1.小間使いは光を見る
その昔、父はこの大陸で最も大きな力を持つ大国ガディアの軍にいて、それなりの地位と金を持っていたらしい。
帰りこそ遅いものの、立派な仕事を果たしたと柔らかく微笑む父に、それを優しく出迎える母。
庶民の中では比較的裕福な、そして温かな家庭の下で暮らすことができたのは、私が十の歳を重ねる頃までだった。
その年の寒冷期は例年よりもずっと早くて、そして長かった。
雨季が十分でなかったことも重なり、ここ百年では一番といわれる大飢饉と、王都で発生した病の流行。
如何に大陸一の大国ガディアといえど大自然の前では無力。その年に命を落とした国民はゆうに万を超えると言われた。
そうして失われた命の中には、私の大好きだった母親のものもあった。
庶民の中では裕福だったほうだ。多少苦しくとも飢えるようなことはない。であれば、母の命を奪ったのはその年に発生したもう一つの災害のほうだ。
寒冷期に入り、母の体調は芳しくないように思えた。それでもこの飢饉を乗り越えるために、父は仕事を休むことなどできない。
母の隣で家事を手伝う私が異変に気付いた時にはすでに手遅れだったのだと、吐血し倒れた母を診察した医者は父に告げた。
その時の父の慟哭があったから、荒れた家庭でもなんとか生きていこうと思えたのかもしれない。
そう思えるほどに父は悲しみ、途方に暮れ、酒を飲む量が増えていった。
母が目を覚ました時だけ一言二言やり取りをし、水を与え、眠りについた母を名残惜し気に一撫でし、また酒に溺れた。
私に出来ることは何もなかった。せめて暖かい思い出の詰まった家が汚れてしまわないように、父が散らかした後を片付け、僅かな硬貨を握りしめて食料を買い求めた。
母は暖かな日差しが差し込んだある朝、眠るように息絶えた。
その頃には、父の目に私の姿など映っていなかった。
***
目を覚ましたのは小奇麗な寝台の上だった。
顔のすぐ隣にある小窓からは暖かな陽が差しており、向こうを覗けば私の体の何倍あるか分からないほどの木々が聳え立っている。
こんなに心地よい目覚めはいつぶりだろうか。季節が迷子になってしまったかのような陽気に、つい口からあくびが漏れてしまった。
周囲を見渡せば、まるで見たことのない小部屋。あるのは小さなテーブルと椅子に、時間を示す変色石。それから、空きが目立つ小さな本棚くらい。
どうしてこんなところにいるのだろうか、と半開きの目をこすり、体にかけられた真っ白な布を払って体を起こすと、着ていた丈の短い襤褸から左腕が、いや、正確には左腕に刻まれた焼き印が目に入った。
とたん、急速に頭が冴え、自分の置かれた状況が思い起こされる。
――たしか私は、奴隷商に売り飛ばされて。
そこまで思い出せば、陽の暖かさなど一瞬で感じられなくなってしまう。
背筋が震えるような寒さと、絶望感を煽る森の闇を思い出して、先ほど払った掛け布を手繰り寄せていた。
「目が覚めたか、
窓とは反対側から軋む音が聞こえたと思うと、木製の扉を開けて白いローブに身を包んだ男が姿を見せる。
見た目はまだ若いように見える。私よりも背が二回りほど高くて、不吉の象徴である黒髪は目にかかりそうなくらいまで伸びていた。
おそらく同じ
「それとも、自分の立場を思い出してのことか? 安心していいぞ。俺は確かにお前を買ったが、取って食おうというわけでもない。ついでに言えば娼婦の真似事をしろというわけでもない。頼みたい仕事があるだけだ。必要があればその焼き印も消してやっていいぞ」
焼き印、と言われて左腕を摩る。焼き付けられた際の痛みは一生忘れることが出来ないだろう。
それにしても今この男は何と言っただろうか。
女の奴隷を求める理由などそう種類のあるものではない。まだ十四年しか生きていない私でも、そんなことは分かりきっていた。
これから物のように扱われ、要らなくなれば廃棄される。そんな絶望感はあっけらかんとした男の宣言で少し、緩まる。
「……では、なぜ。……奴隷、を?」
数週間口を開いていなかったからか、自分の口から漏れた音は随分と酷い。擦れ切った声は何とか相手に届いたようだったが、久しぶりに声を出した喉は痛みを訴え、咳込んでしまう。
主人となる人物の前で失礼を働いてしまっただろうか、と慌てて口に手をやるも、男は特に気にした様子も見せない。
「ふん、まずはそのボロボロの体を直すところからはじめねばならんな」
白いローブの男は鼻を鳴らすと、骨と皮しかないような細い腕を上げ、小さく何かをつぶやいた。
瞬間。窓から差していた光が強くなり、部屋に満ちていく。
今になって思えば、あの森は闇に閉ざされてしまっていた。外に広がっているのは背の高い木々。陽の光など届くはずがない。
であれば、先ほどから差し込んでいた光は人為的なものだったのだろう。
先ほど失ってしまった暖かみが私の体を包み込むような感覚を受けながら、私は納得を得ていた。
くすぐったさと優しい気持ちよさが体中を撫ぜたかと思うと、喉の痛みはすっかり消えさっている。
「光の……
この世界を捨て、姿を消した神々の残した奇跡、
世界に溢れる多様な属性の力を操るそれらの中でも、光を操ることのできるものは少ない。
「別にそう珍しいものでもない。あの国が
これだから、と男はため息を一つ。事実、
母数が少ないのだから、珍しい属性のものなど見れる機会があるはずなかったのは確かだ。
「いいか、お前はこれから慣れなければならん。お前はこれから俺とこの森で暮らすのだ。この程度のことで驚いていては命がいくつあっても足りんぞ」
続けて男が手を上げると、心地よい風が吹いて窓が開け放たれる。
外からは歌うような鳥の囀りが聞こえ、私は見知らぬ体験の嵐にすっかり心を惹かれていたらしい。
窓の外を改めて覗いてみれば、先ほど思い出していた絶望を現したような闇ではなく、目覚めたときに感じた暖かな自然が広がっている。
「ふん、悪くない顔になった。素体は悪くないのだから、死んだような顔ばかりするんじゃない」
「あ、あの、私、奴隷として売られて、これから酷い目にばかり遭うと思ってたから……」
「何を言う。俺がそんな悪人に見えるのか。外聞を気にしてローブも白いものに変えたというのに。この森の闇で白い服装などしてみろ、目立って目立って仕方ない。貴様をここへ運ぶまでに三度は魔物どもが襲ってきたぞ」
そう言ってはローブをつまんで見せる男の様子は茶目っ気たっぷりで、そしてそんなリスクを負っても私の見る目を気にしたというところが可愛らしく感じられて、思わず吹き出してしまった。
すると男はなんだと照れたような怒ったような表情になる。森の中に住む魔法使いは、怖いどころか可愛らしいものなのかもしれない。
「ごめんなさい、自己紹介がまだでした。私はテティスと言います。まだ十四で、その、出来ることと言えば家事くらいなものですが……。思うように使っていただければ、と思います。どうかよろしくお願いします」
寝台から降り、表情を整えて行った渾身の挨拶。男はほう、と一言。何に対してかはわからないが、感心したように見えた。
「礼儀正しいのはいいことだ。
私を買った奇妙な隠者は、わざとらしく大仰に構えてはそれは柔らかく微笑んでいた。
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