6.小間使いと、闇
地図上において東に位置するイレーナ大陸。その三割を国土として有するのが大国、ガディアだ。
その王都ともなれば、あらゆるものが集まる、大陸一の都市とも言えるだろう。
寒冷期の間はやはり多少の寂しさはあったが、寒さが通り過ぎたこの街は夜でも活気で溢れかえっている。
「お前を買い付けに来た時と比べても賑わっているな」
「何かあるんでしょうか。温暖期になりましたから、催しでもやるのかも……」
まさか戻ってくることになるとは思ってもみなかった街に帰り、ついそわそわと周囲を見てしまう。
少なくとも左腕の焼き印が見えることのないような服にしているものの、やはりそれが一番気になる。視線がそこへ向くことはないだろうが、悪いことをしてしまった後の気分に近い気持ち悪さが這い上がってくる。
「気にすることはない。お前を奴隷のように扱うことはないと言っただろう」
「……カザフスドア様が私を買ったとか、この人混みで言うからです」
「それは失礼した。しかしこの喧騒の中で聞いていたやつはいないだろう。堂々と俺の隣を歩いていれば奴隷などには見えんし、胸を張って歩け、小間使い」
「もう……調子のいいことばかり言って……」
口を尖らせた私の顔はそんなに面白かったのか。ククと笑っている主人に不満げな顔を向けるも軽くいなされてしまう。
しかし、こうして軽口の叩き合いをしている私たちを誰が奴隷とその持ち主だと思うだろうか。やはりそれとない気遣いだったのかもしれない。
それにもやり方というものはあると思うので、気遣いはできるが性格がいいわけではないだろう。そもそも森の中で暮らしていて、人と関わり足りていないだけかもしれないが。
「それで、催しがあるなら行ってみたいのだが、お前はどのような催しか分かるか?」
「流しましたね? この人の流れの先を考えれば貴族街ですが……。庶民が貴族街の方向へ向かう用事があるとすれば、ちょうど境にある劇場でしょうか。そういえば、温暖期には人気の劇団が巡行公演を行っているとか聞いたような……」
この街に用意された最大の劇場が貴族街と庶民街のちょうど境目に建てられているのは、この劇場を建てた劇団たっての要望だったと、当時大問題に発展しかけた工事の警備にあたっていた父から聞いた覚えがある。
確かその劇団は歌と劇の二つを組み合わせて有名な逸話や物語を表現しているんだったか。
一度も行ったことはないが、この街で公演が行われる際にはいつもこの通りが混んでいたはず。
寒冷期明けは催しが多いために確証はないが、席券の取り合いは競争率が高かったはず。これだけの人が押しかけて行ってもおかしくはないだろう。
「なるほど。今はそのようなものもあるのか。いつか暇が出来れば見に行くとしよう」
「席券を取るのはかなり大変らしいですけど、街中で長い時間待ったり出来るんですか?」
「何を言う。席券を取るのはお前だ。俺はお前が確保した席に座る」
「私も見せてもらえるならそれくらいはしますけど……」
こうしてカザフスドア様に買われてから、これまでの生活では体験できなかっただろうことをたくさん経験したり、約束してもらっている。
それは私にとってはうれしいことであり、母が生きていたころよりも余裕のある生活をしていることへの負い目を強く感じる部分であり。
最後に、私を売り捨てた父の顔が浮かんで。
「……! あんた、ティーちゃんじゃないのかい!?」
この街に住んでいた頃呼ばれていた愛称を、久しぶりに聞く。
「えっ。あ……」
振り返った先にいたのは、父がまだまともに働いていた頃行きつけだった食堂の女主人。
母が料理上手だったために私が付いていくことはそれほど多くなかったが、それでも何度かは両親と揃って足を運んだことがある。
奴隷の焼き印が人に見られることは気にしていても、これだけの人混みで知り合いに会うことなど想像もしていなかった。
突然姿を消した私に、父はなんと理由づけたのか、それとも誰も何も知らないのか。もしかすると全て知っているのだろうか。
そんな考えが一気に頭を巡り、周囲の喧騒が遠くなる。視界から色が失せていく。言葉は何一つ出てこなかった。
「……話は聞いてる。あんた、あのクソ男に売られたんだってね……。よく無事で……。奇麗な服着て街中歩けるってことは、酷い目に遭っているわけではないようだけど……」
そういった女主人の視線は、私と連れ添って歩いていた男のほうへ向かう。
「あんたが、この子を買ったのかい」
目線も口調も責め立てるような鋭さをもってカザフスドア様へと突き刺さっていく。
優しい主へ疑いの目線が向かっているというのに、見知った人物が私の顛末を知っている……私が、父に捨てられたことを知っているという事実に直面して何も動くことが出来ない。
そして、その事実を知る人がまた一人。今の私に一番近い人が。
「そうだ。契約書の類も全てあるが……、それを気遣うつもりならこんなところでする話ではないだろう」
いつもと変わらぬ堂々とした口調で言い放った主の声が耳に届いて、はっとした。女主人からすると話を上手く躱したようにしか見えないだろうが、その表情は僅かに歪んでいて、不快さを滲ませている
出来れば、それは見たくなかったもの。
「大丈夫、大丈夫です。あの方は私にとてもよくしてくれていますから」
「……あんたがそういうならいいんだけどね。そいつだってあのクソ男と同じかもしれないんだよ。自分のために捨てちまうような。本当にあんたのことを大切にしてくれるとは……」
「あのッ!!」
これまでで、一番大きな声がふっと口から飛び出した。
何かを拒絶するとき、人は大きな声を出せるのだと身をもって実感する。
どうしても、私はその先を聞きたくなかった。
「だい……大丈夫です。大丈夫ですから。その、父だって考えがあったんだと思います。そう思うことにしていますから」
手が震える。体中から冷たい汗が滲む。あの時の闇を思い出す。
自然と右手が左腕へ向かった。私がモノとして、廃棄された証であるそれを隠すように。
「そこまでにしてもらおう、ご婦人。見ての通りこいつは調子を崩している。話があるならこの場所にいる男へ手紙を渡してくれ。そうすれば俺の住んでいるところへ知らせが来るだろう」
「……。すまないね。嫌なところに触れちまった。あたしゃこんな自分の住む場所を直接教えもしないような男を信じたりはしないけど、ティーちゃんが信じるっていうんなら何も言わないよ。ただ、同じことは繰り返さないことだね」
声と、音が聞こえた気がした。何を言っていて、何の音だったのかはわからないが、体が突然浮いたことでこの話が終わりを告げたことだけを知覚する。
***
「様々なことに合点がいった。まさかそんな事情だったとはな」
声が届いたのは、しばらく経ってからのように思えた。
外を見ればすっかり暮れていた空は白みはじめている。
「親に捨てられて奴隷に落ちるなど、同情もできん」
「……」
「現金な奴だということも分かった。粗方、親に大切にされていなかったことを受け止めきれなかったんだろう? そこへ、丁重に扱ってくれそうな主人が現れた。安心もするわけだ。現実逃避にはちょうどいい。自分の価値は保証されるわけだからな」
何も、言い返すことが出来ない。
「お前は、自分が大切にされることを当然として生きてきたわけだ。大切な人から大切にされなかったこと。他人から口にされると、より一層重みをもつ。怒りや失望より先に、自分が大切にされていなかったことへの拒絶感が先に出たか。そしてそれを恥じ入るくらいには、器も小さい」
この人は、気遣いが出来ても性格が悪い。繕ってきたものを一枚一枚剥がされていく。
一息にこれまで抱えた絶望と、カザフスドアという主人に希望していたことを全て言いまくられて、顔を上げることも出来ない。
一体どんな表情をしているのだろうか。怖くて、見ることが出来ない。
魔法で体を治されたとき、安心した。
服を用意されたとき、安心した。
魔法を教えてもらえると聞いたとき、安心した。
奴隷扱いしないと聞いたとき、食事を用意してもらったとき、食事の用意を任されたとき食事を褒められたとき片づけを一人で任されたとき街へ連れて行ってもらえると聞いたとき。安心したのだ。
何より、私以前に住んでいた人がきっと大切にされていて、丁重に葬られていて、今でも大切にされていると知ったとき。
この人ならば私を捨てない。私が大切に思っても、一方的に捨てられることはないと。大切にしてもらえると期待して、安心したのだ。
はじめて出会った時の、モノを見る目を見なかったことにして。私の中の浅ましさが漏れてしまわないようにして。
据えた匂いの寝台には、なかなか朝陽が差し込まない。小さく音を鳴らした風は、どんどん私から体温を奪っていくようだった。
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