8.小間使いは帰る

 既にその道は懐かしく感じられた。

 元々は毎日のように通ってきた道。しかし、この数十日の間は一度も通ることがなかった道。

 少し歩くだけでも思い出すことはたくさんある。両親と手をつないで歩いたこともあるし、友達と喧嘩したこともある。

 喜怒哀楽様々な感情と付随した記憶が迷路のようにせり上がってくるから、随分と長く歩いていたように感じる。

 走馬灯というと行き過ぎかも知れないが、似たようなものだろう。きっとこの道を歩いて、家に帰るというのは最後になるはずだから。

 それでも、足取りは重くなかった。主の言葉が背中を押し、一歩一歩前に進む力となってくれる。まだ人の少ない朝の路地を止まることなく駆ける。


 しばらく進めば、くすんだ緑の屋根が目に入った。特別荒れ果てた様子もないが、自分が知っていたころよりも寂しさが感じられるような家。

 ああ、あれだ。私が十四年間暮らした生家は。

 母が手入れしていた庭は随分と草木が生い茂っていて、父が元気な時でもきっと手入れはしなかっただろうが、もうあの家には父しかいないんだということをはっきり認識させられた。


「私、今どんな顔してる? 笑ってる? それとも怒ってるのかな」


 扉の前に立つ。朝になっているので灯りは消えているが、中から物音はする。どうやら家の中にはいるようだ。

 この扉を開ければきっと後戻りはできない。決別か和解か。きっと後者はあり得ないだろうという実感と同時、今となっては後者があり得なくても仕方がない。そこまで割り切れた。


 深く息を吸って、襟を整える。それだけのことで力を抜いたまま扉をたたくことが出来た。

 音は思っていたよりも響かなかった。乾いた音が三つ鳴って、返ってきたのは静寂だけ。

 完全に中からの音も止んでしまっている。なんとなく、それがどういうことなのかわからないでもない。


「……お父さん。開けてくれないかな。私一人だから。ほかには誰もいないの、覗けばわかるでしょ?」


 果たしてそれをどう受け取ったかはわからないが、中から一度何かが落ちるような音がして、足跡が続いた。


「……ティー。お前、どうして」


「私を買ってくれた主が、優しい人でさ。お父さんと話しておいで、って言ってくれたの」


 半分くらいは嘘。間違ったことは言っていないだろう。

 自分が思ったより言葉は閊えなかった。ただ、昔のように話せているかは別問題。


 私の声色の変化を読み取ったのか、扉はゆっくりと開いた。


 僅かな隙間から顔を覗かせた父は、随分と痩せていた。髭は当分剃っていないらしく、伸ばし放題。髪には白いものが増えていて、深い緑とまばらになってしまっている。


「少しだけお話、させてほしいの。お別れもちゃんとしてなかったでしょ。私たち」


 追撃。一度も合わない目線が至る所を泳いでいる。その仕草からも後ろめたさを感じていないわけではないらしい。私が売られたときと比べれば、幾分か正常になったように見えて、少しだけ安心した。


「……分かった」


 小さな声が聞こえて、扉がゆっくり開いた。

 忙しかった父を迎え入れることはあっても、こうして迎え入れられたことは何度あっただろう。言ってしまえば、最後は父に追い出されたのだ。

 たぶんこれが、この家に入る最後になる。


   ***

「……元気そうだな」


 家の中は既視感のある荒れ方をしていた。あちこちにモノが散らかり、片づけられた様子はない。

 その言葉にどういう意図が含まれているのだろうか。少なくとも、父親らしさは欠片もなかった。


「おかげさまで」


 おかげさまで、というのは少し違うかもしれないけれど、元気そうなのはこの家を出たからだ。

 わざと嫌味のように言ってみると、バツが悪そうに顔を逸らした。


「ねえ、お父さん」


 未だ目の合わない父に向かって問いかける。

 主は私には怒る権利があると言っていた。父もまたそう思っているのかもしれない。何を言われるかわかっているから、目を合わせる必要もないのか。


「……なんで、私を売ったの? 私は……いらない子だった?」


 それでも、私は口に出した。そうしなければ何も始まらない。私はこの家に縛り付けられたままになってしまう。


「私は、お母さんが亡くなって、お父さんのことしっかり支えなきゃって思ったよ。だって、家族だから。大切なお父さんだったから」


 締め上げていた首を緩めれば、言葉はスムーズに出る。自ら手を離した今、私の首を絞めるものは何もない。


「なのに……なんで。なんで、私のこと」


 今まで外へ出ることのなかった言葉を吐き出していく。それと同時、口内へ暖かい何かが入ってきたのを感じた。

 そこで、私ははじめて、父親に売られたときにも出なかった涙を流していることに気が付いた。

 母が死んだときに枯れていたと思っていた涙が止まらない。それでも私はそれをぬぐうこともなく、言葉を吐き出し続ける。


「私は、お父さんのこと、大好きだったのに」


 それが最後。涙と一緒に零れだしたその一言は、凍った心に波紋を作ることが出来たのだろうか。

 今度は私が目を合わせることが出来ない。乾いた部屋に私のすすり泣く音だけが響いていて、心地悪かった。


「ティー……。もう取り返しがつかないことはわかっている。あの時おかしくなっていたのも認める。親として、いや、人としてもやってはいけないことをした。ひどい仕打ちを…した。本当に、すまない」


 私にはもう父の心を測ることが出来ないでいた。それが心の底からの謝罪なのか。それほどまでに、この人との距離は開いてしまった。


「お父さん、私はきっと、お父さんのこと許せないと思う。だからこそ、一つ提案があるの」


 私の言葉は届けた。怒ればいいと主は言ったが、私にはどうやらこれが限界らしい。距離がどれだけ離れても、愚かしい私はこの人のことを許せないまま生きるの嫌だった。


「私は、お父さんに売られてなんかない。勝手に家を出ていくの。私は、私の意志でこの家を出ていく。そして、私を買って、大切にしてくれると言ってくれた人のところで生きる。それを伝えに戻ってきたの」


「それは、しかし、俺のしたことは……」


「消えない。私はお父さんのことを許してはいけないんだと思う。でも、私は許したいの。私の言いたいことは、さっき全部伝えた。お父さんからも、一応だけど謝ってもらえた。だから、このことは終わりにしよう。これが最後の親子喧嘩」


 結局、最後まで父のことを大切に思う気持ちは捨てられなかった。どれだけ過去のことでも、どれだけ距離が開いても、大切にしたかった。

 だから、私は自分の手で決別したことにする。これが、私のわがまま。


「そう、そう……か。いや、俺からは何も言うまい。父親としての資格はとうに失ってしまった。……ありがとう。テティス。強く育っていたんだな」


「父親らしいことはしないんでしょ。だから、ただ見送って。私はもう、帰ってこないんだから」


 例え和解したとしても、めでたしとはいかない関係になってしまった。改心したと言われても、きっと私はそれを信じることが出来ないだろうから。

 その為の決別。私はもうここへは帰ってこない。親子という関係を失くしてしまえばきっと、少しはお互いに背負うものが軽くなる。


 結局手を付けなかったカップを残して、私は席を立った。


「ねえ」


「……何か言い残したことがあったか」


「体にだけ、気を付けて。まっとうに生きてね」


 最後にそれだけ言い残して、私は生まれた家を飛び出した。

 もう帰ってくることはない。振り向くこともない。後ろで父だった人が何かを言っていたが、何と言っていたかはさっぱり聞き取れなかった。

 もっと話していたかった。でも話せば話すほど許せなくて、許したくて、また自分の首を絞めてしまうかもしれない。


 扉を開けば、まだ陽は天頂に達していなかった。迎えに来る人はいない。

 だから私は、自分の足で帰るのだ。主の元に。

 駆けだした私にはほんの少しのしょっぱさと、苦しさがほんの少しだけ後を引いていた。












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