婚約者は可哀想。
朝霧
私の婚約者は可哀想。
私の婚約者は可哀想な人である。
容姿端麗、頭脳明晰、性格は若干……いやだいぶ悪いがいつもは猫をかぶって聞き分けのいい小悪魔系我儘美少年のふりをしているので、割と人に好かれている……らしい。
猫をかぶっていると言っても本性は悪人のそれではない、むしろ根は真面目で身内にはとことん甘い性格だと私は見てる。
私の婚約者は人に愛される人である、よほどのことがない限り栄光の道を行く人である。
だけど、いいや、だからこそ可哀想に。
神様、というか王様は酷だ。
あんないい人の婚約者を、こんな私にするなんて。
ガリガリとペンを走らせる。
文字を、円を、線を、青色のインクでもってその術式をページに刻み込む。
魔道書の複製はもう少しで終わる。
返却まで残り三日、このペースなら期限までには何とかなるだろう。
遠くから声が聞こえてきた気がしたが、気のせいだと断じてペンを走らせる。
複製した魔道書はこれで7冊目。
魔法の効果を高めるための媒介である杖を女が手に入れられないこの国で私が他に用意できる媒介はこれしかない。
だから丁寧にかつ迅速に仕上げていく、この魔道書が今後の私の命綱なのだから。
あの計画を思いついた時には一瞬馬鹿馬鹿しいと思ったが、それでも私にとっては名案だった。
背後から甲高い声で名前を呼ばれた。
さすがに気のせいではないだろうと振り返ると、眦を思いっきり吊り上げた母上が立っていた。
「あれま、母上。どうしました?」
女は砂糖菓子のような存在であるべきであると私達に言い聞かせてきた母上ではあるが、母上は砂糖菓子とは言い難いだろうと思い始めたのはいつ頃だったか。
「どうしたもこうしたもありません。こんな日にあなたは何をしているのです」
「趣味ですが?」
魔術を学ぶのが私の趣味だ、女の子が魔術なんてと悲鳴をあげられた回数は数えられないが放っておいてほしい。
母上だって私に何を言ってもどうしようもないのはわかっているはずだ、なのに何故今日に限って……
と、そこまで考えて気付いた。
今日は月に一度のお茶会だった。
「ああ……そうでしたすっかり忘れてました。ごめんなさい、すぐに支度をするのでどうかご容赦を」
椅子から立って頭を下げる、母上はまだぷりぷりしてたがとりあえず許してはくれたらしい。
三女様が男子であったのであればどんなに良かっただろうか。
そんな言葉を何度耳にしたかはわからない。
自分だって男だったらもっと好き勝手できただろうからそっちの方が良かった。
だけど女として生まれてしまったことは仕方ない。
親を恨んだって仕方ないし、神様を憎んでもどうしようもない。
だから妥協するだけで、妥協させるだけだった。
甘ったるい焼菓子の後味を紅茶で流し込んで、談笑をしながらそう思った。
早く部屋に帰って魔道書を写し終えてしまいたい。
だけど今日は月に一度のお茶会だ、親同士が決めてしまった婚約者との月に一度の定例会だ。
婚約者の二人になりたいという言葉で使用人達は追っ払われた。
追っ払った割に特に秘密の会話も何もない。
ただ、いつものように文句を言われるだけだ。
可愛げがない、無愛想、髪がイマイチ、ドレスが似合っていない、エクセトラエクセトラ。
性格面で文句を言われるのは別に構いやしないが、髪型をセットしたのもドレスを用意したのも私ではないのだから、その辺りは私に文句を言っても仕方がないと思うのだけど。
「ほんっと、君ってば僕の婚約者の自覚がないよねー?」
いつも通りそう締められた言葉に申し訳ありませんとだけ答えておく。
舌打ちをされたがいつものことなので気にはしない。
ただ同情するだけだ、ただ可哀想にと思うだけだ。
可哀想に、可哀想に。
だけど、あと二週間。
あの計画を実行したら、もう私がこの人を可哀想にと思う必要はなくなる。
そう思うと少しだけ笑えた。
笑う私をあの人は不気味なものを見るような目で見た。
「……笑うなら、もっと上手に笑え。昔は笑えば可愛かったのに」
そんなコメントをされてしまったから、きっとよほど気味の悪い笑顔だったのだろう。
……あれ? そういやこの人の前で笑ったことなんてあったっけ?
可哀想、そんな言葉を聞いたのは婚約が決まった直後。
声の主は二人いる姉上達のものだった。
当時、自分よりも、というか見たことのあるどんな少女よりも可憐な見た目の婚約者ができてしまった私は、二人が何を可哀想に思っているのか気になって耳を立てた。
聞こえてきたのはこんな言葉の羅列だった。
――可哀想に、可哀想に。あんなに美しい子の婚約者がよりによってうちの愚妹だなんて。
――ええ、とっても可哀想。だって、あんなに可愛げがなくて、無愛想で。
――不気味で、女のくせに魔術を学びたがる変わり者を押し付けられてしまうなんて。
――可哀想に、可哀想に。
それを聞いて、そりゃそうだと私は思った。
女は男を癒す者、故に砂糖菓子のような存在であれ。
そう言われて育った私は、真逆の方に育っていた。
確かに、こんな出来損ないの女を押し付けられたのだから可哀想にもほどがあるだろう。
その時からずっと、私の中であの人は可哀想な人だった。
計画は完璧だった。
抜け目もなく、失敗もなく。
2冊目の魔道書による転送魔法は成功。
隣国の友人Tによる協力により、身分のでっち上げも成功。
謎の旅人Xとして魔術師ギルドへの登録――大成功。
お堅いうちの国とは違って男女平等を掲げる自由の国への逃亡は、そこまでは完璧だった。
友人T以外の女性の魔術師を初めて見て興奮して、物語でしか見たことがない女戦士を目の当たりにして飛び跳ねながらはしゃいだ。
髪を切って、7冊のうち3冊の魔道書を売っぱらったお金で如何にも魔術師っぽいローブやらなんやらを買い揃えて――
ここまでは順調だった、順調すぎて笑えるくらい順調だったのだ。
だけど、ローブを着て、さあ最初のお仕事を受けてみるかー、と。
そう意気揚々と街を歩いていたら、頭に強い衝撃が走って、目の前が真っ暗になった。
息が苦しくなって、目が覚めた。
目の前にはひどい形相の婚約者の顔。
喉を締め付けるのは暖かく、長い指先。
首を絞められているのだと気付いた。
「……やっと、目を覚ましたか」
「……ここ、どこです?」
婚約者は私の顔を睨みながらそう言った。
私の首を絞める力は緩んでいたから、ひとまずしばらくは殺される心配はないだろう。
「僕の部屋」
「さいですか」
さてどうするかと次の手を考える。
見つかったのは予想外ではないものの、とっ捕まったのは予想外だった。
おかしいな、私を見つけたところでとっ捕まえるメリットは彼にはないはずなのだけど。
婚約者である私が消息不明――いつの間にか影も形もなくなっていたら、彼はもっとちゃんとした婚約者を手に入れることができる。
そうすれば私が彼を可哀想だと思う必要はなくなる。
そりゃ最初は大騒ぎになるだろうし、誘拐を疑われて捜索されまくるだろう。
だけど、まさか隣国の市井に混じっているとは思うまい。
そう思ってあの計画を思いついて雲隠れしたわけだったのだけど、何をやっているのだろうかこの御人は。
さて、どうするかと思考回路を回す。
「……何故逃げた?」
「……諸事情あって」
流石にあなたが可哀想だからと言うのはどうかと思ったので言葉を濁した。
そろそろ離れてくださいと言おうとしたところで、彼がぎりりと歯噛みした。
「また……その目……」
目?
私の目がどうしたのだろうか、特に変な目で見ているつもりはない。
彼が指先に込める力を強める、細い指が喉に食い込んで、少し苦しい。
「なんでお前はいつもその目で僕を見る!!? なんで……いつも……いつも可哀想なものを見る目で見てくるんだよ……!!」
「……だってあなた、可哀想な人じゃないですか」
そんな言葉がいつの間にか溢れていた。
激昂していた彼が私の顔を見下ろして、表情を強張らせている。
「ど、どういうこと……? 僕の、どこが可哀想だって? 可哀想だっていうのなら」
「だって、私が婚約者なんですよ? こんな女としての出来損ないが。可哀想以外のなんだってんですか?」
そういうと、彼の顔が凍りついた。
しばらくの間、彼は何も言わずにその顔のままで私を見下ろして。
ふと正気に返ったのか、その綺麗な顔を怒りで歪めて口を開き――
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