第32話 夢の途中
唐突にドアが開き、レッスン場に入室したのはシエルプロ社長の浜岡だった。浜岡は壁際で立ち止まることなく、スリッパで床を擦りながら、そのまま鏡の前まで歩を進めた。メンバーにはデジャブのようだったが、前回この場にいたのは6人。発表されたのは期待に反して宮田朱里の加入だった。
小田がとっさに曲を止めた。レッスン場に流れていたロックチューンはマイナーなアイドルグループの曲だったが、ライブで掛ければ盛り上がり、これまでも何度かカバーしてきた。次のイベントで、宮田の加入後初めて歌唱する。フォーメーションに変更を加えながら振り付けを練習しているところだった。
曲の止まったレッスン場で、息づかいが静寂をほつれさせていた。また何か発表がある、肌に伝わった。今回は、今回こそは。メンバーたちは半信半疑の期待に、鼓動を激しくさせていた。
ホシトソラの7人を前にした浜岡はハンカチを取り出し、額の汗を拭った。それをズボンのポケットに戻すと、ようやく口を開き、まず水分をとるよう促した。夏を迎え、みなTシャツ姿だったが、びっしょり汗をかいている。はやる気持ちをおさえ、隅に置かれたペットボトルを取って口をつけた。津久田は横目で松澤を見た。視線に気づいたが、松澤はちらりと合わせただけで、タオルで顔を拭った。無言のまま水分補給を終え、一列に並び直したメンバーに浜岡の口から告げられた。
―CDデビュー決定―
すべてが報われた瞬間だった。このときばかりは7人で喜びを分かち合い、レッスン場に歓喜の輪が出来た。汗びっしょりなのを忘れて抱き合った。普段は冷静な小田がタオルで目頭を押さえた。角川は言葉にならない声をあげて天を仰いだ。中村恵美も伸ばしたTシャツの襟で涙を拭った。一歩分だけ輪から外れていた宮田に、五十嵐が歩み寄って抱擁した。イベント後の居残り練習も全てここにつながっていた。嫌なこともこれで帳消し。止まったままのブログも、CDデビューが決まったら再開すると決めていた。
CDデビューはそれだけ大きな目標だった。これで本当のスタートラインに立てる。見習いから、本当のアイドルになった気がした。
「ドッキリじゃないよね」
津久田がおどけてレッスン場を見回した。天井の四隅や部屋の隅に置かれた観葉植物をオーバーに凝視する。
「誰もうちらに仕掛けないから」
自虐的な松澤のツッコミも笑い飛ばせた。
夏の終わりのアイドルフェスのステージでサプライズ発表する、みんなも知らなかったていでリアクションするように、と併せて告げられた。やらせの指示も、芸能界の一員になった実感を強くして、いまは心地よくさえ感じられた。
「ちゃんととできるかな。練習しておく?」
そう言うと津久田はカッと目を開き、「え、ウソ?」と口許を手で覆った。きょろきょろ左右を見て「CDデビュー?ほんとに?やったー!」と両手を突き上げた。
「わざとらしいから」
つっこんだ松澤にも抑えきれない笑みが溢れていた。
喜びに浸るメンバーを前に、浜岡は鏡の前に立ち尽くしたままだった。口元に笑みこそ浮かべているものの、表情には迷いのようなものが浮かんでいた。小田は舞い上がるメンバーと浜岡との温度差に気づいていた。ここからがスタート、売り上げも重要だから浮かれてばかりいられない、そういう意味だと解釈した。
しかしそうではなかった。歓喜がひと段落すると、浜岡はもう一度、口を開いた。何か続きがあるようだ。やらせの次はなに?耳を澄ますホシトソラに、覚束ない口ぶりで伝えられた。
―デビュー曲のセンターは宮田朱里―
ドアの外で鳴ったエレベーターの作動音が、レッスン場まで届いた。
「どういうことですか?まだ入って2ヶ月しか経ってないんですよ!」
さっきまでの笑みが消え失せ、松澤は嘆くように浜岡に訴えた。
「ずっと愛がセンターでやってきたのに、なんで?どうして?」
津久田も食って掛かった。
―レコード会社の意向―
デビュー前の、まだ何者でもないアイドルに反論の余地はなかった。
駆け出した五十嵐の背中がドアの外に消えていった。階段を駆け上がる音を、5人が追いかける。まだ星の見えない空の下、迷子のようにうずくまる背中にかける言葉は見当たらなかった。
公式サイトに[ホシトソラを応援してくださる皆様へ]と題された告知が掲載された。
[いつもホシトソラを応援いただきありがとうございます。この場を借りて皆様にご報告させていだきます。本日をもってホシトソラのメンバー、五十嵐愛がグループを卒業することとなりました。急な発表になりますが、御理解いただきますようお願い申し上げます。ホシトソラは6人で活動を続けてまいりますので、今後ともご声援くださいますよう重ねてお願い申し上げます。
五十嵐愛からファンの皆様へ
この度ホシトソラを卒業させていただくこととなりました。学業と芸能活動の両立を目指して頑張ってきたのですが、進学に向け学業に専念する必要に迫られ卒業を決断しました。急な発表になってしまってごめんなさい。今まで応援してくださったファンの皆様には感謝しかありません。これからもホシトソラの応援よろしくお願いします。
五十嵐愛]
実際は五十嵐本人ではなく、事務所が作成したものだった。シエルプロダクションと契約を結んでまもなく1年、契約更新の時期に差し掛かっていたが更新せず、五十嵐愛はファンに直接別れを告げることなくホシトソラを去った。
無名のグループゆえ炎上には至らなかったが、ネット上にはファンの感情が吐き出された。
[ふざけんなよ。ラストイベントぐらいやれよ]
[今まで貢いだ金返せ]
[最初からアイドルになるんじゃねーよ]
[芸能活動も辞めるってこと?]
[そういうことだろうな。続ける気あるならグループ辞めねえだろ]
[マジでなんでやめんの?]
[普通に大学受験でしょ。元々進学希望だったし]
[地下アイドルやってるよりそっちの方がいいわな]
[いやマジで宮田にファンとられたからでしょ]
[それな]
[ゴスカルのこととかもあったしな]
[メンタル弱すぎ。どっちみちアイドルは無理]
[急な発表だから男がらみだろ?]
[そういうことだな]
[男関係でトラブって事務所にバレてクビ。アイドルあるある]
[まさか妊娠とか?]
[あり得る]
[あのプリクラ本人だったんじゃね?]
[もしくは飲酒喫煙とか?]
[その線もある]
[枕強要じゃね?]
[それが正解]
[枕やらされて病んで脱退。アイドルあるある]
[アイドルあるある何個あんだよ]
[枕いうほど仕事してなくね?いまんとこマイナーイベントばっかだし]
[アイドル業界闇深すぎ]
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