寄った小田が角川の腕を引っ張った。夜の屋上は、ビルと外の境目が曖昧で、知らぬ間に足を踏み外してしまいそうだった。

 角川ははっとして、電池が切れたようにさっきの場所にまた座り込んだ。


「危ない。落っこっちゃう」

 小田の言葉を借りて、松澤が独り言のように呟いた。無言の視線が集まる。松澤は緩慢な足取りでにビルと外の境目まで歩み寄り、下を覗いた。底は真っ暗で何も見えなかった。

「危ない。落っこっちゃう」二度目の呟きが夜の帳を揺らめかせ、やがてメンバーたちに浸透していった。

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