神なき世界の紀行録

音和

Ⅰ.隠者と小間使いの出会い

0.少女は売られる

引きずり倒され、跪いた私の目の前に広がっていたのは、途方もない闇だった。


***


少女が売られたのは、本当にくだらない理由だった。


毎夜娼館で刹那の快楽を貪り続ける父の浪費は、寒冷期で値上がりした食料を手にすることも難しくなるほど酷いものだった。

この時期に娼館へ足を運ぶなど、貴族でもよほど頭のおかしなものでしかしない、とうとう気が狂ってしまったのだ、と周囲からは煙たがられていた。

もちろん、少女の家は貴族などではない。貧しいことはなく、庶民にしては裕福ではあったものの、娼館に通って高くなった食料を親子二人分買い続ける金など、どこにもなかったのだ。

だから、売られた。単純で当然の話だ。二人よりも一人のほうが、食費がかからないのだから。

使い古された衣類一枚だけを着せられ、見知らぬ奴隷商に売り飛ばされた少女につけられたのは、奴隷を表す左腕の焼き印と、十数日分の食料が買えるかどうかといった程度の安値。

その先には何もない。人としての生を自らの父親の手で終わらせられた絶望感だけが少女を覆いつくした。




「いいか、お前はここで待っているんだ。お前を買った男はここにお前を置いて行けと言った。しばらくすれば迎えに来てくれるだろうよ」


都市から随分と離れ、国家が管理できずにいる森の入口。幼いころ、この国で暮らす者なら何度か聞かされたことがある。


曰く、その森に入ってはいけない。

その森に入っては帰ってこれない。

森の闇の中には悪い魔法使いが住んでいる。

悪さをすれば魔法使いに食べられてしまうぞ。


そんな童謡が本当かどうかなど、誰も知らない。なぜならこの森に立ち入るものなどいないから。

地図にすらその詳細が欠片も記されていない広大な森。

コ・レビリスタ大森林。目の前の闇は、そう呼ばれていた。


「まァ……もしかしなくてもここで待っている間に魔物や獣に食い散らかされちまうかもしれねえがなあ」


父親に売られてから一度も言葉を発していない少女が、さらなる絶望の前にどんな反応を示すのか見たかったのだろうか。奴隷商の使いはやけに饒舌だ。

しかし、胸いっぱいの絶望感と、先の見えない闇に飲み込まれそうで呼吸すら忘れそうな少女は一言も返すことができないでいた。

黙りこくって動く素振りもなければ死体や人形と変わらない。語りかけても一切の反応を示さない少女に嫌気がさし、暗くなり始めた空を男が眺めていると、森の中から獣の鳴き声のような何かが響いて、思わず体がびくりと跳ね上がった。

それを感知できていたからだろうか。続けて少女の背中を襲った衝撃と鈍い痛みにも驚くことはなかったし、心が乱れることもなかった。


「薄気味悪ィ。おい、俺は帰るからな。そのままそこで動くんじゃねえぞ、この木偶が」


今でこそ襤褸と汚れた身なりをしているが、元はといえばかなりの上物。あわよくば少女を痛めつけて楽しもうと考えていた使いも、これほどまでの反応のなさと森の闇を前にしてはそんな気が完全に失せてしまっていた。

その場から動こうともしない少女へ振り返りもせず、男は一人乗客の減った引き車に乗り込んだ。

ほどなくして少女の耳に蹄が地を蹴る音が聞こえても、動く気配を微塵も見せない。

もうすでに心は壊れかけてしまっている。生きていることだけは証明するかのように瞬きだけを繰り返す瞳は、自らの行く先を覆う闇だけを見つめていた。


だから、その人物に気づくことはなかった。

既に蹄の音は遥か遠くに消え失せたころ、不意に少女の体が軽々しく持ち上げられた。


「なんだ。思ったよりも小さな娘だな。山に暮らす小人どもかと思ったぞ」


闇から現れたにしては違和感の強い、そしてまるで似合っていない白いローブに身を包んでいたことと、その男の目は、道具の品定めをする時のそれのようだったことだけ、この時の少女は覚えていた。

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